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第8話 限界オタク

 私は大急ぎで土手を降り、古河くんのそばに駆け込んだ。


「ご、ごめんね、待たせて」

「ううん。俺も今来たところだから」


 古河くんは剥いたばかりのゆで卵のようにツヤツヤの頬をしてにっこり笑った。


「いや、嘘。本当は10分前に着いてた。朱里ちゃんからの手紙をもらえるなんて、嬉しすぎてテンション上がっちゃって。河川敷デートなんてめっちゃアオハルじゃん。そりゃ30分どころか3分以内に向かうよね」


 まさか、推しの方から誘われるなんて──と浮かれっぱなしの古河くん。

 やばい……もしかして、デートだと思われてる⁉︎


「マジで嬉しい手紙ありがとうね。古じゃなくて古なんだけど……ガチの名前間違いが逆にめっちゃ可愛くて、推しの自分への認知の薄さに萌え死ぬところだったよ」

「あ……あはは。間違えちゃってごめんなさい……」


 私はドン引きの笑顔を浮かべた。

 うわー。なんか、もう付きまとわないでくださいって言い出しにくいなー。

 ケモ耳でしっぽ振っているようなテンションの古河くんと、目を合わせることができない。


「あ、急に推しとか言ってびっくりさせちゃってごめん! 改めて自己紹介するよ。俺の名前は古河佑哉こがゆうや。古いさんずいの河っていう字で古河だよ。みんなには古河くんって呼ばれているけど、朱里ちゃんは佑哉って呼んでくれても構わない。むしろ呼んでほしい」

「は、はあ……どうも……。あっ、私の名前は七瀬朱里ですっ」


 朱里がぺこんとお辞儀をすると、古河はブハッと吹き出した。


「いや君の名前は知ってるから! いつも見てるし、SNS追いかけてるから! 本当に天然だね、朱里ちゃん」

「ご、ごめんなさい!」

「いいよ。そんな朱里ちゃんが大好きだから! ……あっ、違うんだ。今の好きは推しへの気持ちっていうか! ずっとスマホの画面で見ていた憧れの女の子が目の前にいることへの感動というか! えーと、俺何言ってんだろ。恥ずかしー」


 古河くんは真っ赤になって両手で顔を覆った。


「本当に……ずっとファンとして君を応援していたんだ。夢でも見ているみたいだよ。朱里ちゃんとこうして直接話せるなんて」


 そんなにテンパっちゃうくらい私のことが好きなんだ……。

 なんか、ちょっと嬉しいかも。思っていたより純粋そうな人でホッとしてもいる。

 私は思わずヘラッと笑った。


「そんな、ファンだなんて……ありがとう。照れちゃう」


 ガサッ。


 とそのとき、背後で芝生の擦れるような変な音がした。誰かが芝生の上で転びそうになって踏ん張ったような、不自然な音だ。

 誰かいる……?


 ドキッとして振り向きたくなったとき、古河くんが照れた眼差しで「朱里ちゃん」と私を呼んだ。


「朱里ちゃんに頼みがあるんだけど……お願いしてもいい?」


 お願い?

 付き合ってくださいとか言われるのかな?

 ドキドキして身構えていると、古河くんが真っ赤な顔でグーの形をした手を突き出した。


「俺と、グータッチしてくださいっ!」

「え?」


 アイドルの握手会ノリ?

 思わず脱力した瞬間、また背後でガサッと音がした。


「今、なんか変な音がしなかった?」

「さあ……?」


 今度こそ振り返ったけど、そこには橋桁を支えるコンクリート壁と、その向こうに広がる河川敷の光景しかなかった。

 どこかに動物でもいるのかな……?


 確かめてみたいけど、正面を向けばキラキラの期待顔でおあずけをくらっている古河くんがいる。

 私は仕方なく、彼の拳に自分の拳をちょこんとくっつけた。



「ふわああ、ヤバい、尊すぎてもう手が洗えない!」



 古河くんは限界オタクみたいな声を出して狂喜乱舞した。

 河川敷に来て、彼にとっても良かったみたい。こんな古河くん、ファンが見たらちょっと嫌だろうな。



 ──



(……マジで何なんあいつ)


 橋桁の壁の裏で密かに待機していた昂輝は、ある意味古河に恐怖を感じていた。

 朱里からの手紙を受け取った古河がすぐに駆け出した様子を別角度から見ていて不安になったのでついてきてみれば、予想外に平和な空気が流れていた。朱里の背後の不審な物音は古河のギャップに昂輝が全身でツッコミした故に出てしまったものだ。

 しかしこのままほのぼのと終わるかどうかは分からない。


(油断するなよ、七瀬)


 マスクをずらし、昂輝は緊張の息を吐いた。





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