脳がなくなったのに、なぜだか考えることができている。
しかしこの先のことをどれだけ考えても、俺は何をすればいいかわからない。
かつての村のような灰色の場所を見つけて、誰にも見つからないように息を潜める。
こうしていれば俺は終われるのかもしれない。
誰も傷つけずに済むかもしれない。
だったら、ここでじっとしていた方がいい。
そして夜が明けた頃……不思議な感覚が俺を包み込む。
何かが頭に入ってくる。
空っぽになった頭の中に。
誰かの見た景色。言葉、匂い、味……それらが急激に押し寄せてくる。
それは一瞬のはずなのに、誰かの過ごした時間を急速に体験させられたかのような怒涛の情報量だった。
かつて俺が生きた平和すぎた世界、死して訪れた天上の世界、レベッカが死んだ絶望の世界、そしてこの悪夢みたいな変身を経た世界。その全ての世界に俺はいて、その記憶は散り散りになっていた。
それが今俺の頭の中に飛び込んできたのである。
気が狂いそうになるほどの目まぐるしい刺激の交錯だった。
ただそれも、一瞬のこと。
俺が壊れてしまう前に、それは終わった。
そして俺は、全てを思い出した。
かつてのあまりに贅沢だった普通に飽和した生活、そして唐突な死。
生まれ変わった時、俺はきっと普通じゃない何者かになれると思っていた。
それはまさしく"普通じゃない何者"であったのだが……あまりに想像とかけ離れた転生をしてしまったというわけだ……。
しかし俺はこの世界で何か使命を為さなければならない。
俺の残滓が語った通り、その内容は曖昧すぎる。
何を目的として何をすべきか、その全てが明示されていない。
あの天上で俺を転生させた魔女のような天使は、いずれわかるとだけ残した。
この世界に来ればわかると思っていたが……16年もの間俺は残酷な世界で生きなければならなかった。
そしてその中で使命に関するヒントはひとつだってなかった。
結局記憶を取り戻したところで、甘ちゃんすぎたあの頃の自分に学べるものなんてなにひとつない。
普通がどれだけ幸せか、それすらもわからずに普通から脱却しようとしていた愚かな自分に、反吐が出そうになる。
"普通にする"魔法、ノーマライゼーション。これで村ひとつ分の世界を改変してしまった代償で、俺は"普通じゃなくなってしまった"。
もしあの頃みたいな普通に戻れたなら……。
「……!!」
思考を巡らせていく中で思い立つ。
ノーマライゼーションをもう一度かけたらどうだ?
すぐさま俺は手を上に掲げる。
「……!!!!」
声は、出ない。
発声する器官が無いからってのは今はナシにしてくれ……見ることも考えることもできているのに、なぜ喋ることだけできないのか……。
ノーマライゼーションはもう、二度と使えない。
俺が唯一授かったスキルなのに、一度きりしか使うことができなかった。
触れるもの全てを破壊してしまいそうなほど邪悪な身体は手に入ったが……。
「あ……」
後ろの方で声が聞こえた。
まずい。人に見られたか……?
急いで後ろを振り返ると、俺の肩が空気を押し出し、その風圧でその人物は尻もちをつく。
「う……てて……」
そこにいたのはレベッカだった。
俺を見ても慌てる様子はなく、尻もちをつかされても逃げ出そうとはしていない。
「やっと見つけたぞ。マーク」
汗ばみ上気した顔を見るに、しばらく俺を探し続けていたに違いない。
息を切らしながらもにこりと俺に微笑む。
なぜだ。他のみんなは、俺をマークだとは思わなかった。
憎むべき、殺すべき相手だとして俺を見たのに。
「お前、マークだろ?」
レベッカは、疑う様子もなく近づいてくる。
俺の一挙手一投足は人を殺しかねない。
レベッカなら、尚更傷つけたくない。
だから俺は首を振ることすらできなかった。
「……トォルのこと、攻撃したわけじゃなかったんだろ。わかってたよ。簡単に殺せたはずだったのにお前は追撃しなかった」
どうやらレベッカはあの時、放心していたようでその実しっかりと状況分析していたようだ。
「お前がこんな姿になってしまったのにはきっと理由があるんだろうから……それを探そう。なに、心配するな。私がついてる」
そう言ってレベッカは胸を叩く。
「喋れ……ないんだよな。聞こえてはいると思うんだが……」
俺が何の反応も示すことができないため、レベッカは少しだけ不安そうに呟く。
「よし! 私が絶対もとに戻してやるから!」
しかしすぐに空元気を振りまき俺の耳の辺りで大きく宣言する。
「おそらくだが力が強すぎて動けないんだろ? 度々ここには来てやるから、勝手にどこかへ行くなよ」
俺に釘を刺してからレベッカは帰っていく。
しかし数歩歩いたところで再び振り返りこちらに戻ってきた。
「私を……置いていくなよ」
そう言うとまた来た道を走り出し、今度こそ帰ってこなかった。
置いていくわけ……ないだろう。
むしろレベッカが俺を見捨てないでくれたことが、心の底から嬉しかった。
希望はまだあるってことを強く教えてくれた。
この身体さえ普通に戻れば、またみんなで幸せに暮らせるんだ。
だから俺は、普通を目指す。
あんなに忌み嫌っていた普通を渇望することになるなんて思いもしなかった。
その先に使命があるのか、或いはその過程で使命を果たせるのか。いずれにせよ俺には選択肢はない。
スキルをもう一度使うためにも、元の姿に戻らなければいけないのだ。
ようやく見つけた目標を、今度は決して忘れないように反芻する。
もう一度4人で笑い合うために、俺は、普通を取り戻す。