「先生、可愛い女の子に鼻を伸ばしているところ、きしょいませんが、あ。すいませんが、患者さん来たっすよ」
フォンファが受付から冷たーい声をかけてくる。その顔、まるでキョンシーみたい──キョンシーだけど──に無表情だ。いや、表情筋死んでるのか?
「きしょ……って言った?今?」
僕は慌ててリィナに「ごめんね」と頭を下げるとリィナは「では、先生ご検討の方」といって笑顔で引き上げていった。僕は受付へと早足で向かう。
到着するなり待っていたのは、キリアのジト目だ。
「うっわ、マジで鼻の下が伸びてるゆ。そのまま伸びて唇だけ大口みたいになっちゃえばいいゆ」
キリちゃんの毒舌。今日も絶好調だね。彼女はぶっきらぼうにカルテを僕に押しつけてきた。もうちょっと優しくしてほしいなあ。
「キリちゃんもさ、そういうのやめてよ。ね?」
僕は受け取ったカルテを開きながら、ちらっと待合室に視線を送る。──その瞬間、全身が固まった。
待合室にいたのは、ボサボサの長い黒髪、赤いコート、そして白いマスクをつけた女性だった。
まるで、どこかの都市伝説から抜け出してきたかのような雰囲気がある。いやいやいや、そんなはずないだろ。でも……何かが引っかかる。
「……先生?大丈夫ゆ?」
キリアが怪訝そうに僕を見ている。
「あ、うん。大丈夫さ」
なんとか声を絞り出しながら、カルテを握り直し、僕はその女性へと向かった──心臓の鼓動が、なぜかさっきとは別の意味でうるさく響いているのを感じながら。
待合室で、彼女と向き合う。
彼女は僕より一回り大きい。一回りどころじゃないかもしれない。その長身と赤いコートのせいで、なんだか異様な迫力を放っている。しかも、そのコート、前が閉じられておらず、中身が、ほぼ下着じゃないか。なんだその格好。視線をどうしたらいいかわからなくなる。でも、ここは医療者として冷静を装わないと。
「あの……わたしの口、裂けてますか?」
彼女がマスクを外しながら、静かに聞いてきた。
その声は驚くほど落ち着いているけど、言葉の内容はどうにも普通じゃない。
「裂けてるどころじゃないっすね。」
即答するフォンファ。おいおい、せめて言い方を選べよ……って、え?
「そうですか。あの……わたし…綺麗ですか?」
ガバァと耳まで裂けてた口をみせながら、彼女はにっこりと笑った。その瞬間、待合室の空気が凍りついた。いや、裂け方がどうこうとか言う以前にその笑顔が普通に怖い。だとして、怖いとか言ったら絶対にダメなんだろうな。
フォンファは顔面蒼白で固まっている。これは、彼女の「笑顔」をみたせいだけじゃない。多分何かを思い出したんだろう。首筋から流れる冷や汗が何よりの証拠だ。
「あ、あ……」
フォンファが固まったまま、変な声を漏らしているのを横目に、僕は考えた。
この裂け方、生来のものであろう。見た目に痛々しさを覚えるのは確かだけど、彼女を傷つけるような発言をするのは絶対にまずい。彼女の口元をみながら、まずは医学的な側面から何かオブラートに──
「うーん、どうだろ。まぁ、ちょっと綺麗とは言いがた─」
──いですね、歯並びは。──というつもりだったのに。
「アマギ先生!!変なこと言ったらだめっすよ!!殺されますよ!!」
血相を変えたフォンファが飛びかかってきた。なぜか口と鼻を同時に押さえられる。殺される?いや、今まさにフォンファに殺されかけてるんだけど!?
ジタバタと両足をばたつかせ、フォンファの手を外そうともがくが、まぁ無意味。ステゴロ最強を名乗るフォンファの口癖には嘘偽りはなく、僕の火事場力でも微動だにしない。こんなところで証明しないでくれ……。
──スタッフに殺されるのは思いもしなかったな──意識が遠くなってくる。あれ?ついこの間も、意識さん、遠のいてませんでした?!
「殺しませんよ!なんですか!」
女性が、フォンファを鋭く睨みつける。その声に怒気が混じる。
「え!なあんだ!ウチの勘違いっすか!」
フォンファは急にパッと手を離した。
僕は膝の上に手をついてぜえぜえと息を整える。危うく意識を失うところだった。最近死にかけることが妙に多い。これも歯医者の仕事のうちなの……?
女性が心配そうにこちらをみている。不安になってる患者さんを待たせるわけにはいかない。
「ちょっと、フォンファは待機してて!」
僕は彼女を追い払うように手を振りながら、女性に向き直る。
「では、一番のお席どうぞ」
そういってぺこりと一礼する。
彼女は少しぎこちなく、けれど素直に診療室の中へと向かっていく。その背中を見送ると、僕はユニットに向かう途中でようやく思い出した。
そういえば、カルテをしっかりと読んでなかった。彼女の種族はなんだろう?ぱっとみは人間にみえたけど、あの裂けた口──まさか……。
診療室に入ると、すでにフォンファがユニットとの横で、大きく飛んだり、足を伸ばしたりして、謎の準備体操をしていた。そしてそれを一通り終えると、構えた。いや構えるって何?手には器具じゃなくて、何か棒状のものを持ってるんだけど。これ戦闘用の武器じゃないか。トンファー?
「なあ、フォンファ。君何してるの?」
「先生を守る準備っす」
彼女は真顔でそう言うけど、これ全然安心できないんだけど、ここ歯医者さんだよ。
そこに裂けた口の女性が、とぼとぼと力なく入ってきて、ユニットに腰掛けた。
「倒しますねえ」
ユニットが倒れて彼女が口を開けるのを待つ僕の前で、彼女はゆっくりとマスクを外した。そして再び、大きな裂けた口が目の前に現れる。慣れないものを見るときの脳内の違和感はあったけど、すぐに切り替える。こういうのは職業病で、すぐに目が歯の隙間や噛み合わせに向かうんだ。彼女の歯並びは、結論からいうとすきっ歯だった。
「うーん、綺麗な歯並びには見えないですね」
正直なところを口にした瞬間、彼女の肩がちょっと落ちた気がした。
「そうですよね。歯並び綺麗じゃないですよね……先生、わたし、口が裂けてるから歯が目立って悩んでるんです」
その言葉には、少し怒りとも取れる感情が混じっていたけど、たぶん自分に向けての怒りだろう。
「綺麗?って歯並びの話?ややこしいっすねー」
横からフォンファが割り込んでくる。何がしたいんだ。
「フォンファ、静かにしてて」
素で失礼な態度を取る彼女を睨みつける。あなたアシストですよね?
「さっきね、近くの丘の下の街道を歩いてたんです。そこで人間に『わたし、綺麗?』って聞いてみたの。そしたら──」
女性は、恥ずかしそうに目を伏せたまま続けた。
「『え! おねーさん、めっちゃ綺麗じゃん! え、逆ナンすか? 遊びいこーよー』って言われたの」
「いや、普通ストリートナンパで『わたし綺麗?』なんて聞かないっすよ?そいつもおめでたい奴っすね」
またフォンファだ。この子の口にチャックをつける義務がある気がしてきた。
「フォンファ、お黙り。ごめんなさいね」
僕がすかさずフォローを入れると、女性は首を横に振った。
「いえいえ、新人さん? みたいですし、多めにみましょう」
思ったより器が大きいじゃないか。僕が言いたいのはそこじゃないけど。
「この子、口が裂けてもお世辞なんて言えない性格でね。どうぞ続けて」
「この人は裂けてま──むぐぅ!」
フォンファの口から余計なことが出る前に、僕は手を伸ばして口をふさいだ。あぶない、あぶない。
それでも女性は、僕たちのドタバタをあまり気にせず、ぽつぽつと話を続けた。
「でね、これでも?ってマスク外してみたの。そしたら、まさかの笑われて」
彼女の声が少し震えているのがわかった。
「『マスク美人っすね! 矯正した方がいいよ! じゃ、俺は用事思い出したんで!』って言われちゃって……」
うわぁ、そいつ最低だな。でも女性も女性だよな。
「そいつも失礼だけど、こんな山道でストナンするあなたも大概──」
フォンファがまた余計なことを言おうとしたので、僕は彼女を手で制して、受付に指を差し「ハウス」といった。フォンファは、心底心外そうな表情を僕に向け、トンファーを振り回して受付に帰っていく。誰に対しての威嚇だよそれ、僕か?
気を取り直し、女性に向き直った。
「まあ、あなたの裂けた口が原因で、口周りの筋肉が歯を押さえきれず、舌の筋肉に負けて歯並びが広がっているってことはありそうだね」
僕は彼女の歯を再度観察しながら、専門的な見解を伝える。
「そういうことですか……先生、わたし、綺麗になりたいんです。昔は一応モテてはいたんですけど──」
彼女はぽつりぽつりと話し続けた。
──さて、ここからが本番だな。彼女の心の氷を溶かすところから始めなければならない。ラポール形成──信頼を築くこと。それはどんな治療よりも大事な第一歩だ。僕は微笑みながら、話を続ける彼女に耳を傾けた。