••✼••
「えぇ〜と、つまり、交通事故のショックで記憶喪失になった私を、体の方が自分だと認識できなくなっちゃってるってこと?」
膝の上にちゃっかり居座ったシリウスを撫でながら、理莉はストレッチャーの上に寝かされた自分の体に視線を向ける。
一時処置が終わったのか、救急隊員の合図でストレッチャーが移動を始めると、救急車の中から聞こえ始めた心電図モニターの音に、自分はまだ死んでいないのだと、理莉はほっと胸を撫でおろした。
ただ、同時に疑問が沸き上がる。とても重要で大切なことだ。
「あの…ですね?シリウスくん。私、自分の名前もわかるし、記憶喪失ってのとは、ちょっと違うんじゃないかなぁ…なんて、思うんだけど……」
名前どころか年齢も、なんだったら、先週やらかした期末試験の点数だって覚えている。
果たして、これは記憶喪失と呼べるのだろうか?
そもそも、記憶を失った実感がないのに、記憶を取り戻せとは、無理難題にも程がある。
ところが、そんな戸惑いには興味がないとばかりに、シリウスは伸びをして目を細めると、今度はここを撫でてとばかりに、ゴロンとお腹を上に向けた。
「う~ん、記憶喪失っていっても、名前とか、そおいうんじゃないんだよ。えっとね、なんていうかぁ…あ…わぁ~ソコ、気持ちいい~」
「ココ?」
「うん…そう。そこ…つまり、“理莉ちゃんが理莉ちゃんであるための記憶”っていうか…ソコ…なんだよね」
「私が私?名前じゃなくて?」
「ぅん。まあ。その記憶がないと、理莉ちゃんじゃないっていうか……」
「……」
――なんだか、さっぱり、わからない……。
思考に理莉の手が止まる。もっと撫でてと、シリウスが鼻を鳴らすけれど、再開される気配はない。
シリウスは残念そうに首を起こすと、
金色の瞳に、不安そうな自分の顔が映っていた。
雪降るこの街並みのように、白いベールに包まれて滲む、
こうなって初めて、理莉は自分の
きっと、もう、この瞳以外に、今の自分を映し出すものは、何もない。
シリウスだけが、理莉の存在を示す、唯一の証明であり、焦点だった。
それだけで、例え今まで話してくれた事が全て嘘だろうと、シリウスを信じようと思えた。
理莉はゆっくり口角を上げると、ほんの少し目元を細め、意図的に金眼の中に笑顔を作る。
「わかった!……まぁ、よくわかんないケド、とっても大事な記憶ってことで!それを思い出せばいいんでしょ?」
「そうそう!」
シリウスは褒めるように数度、理莉に頬ずりをすると、膝の上から、ひらり……飛び降りた。
救急車が動き始めたことに気づくと、理莉のスカートの端を咥え、早く早くと引っ張る。
肉体と魂が離れるのは生命の存続にかかわる。それは、時間だけでなく距離もそうだ。
再び響き始めたサイレンの音に
突然、その場に縫い付けられたように、理莉の足が拘束される。
「ええっ?やだぁーー!もおっ!今度は何い⁉︎」
足元を見ると、理莉から伸びた影に、一本の光る
物質的な支配を超えたプシュケー(霊魂)には、出来るはずのない影。
「な、何コレ……」
明らかに異質なソレは、真夏に焼き付けられた影よりも遥かに濃く、黒く、直下の路面に張り付いていた。
そして、その漆黒を決して逃すまいと、光の粒子を発しながら刃身が深く、強引に、
影が、苦痛に波打ち、蠢めく。
理莉の中で、――ザワリ……何かが騒めく。
『アァ゙あアアあ゙ああーーーッッ‼︎‼︎』
直後、誰ともわからない慟哭が、理莉の中に沸き上がった。
同時に恐怖、悲嘆、憎悪。この世の、ありとあらゆる負の感情がどこからともなく
「ゃあぁああああーーーーーっッ‼︎‼︎」
「このっ!ストーカーめっ!理莉ちゃんを離せっ‼︎‼︎」
異変に気付いたシリウスが全身の毛を逆立て飛び掛かる。輝く刀身に噛みつき、引き抜こうと牙を食いしばる。
だが、刃は微動だにしない。それどころか、シリウスの体が何かに引っ張られ始めた。
唸り声を上げ
極限まで引き延ばされたゴムの
支点。それは、救急車の中に横たわる、未だ意識のない理莉の体だ。
「理莉ちゃん!理莉っ!」
『あアあ゙あ゙ああーーーァーっ!』
豪風に雪が乱れ飛ぶ。
ゴウッ……と、音を立てたかと思うと、瞬く間にその白銀の子犬の姿が掻き消された。
複雑に絡み合う感情の渦の中で、それでも理莉は必死に意識を保ち、叫び、追い、
――待ってっ!
――おいて行かないで!!
――ひとりにしないでっ!!
返事はない。誰もいない。
この世界にたった一人だけ残される、心を蝕む淋しさに、理莉はひざを折り、その場に
影を捕えた聖なる刃は、尽きることなく輝きを増していく。
すべてを尊き光で塗りつぶしながら、ありとあらゆる全ての境界を曖昧にし、そして世界を閉じていく。
世界は闇。
白い、――闇なのだ。
✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼
「……で、今に至る。と…」
優雅に紅茶を一口飲むと、海斗はティーカップを音も立てずソーサーに置いた。
顔を上げて、真正面に座っている理莉を見つめると、ニコリ…、穏やかな笑みを浮かべる。
だが、ゴクリ…。理莉は生唾を飲み込んだ。
だって、海斗のこめかみに、先ほどより見事な青筋が立っている。
――超コワい………
その、あまりの居心地の悪さに、つい愛想笑いを返してしまった。
それが、とにかく、良くなかった。
ガタンッッ!!ガタガタッ
ガシャーーンッッツ!!!!
大きな音が響いたかと思うと、理莉の目の前のテーブルが真横に吹っ飛んだ。
「だから、今の今まで、“異世界スローライフ”とやらを、楽しんでいたとっ!そう言いたいんだなっ?お前わ!!ふざけんなあっっ!!!!」
「ひぃいいっ!!ごめんなさいっ!!!!」
「うるっせえっ!このバカッ!その花が咲いてる脳みそに、今すぐ除草剤撒いてこい!!」
「ごめんなさいぃいっっ!!」
理莉が慌てて倒れたテーブルの影に避難すると、お気に入りのティーカップが、割れて足元に転がっているのが目に入った。ジワリ…涙がにじむ。
――やだっ!もう、怖いっ!!このヒトってば、怖すぎるっ!!
思い返せば、海斗は子どもの頃から暴君だった。
これまで幼なじみとして過ごしてきた理莉の不遇の日々が、走馬灯のようによみがえる。
小学校では、お気に入りの文房具とかヘアゴムとか取り上げるし、給食のおやつなんか、毎回貢がされていた。そのくせ、嫌いな食べ物は全部に押し付ける。理莉だってピーマン嫌いなのに!
頭の出来は決定的にあちらのほうが上等なので、中学校は絶対に近所の公立なんかに通わないと思っていたのに、なぜか3年間も同級生だったうえに、今は同じ高校で毎日一緒に登校までしている。しかも、海斗のカバン持ちというオプション付きだ!
心底、お関わり合いになんてなりたくないのに、なぜかこの年になっても、まだ幼なじみなんかをやっている。
なぜ?
どおして!?
腐れ縁なんてあんまりだっ!!
理莉の目から、ついに涙がポロポロと零れ落ちる。
確かに、いろいろ忘れていたのは良くなかったと思う。でも、今の今まで、異世界にいることを、疑問にすら思わないなんて、そんなこと、ありえるのだろうか。
絶対に何かがおかしい。普通じゃないのだ。
そんな理不尽をわかってくれない。わかろうともしない。
責めて怒鳴るばかりの幼なじみに、理莉はだんだん腹が立ってきた。
「早く思い出せっ!このバカッ!」
「……ぅゔう~、うわぁあああ~~~~~んっっ!!!!」
床の上に突っ伏して、理莉が泣き叫ぶ。ギクリと海斗が一瞬怯んだ。
「な…っ、泣くなバカっ!!泣いたって何ともなんねぇんだよっ!!!!」
「バカばか言わないでよっ!バカっ!!…かっ、海斗くんのっ…バカあっ!!!!」
「俺わバカじゃねえ~っっ!!」
「そ、そんなコト、言われたってねえ!…わたっ…私っが…私である記憶なんて、…わ、わかんないよ…だって、わ、私だって…もぉ、何がなんだか…う…、うわぁあああああ~~~~っっ!!!!」
「……ああ゛~~っ!めんどくせえなあッ!」
海斗にとっても理莉は幼なじみだ。こうなったら理莉が泣き止むまでどうにもならないことを、海斗も経験上よく知っている。
その時だった。
背後から、場の空気など意に介す素振りすらない、妙に朗らかな声が室内に響く。
「リリ
シルバーグレイの髪をした10歳くらいの男の子が、玄関の扉の前に立っている。