何か言いたそうにしながらも可愛い笑顔で手を振る朱里に、昂輝は無言で背中を向けた。誰にも見られていないことを確認しながら、足早に教室に戻る。
──七瀬は知らない方が身のためだ。
自分が放った言葉を思い出し、その都合の良さに昂輝は軽い嫌悪感を覚えた。
こんな自分のことを、朱里はよく素直に信じてくれるものだと思う。
……昔から素直な奴だったもんな。
あの頃のことを思いながら誰もいない特別教室を通り過ぎようとした瞬間、ふと過去の景色がそこに重なった。
『一周目の時は誰がいじめられてたの? どんないじめ?』
朱里の声が昂輝の記憶の蓋を開ける。
──俺は格好つけてばっかりだ。
あの頃も、今も。
昂輝は特別教室の何も書かれていない黒板の上部を一瞬だけ睨みつけた。
──
その特別教室の前を昂輝が通りかかったのは偶然だった。どんな理由だったのかは思い出せない。委員会か、職員室に呼ばれて戻るところだったか──とにかく偶然だったことだけは確かだ。
放課後で、誰もいないと思われていた教室からガタッという音がしていたので、気になって顔を覗かせたら見覚えのある女子が「あともうちょい……」と呟きながら黒板にへばりついていた。
彼女は椅子の上に爪先立ちになっていて、黒板の上の方に両手を伸ばしていた。足場が不安定なのか、彼女を乗せた椅子が時々ガタッと音を立てている。
「何やってんの?」
「えっ? うわっ!」
不意に背後から声をかけられて驚いたのだろうか、彼女は椅子の上でバランスを崩した。
昂輝は慌てて彼女が落下する前に抱き止めたが、勢い余って彼女を抱いたまま尻餅をついた。その瞬間、フワリと甘い花のような匂いが彼女の長い黒髪から香っているのを鼻先に感じた。
「はぅ⁉︎ ご、ごめんなさいっ! 怪我はない⁉︎」
大きな瞳が昂輝の目の前できゅるんと丸くなった。自分を助けたのが昂輝だと気づいて、彼女は驚いたようだった。
「坪内くん……」
恥ずかしさと昂輝に怪我をさせたのではないかという心配で、彼女はいっぱいいっぱいになっていた。普段は雪のように白い頬が真っ赤になって、小さな肩が小刻みに震えていた。
同じクラスの、七瀬朱里。
美少女だってみんなが騒いでいる、昂輝には何の興味も示さない珍しい女子。
……なんだこいつ。
昂輝は朱里をまじまじと見て思った。
近くで見ると……めちゃくちゃ可愛いな。
「坪内くん……? 大丈夫? どこか痛い?」
昂輝が黙っていたので、朱里はオロオロした表情を見せた。昂輝はハッと気がついて彼女から手を放した。
「大丈夫。七瀬は?」
「私は大丈夫。坪内くんのおかげだよ。ありがとう」
朱里がホッとしたようににっこり笑う。あまりの眩しさに、昂輝は彼女から目を逸らした。
……何やってんだ。いつものようににっこり微笑み返して、「良かった、心配した」って言えよ。
自分にそう言い聞かせるけど、いつものように上手く笑えない。
どうしたんだ、坪内昂輝。なんかおかしいぞ。
「ところで……七瀬はこんなところで何やってたんだ?」
「あ、うん。実はね……上履きがちょっと」
朱里は恥ずかしそうに視線を上げた。彼女の視線の先を追って見上げると、黒板の木枠の上に上履きシューズが片方だけ乗っていた。
「なんであんなところに? 天気占いでもしてたん?」
「そうそう。あーした天気になーあれ! って、靴飛ばして……んなわけないでしょ!」
「ノリツッコミするんだ? 七瀬」
「坪内くんこそ、意外とボケたりするんだ?」
あははって朱里が明るく笑うから、最初、悲壮感は全く感じられなかった。でもよくよく聞いてみると、そこには決して笑えない事情があった。
「トイレに行って、スリッパに履き替えたあと、戻ってきたらね。上靴が片方だけ無くなってたの。そうしたら、あそこにあるのを見つけてね。ジャンプしても届かなかったから、椅子を使って取ろうとしてたの」
「それって、誰かにシューズ盗まれてあの上に投げ込まれたってことか?」
「そうなのかな?」
「そうとしか思えないだろうが」
しかも、女子トイレで盗まれたなら犯人は女子だ。誰が何の目的で──と言いかけたとき、昂輝の頭の中に河合エリカのセリフが蘇った。
『私は、昂輝くんの味方だからね』
「あいつ、まさか……」
「坪内くん。お願いがあるんだけど」
朱里が申し訳なさそうに手を合わせる。
「ああ、シューズか」
「うんっ。取りたいから肩車してくれる?」
昂輝は一瞬、朱里を肩車をして彼女の太ももに自分の頭部が挟まれた姿を想像した。すると一気に体温が上昇して、耳まで熱くなった。
「バカか! んなことしなくても俺が取ってやるよ!」
昂輝は立ち上がって、その場でジャンプした。シューズの先に手が触れて、二回目のジャンプでそれを落とすことに成功した。
「わあっ! すごーい! さすが坪内くん!」
「何がさすがだよ……」
焦らせやがって。朱里を軽く睨むと、彼女はクスッと可愛く笑っていた。
「坪内くんって……優しいってみんなが言ってたけど、本当だね」
「別に……こんなの普通だろ」
昂輝は彼女に面と向かって言うのが恥ずかしくなって目を逸らした。
「困っている人を助けるのは当たり前だ。きっと、通りかかったのが俺じゃなくて他の誰でも同じことをしたと思うよ。特に、困っているのが七瀬なら……誰だって喜んで助ける。下心も込み込みでさ」
肩車して、なんて言われたら本当にしていた奴もいたかもしれない。
無自覚なのか天然なのかただのバカなのか。いずれにしても、危なっかしい女だ。素直で可愛いけど。
「あんまりそういう顔で男を褒めんなよ。勘違いする奴とかいるから」
「う、うんっ。ごめん……」
「別に謝ることじゃないけどさ」
「ううん、違うの。坪内くんて、なんか……私が思っていたイメージと違ったから」
そっと視線を戻すと、朱里は赤い顔をしてモジモジしていた。
「イメージ? どんな」
「あ、あのね……女の子なら誰でもいいのかと思ってた。ごめん……」
「何だそれ。最悪なイメージだな」
昂輝は失笑した。
「まあ、そう思われても仕方がないか。誰にでも優しくしていたから、信用も失うよな」
「でも、違うって分かった! 坪内くんは私が思っていたよりずっと真面目で、本気で優しい人なんだね」
まっすぐに褒められて、昂輝はまた目を逸らしたくなった。
けれども、目を逸らすのが勿体無いくらい……朱里が可愛かった。
大きな黒い瞳がキラキラ輝いて、ふっくらした唇がピンクに色づいていた。
「ありがとう、坪内くん!」
朱里は嬉しそうににっこり笑った。
目を逸らしてなくて良かったと思った。
彼女の愛らしい笑顔を、自分の網膜にしっかりと焼き付けられたから。
「じゃあね」
気がつくと、朱里はいつの間にか上履きを両足に履いていた。帰ろうとしていた彼女に、昂輝は思わず「七瀬」と声をかけた。
ドキッとした表情で朱里が振り向く。
昂輝はその一瞬で何を言おうとしたのか忘れてしまった自分に戸惑った。
「あのさ……もしまた何か嫌がらせされて困ったことがあったら……相談に乗るよ」
俺が守ってやるとか、助けてやるとか、もっと男らしいことを言えば良かったな。
朱里が嬉しそうに頷いて帰っていったあとで、昂輝はふとそんなことを思った。
「いや、何だそれ。そんな恥ずかしいこと言えるか、バカ」
自分に呆れながら、昂輝も特別教室を出た。
その日の夕暮れはやけに綺麗で、あたたかい金色の輝きが昂輝の胸の内側にまで染み込んでくるようだった。