目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

Slit 1 Ⅱ




「先生、可愛い女の子に鼻を伸ばしているところ、きしょいませんが、あ。すいませんが、患者さん来たっすよ」


 フォンファが受付から冷たーい声をかけてくる。その顔、まるでキョンシーみたい──キョンシーだけど──に無表情だ。いや、表情筋死んでるのか?


「きしょ……って言った?今?」

 僕は慌ててリィナに「ごめんね」と頭を下げるとリィナは「では、先生ご検討の方」といって笑顔で引き上げていった。僕は受付へと早足で向かう。


 到着するなり待っていたのは、キリアのジト目だ。


「うっわ、マジで鼻の下が伸びてるゆ。そのまま伸びて唇だけ大口みたいになっちゃえばいいゆ」


 キリちゃんの毒舌。今日も絶好調だね。彼女はぶっきらぼうにカルテを僕に押しつけてきた。もうちょっと優しくしてほしいなあ。


「キリちゃんもさ、そういうのやめてよ。ね?」


 僕は受け取ったカルテを開きながら、ちらっと待合室に視線を送る。──その瞬間、全身が固まった。


 待合室にいたのは、ボサボサの長い黒髪、赤いコート、そして白いマスクをつけた女性だった。


 まるで、どこかの都市伝説から抜け出してきたかのような雰囲気がある。いやいやいや、そんなはずないだろ。でも……何かが引っかかる。


「……先生?大丈夫ゆ?」


 キリアが怪訝そうに僕を見ている。


「あ、うん。大丈夫さ」


 なんとか声を絞り出しながら、カルテを握り直し、僕はその女性へと向かった──心臓の鼓動が、なぜかさっきとは別の意味でうるさく響いているのを感じながら。


 待合室で、彼女と向き合う。

 彼女は僕より一回り大きい。一回りどころじゃないかもしれない。その長身と赤いコートのせいで、なんだか異様な迫力を放っている。しかも、そのコート、前が閉じられておらず、中身が、ほぼ下着じゃないか。なんだその格好。視線をどうしたらいいかわからなくなる。でも、ここは医療者として冷静を装わないと。


「あの……わたしの口、裂けてますか?」

 彼女がマスクを外しながら、静かに聞いてきた。

 その声は驚くほど落ち着いているけど、言葉の内容はどうにも普通じゃない。


「裂けてるどころじゃないっすね。」

 即答するフォンファ。おいおい、せめて言い方を選べよ……って、え?


「そうですか。あの……わたし…綺麗ですか?」

 ガバァと耳まで裂けてた口をみせながら、彼女はにっこりと笑った。その瞬間、待合室の空気が凍りついた。いや、裂け方がどうこうとか言う以前にその笑顔が普通に怖い。だとして、怖いとか言ったら絶対にダメなんだろうな。


 フォンファは顔面蒼白で固まっている。これは、彼女の「笑顔」をみたせいだけじゃない。多分何かを思い出したんだろう。首筋から流れる冷や汗が何よりの証拠だ。


「あ、あ……」


 フォンファが固まったまま、変な声を漏らしているのを横目に、僕は考えた。

 この裂け方、生来のものであろう。見た目に痛々しさを覚えるのは確かだけど、彼女を傷つけるような発言をするのは絶対にまずい。彼女の口元をみながら、まずは医学的な側面から何かオブラートに──

「うーん、どうだろ。まぁ、ちょっと綺麗とは言いがた─」

 ──いですね、歯並びは。──というつもりだったのに。


「アマギ先生!!変なこと言ったらだめっすよ!!殺されますよ!!」


 血相を変えたフォンファが飛びかかってきた。なぜか口と鼻を同時に押さえられる。殺される?いや、今まさにフォンファに殺されかけてるんだけど!?

 ジタバタと両足をばたつかせ、フォンファの手を外そうともがくが、まぁ無意味。ステゴロ最強を名乗るフォンファの口癖には嘘偽りはなく、僕の火事場力でも微動だにしない。こんなところで証明しないでくれ……。

 ──スタッフに殺されるのは思いもしなかったな──意識が遠くなってくる。あれ?ついこの間も、意識さん、遠のいてませんでした?!


「殺しませんよ!なんですか!」

 女性が、フォンファを鋭く睨みつける。その声に怒気が混じる。

「え!なあんだ!ウチの勘違いっすか!」

 フォンファは急にパッと手を離した。

 僕は膝の上に手をついてぜえぜえと息を整える。危うく意識を失うところだった。最近死にかけることが妙に多い。これも歯医者の仕事のうちなの……?

 女性が心配そうにこちらをみている。不安になってる患者さんを待たせるわけにはいかない。

「ちょっと、フォンファは待機してて!」

 僕は彼女を追い払うように手を振りながら、女性に向き直る。

「では、一番のお席どうぞ」

 そういってぺこりと一礼する。

 彼女は少しぎこちなく、けれど素直に診療室の中へと向かっていく。その背中を見送ると、僕はユニットに向かう途中でようやく思い出した。


 そういえば、カルテをしっかりと読んでなかった。彼女の種族はなんだろう?ぱっとみは人間にみえたけど、あの裂けた口──まさか……。


 診療室に入ると、すでにフォンファがユニットとの横で、大きく飛んだり、足を伸ばしたりして、謎の準備体操をしていた。そしてそれを一通り終えると、構えた。いや構えるって何?手には器具じゃなくて、何か棒状のものを持ってるんだけど。これ戦闘用の武器じゃないか。トンファー?


「なあ、フォンファ。君何してるの?」

「先生を守る準備っす」

 彼女は真顔でそう言うけど、これ全然安心できないんだけど、ここ歯医者さんだよ。


 そこに裂けた口の女性が、とぼとぼと力なく入ってきて、ユニットに腰掛けた。

「倒しますねえ」

 ユニットが倒れて彼女が口を開けるのを待つ僕の前で、彼女はゆっくりとマスクを外した。そして再び、大きな裂けた口が目の前に現れる。慣れないものを見るときの脳内の違和感はあったけど、すぐに切り替える。こういうのは職業病で、すぐに目が歯の隙間や噛み合わせに向かうんだ。彼女の歯並びは、結論からいうとすきっ歯だった。


「うーん、綺麗な歯並びには見えないですね」

 正直なところを口にした瞬間、彼女の肩がちょっと落ちた気がした。


「そうですよね。歯並び綺麗じゃないですよね……先生、わたし、口が裂けてるから歯が目立って悩んでるんです」

 その言葉には、少し怒りとも取れる感情が混じっていたけど、たぶん自分に向けての怒りだろう。


「綺麗?って歯並びの話?ややこしいっすねー」

 横からフォンファが割り込んでくる。何がしたいんだ。


「フォンファ、静かにしてて」

 素で失礼な態度を取る彼女を睨みつける。あなたアシストですよね?


「さっきね、近くの丘の下の街道を歩いてたんです。そこで人間に『わたし、綺麗?』って聞いてみたの。そしたら──」

 女性は、恥ずかしそうに目を伏せたまま続けた。

「『え! おねーさん、めっちゃ綺麗じゃん! え、逆ナンすか? 遊びいこーよー』って言われたの」


「いや、普通ストリートナンパで『わたし綺麗?』なんて聞かないっすよ?そいつもおめでたい奴っすね」

 またフォンファだ。この子の口にチャックをつける義務がある気がしてきた。


「フォンファ、お黙り。ごめんなさいね」

 僕がすかさずフォローを入れると、女性は首を横に振った。


「いえいえ、新人さん? みたいですし、多めにみましょう」

 思ったより器が大きいじゃないか。僕が言いたいのはそこじゃないけど。


「この子、口が裂けてもお世辞なんて言えない性格でね。どうぞ続けて」


「この人は裂けてま──むぐぅ!」

 フォンファの口から余計なことが出る前に、僕は手を伸ばして口をふさいだ。あぶない、あぶない。


 それでも女性は、僕たちのドタバタをあまり気にせず、ぽつぽつと話を続けた。

「でね、これでも?ってマスク外してみたの。そしたら、まさかの笑われて」

 彼女の声が少し震えているのがわかった。

「『マスク美人っすね! 矯正した方がいいよ! じゃ、俺は用事思い出したんで!』って言われちゃって……」


 うわぁ、そいつ最低だな。でも女性も女性だよな。


「そいつも失礼だけど、こんな山道でストナンするあなたも大概──」

 フォンファがまた余計なことを言おうとしたので、僕は彼女を手で制して、受付に指を差し「ハウス」といった。フォンファは、心底心外そうな表情を僕に向け、トンファーを振り回して受付に帰っていく。誰に対しての威嚇だよそれ、僕か?


 気を取り直し、女性に向き直った。

「まあ、あなたの裂けた口が原因で、口周りの筋肉が歯を押さえきれず、舌の筋肉に負けて歯並びが広がっているってことはありそうだね」

 僕は彼女の歯を再度観察しながら、専門的な見解を伝える。


「そういうことですか……先生、わたし、綺麗になりたいんです。昔は一応モテてはいたんですけど──」

 彼女はぽつりぽつりと話し続けた。


 ──さて、ここからが本番だな。彼女の心の氷を溶かすところから始めなければならない。ラポール形成──信頼を築くこと。それはどんな治療よりも大事な第一歩だ。僕は微笑みながら、話を続ける彼女に耳を傾けた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?