ランタンを持ち、夜を背に現れた少年は、思いもかけない自宅の様子に目を見開いた。
村長の家という事もあり、村の中ではそれなりに大きいとはいえ、リビングなどはなく、玄関を開ければすぐにダイニングだ。
床の上に飛び散った紅茶に割れたティーセット。部屋の壁際にまで転がった椅子と横転したテーブル。その側で、この家で面倒を見ている身寄りのない娘が、床に突っ伏して泣き崩れている。
さらには、見知らぬ青年が一人椅子に座り、無言でその様子を眺めているのだ。
こちらを
「こっ、ここ、この不届きものがあっ!ここを夜の女神の居住まいと知っての狼藉かああっ!かあっつ!」
少年の後ろに、こぢんまりと立っていた老人が、突然、小柄な体格からは想像できないほどの声を張り上げた。
杖を振り回し怒りの止まぬ老人をなだめつつ、その少年、オルバー・ジャバイリタは、見知らぬ青年を刺激しないよう慎重に視線を移した。
恐ろしいほどに整った
オルバー達に気づいているはずなのに、全く眼中にないのだろう、長い足を組み、尊大に椅子に座っている、その姿を、無遠慮だと責める気にすらならない。
ただ、
この春から国境付近に出稼ぎに出ている、お気楽で豪胆な義父の言葉を思い出す。
『よく見れば、本当に危険かどうかはわかるもんさ~』
強盗が入ったかのような惨状にもかかわらず、やはり理莉の周囲に危険なものは何一つない。
オルバーはランタンを老人に手渡すと、意を決して室内に入った。ここでただ突っ立っていてもどうにもならない。
理莉の隣に膝を抱えてしゃがみ込むと、顔を近づけてそっと耳元で囁いた。
「リリ姉……、何やらかしたの?早く謝ったほうがいいよ、たぶん、許してくれるから」
今まで微動だにしなかった青年がピクリ…と反応した。目線だけゆっくりとオルバーに移動させると、スウ…と目を細め、鋭く睨みつける。
「うわ⁈」
一瞬で部屋中の空気が張り詰めた。と同時に、上から押しつぶされるように体が重くなる。堪えきれずにオルバーが床に手をつくと、全身から一斉に冷汗が噴き出した。
ここの家主でもある老人など、先ほどの威勢など見る影もなく、とうに杖を握りしめ床にへたり込んでいる。
「え?ちょ…怖っ……、リ…っ、リリ姉!ヤバいって、何とかしてよっ!姉ちゃんの彼氏だろ!ねえってば!」
理莉にとってそうだからと言って、この青年が自分達にも危害を加えない保証はどこにもなかったのだ。
オルバーは自身の安易な状況判断を猛省しつつ、最後の望みとばかりに理莉に泣きついた。必死に手を伸ばし、理莉の足にしがみつく。
この場で頼れるのは理莉しかいない。そして、実際そうだった。
「うわあん!リリ姉ぇっ、助けて!」
「このガキっ…!さっさと離れっ……」
「……彼氏…じゃない。…違うもんっ…、かっ海斗くん、なんか……」
泣き嗄れ声にオルバーが顔を上げると、目の前に理莉の顔があった。
涙で濡れた前髪を額に張り付かせ、目の周りを真っ赤にして、ぽろぽろと涙を流している。
人目もはばからずに泣きじゃくる姿を目の当たりにし、オルバーは驚きを隠せない。呆然と理莉の顔をみつめ、そして気づく。体が軽いのだ。
何が起こったのかと、カイトと呼ばれた青年の方を見ると、一見まったく変わらない様子で座っているにも関わらず、よく見れば、両手に爪が食い込むほど握り締められている。
――どうしたんだろう?
何かを
ただ、海斗はさらに両手を強く握り締めると、グッと首をそり上げ天井を仰いだ。一呼吸おくと、ゆっくりと正面を見据え、手をほどく。
軽い舌打ちとともに立ち上がると、腕を組み二人を見下ろした。
「……わかった。手伝ってやる」
「「……、え?」え⁈」
オルバーと理莉、ふたり同時に声が出た。
驚いてオルバーが声の主を振り返ると、理莉がいつの間にか顔を上げ、海斗を見ている。
――なんで、この人が?と、言わんばかりの表情だ。
「……ぇっと。遠慮しときます……」
「はあ?ふざけんな。バカ理莉。この俺がわざわざ手伝ってやるって言ってんだよ」
「……別に(だって怖いし…すぐ怒るし)。自分でちゃんと出来…る(と思う…)し……」
「できねえよっ!だからっ、今!ここでっ!こうしてるんだろうがっ‼︎」
「……すぐ怒る…」
「なんだと?怒ってねえ~よっ!なあっ⁈」
そう言って、海斗がオルバーを見た。理莉もオルバーを見つめる。縋るように……。
「……ええ(なんで、僕?)」
オルバーにしてみれば、ついさっき、自宅に帰ってきたばかりのうえ、事情も状況も全くわかっていないのだ。いきなりこっちに振らないでほしいと、本気で思う。
とはいえ、さすがに怒っていないというのは無理があるのではないだろうか?
板挟みの中、オルバーがどう返事すべきか思いを巡らせている時だった。
再び、何かがオルバーの体に重く圧し掛かる。
「うわあっ!……リ、リリ姉?」
ぐらり……、理莉の体がオルバーに倒れ込んだ。咄嗟に支えるが所詮少年の腕力だ。何とか勢いを殺すも堪えきれず床に倒れ込みそうになる。瞬間、海斗がオルバーごと理莉を支えた。
「理莉っ!」
支えている腕は力強いのに、そのくせ何かに怯えるように海斗の手が震えていた。
それが、何故かオルバーの印象に残った。
「理莉!おい!り…、り?ああっ!……信じらんねぇ、コイツ、寝てやがる……」
「え?」
まさかと思ってオルバーが耳を澄ませば、自分に体を預けたままスヤスヤ眠る理莉の寝息が聞こえてきた。
「……本当だ」
「この状況で寝るか⁈普通!ああ〜もう、なんなんだよ!いつもいつもっ!……クソっ」
乱暴な物言いとは裏腹に、海斗はオルバーごと理莉をゆっくりと床に横たえると、心底安心したようにそっと息を吐いた。その様子にオルバーは確信する。
――そんなに心配なら、喧嘩なんかしなきゃいいのに……
カッコをつけて状況判断なんかするよりも、案外直感の方が正確だったりするものだ。それに、最初の判断も全てが外れていたわけでもなさそうだ。
オルバーは、ようやく緊張を解き、安堵の息をつくと、理莉をつかんでいた両腕を緩める。
床に寝転んだまま玄関先に視線を移すと、異変に気付いた数人の村人が駆けつけて来ていた。
腰を抜かした老人を起こし、海斗をみるや否や警戒もあらわに、近くにある棒っきれを手に取る。
――いやいや、大丈夫だから。この人、リリ姉にしか興味ないから。
さっきから感じている背中の違和感に振り返ると、海斗がオルバーの背中を、その長い足でグイグイと押していた。案の定、自分に向けられた敵意などどこ吹く風だ。
「なに見てんだ、くそガキ。さっさと、そいつから離れろよ」
「……はあ」
返事とも溜息ともつかない音を吐き、床から起き上がると、オルバーは眠る理莉をじっと見下ろした。
猛吹雪の中、雪に埋もれていた女の子。
かろうじて名前だけは覚えていたものの、他の記憶は曖昧で、見たことのない身なりの、不可思議な存在。
とりあえず祖父である村長の家で預かることになり、一緒に生活して半年。すっかり忘れていたが、普通に考えれば、不安で当たり前なのだ。それなのに。
――リリ姉が泣くのなんて、初めて見た……
きっと、村人の誰もが見た事ないはずだ。それくらい、いつも笑っている印象が強かった。
「いろいろ聞きたい事がある。お前はまだ寝んなよ」
海斗はそう言い放つと、どこから取り出したのかブランケットをバサリと理莉の上に落とした。頭まですっぽりと、まるで、隠すかのように。
そして、クルリと向きを変え、玄関の方へ歩き始める。集まってきた村人は十人を超えていた。オルバーもやや諦めがちに立ち上がる。
今夜はまだ眠れそうにない。
••✼••
急に目の前が暗くなったのだ。そのまま沼に引きずり込まれるように落ちていった。理莉は思う。――疲れていたのかな?
村の人が数年ぶりだと言っていた野菜の収穫に、ここ数日は早起きして手伝いに行っていたから、こんなに眠いのかもしれない。
真っ暗闇の中なのに、なぜか不思議と怖くない。怖いのは…、海斗くんだ。
突然やってきて、頭ごなしに怒るのは、昔っから変わらない。意地悪だし、すぐ命令するし、話はほとんど聞いてくれないし……。
それなのに。
『……わかった。手伝ってやる』
なのに、なんでそんなこと言うんだろう?きっと、何か裏があるに違いない。幼なじみのカンというやつだ。でも…。
ふと、視線を上げると、理莉は自分が暗闇の中、立ち止まっていることに気づいた。いつの間にか夢の中にいたらしい。目の前に、幼いころの自分の姿が見える。
雪の中うずくまって泣いている。どうして泣いているんだったっけ?
側では、小学生の海斗が眉間にしわを寄せて何やら腹を立てている。
小さいくせに、あの迫力は何なのだろう。少しだけ、笑いが込み上げた。
しばらくすると、怒り終えたのか、小さな海斗が、幼い自分に手を差し出す。
『ほら!手伝ってやるからっ!』
無理やり理莉の手を取ると、引きずるように雪の中を歩き出す。
雪の中、手をつないで歩く。
二人だけの
そういえば、と理莉は思う。
――昔から、本当に困ったとき助けてくれるのは、海斗くんだったかもしれない……
ゆっくりと、二人の姿が遠くなる。
理莉の意識が遠くなる。
そして、暗転。
本当の夜は、まだ明けない。