波留に迫っていた毒牙を一掃してから数ヶ月。
マリンの基礎勉強会も終盤に迫ろうとしていた。最初のうちこそ人差し指で入力していた彼女だったが、今ではチャット感覚でカタカタカタカタと即レス入力が出来るほどの速度を身につけていた。
「そろそろ俺が教えられることも少なくなってきたな」
「ふふふっ、社長! マリンの実力を思い知ったか! マリンはやればできる子なんだよ? ポテンシャルはある子なんだよ!」
はいはいはい、よーく分かりましたよ。俺が悪ぅございました。
いや、確かにマリンの言う通り、彼女の頑張りは俺の予想を遥かに上回っていた。長期戦を覚悟していただけに、少し寂しさを覚えているのは俺だけなのだろうか?
(いやいや、マリンは再就職に必要なスキルを身に付けたかっただけなのだが、早く終わるに越したことはないんだ)
終わってしまうのが寂しいだなんて、考えるだけ無駄だ。
「——あ、そうだ。マリンは今でも萩生と連絡取ってたりするのか?」
「え、萩生さん? んー、たまに連絡きてるけど軽く流してるよ! だってさー、お金も払わずに会うなんてズルくない? 「俺とマリンは友達だしー」って、いやいや萩生さんはマリンにとって永遠の
悪意のあるルビ、ヤメろ!
いや、間違いはないんだけどさー。口にするのだけはヤメろ!
「つーかさ、萩生もそれなりにいい会社に入ってんだけど、アイツに紹介してもらうのはダメなん?」
「んー、だって萩生さんを頼ったら、それをダシにずーっと迫ってきそうじゃん? ちょっとヤなんだよね」
マリンに言われて、確かにと腑に落ちた。
アイツならやりかねない。むしろ弱みにつけ込んで、自分専用の部下に仕立て上げそうだ。
「しかし、俺の会社に入るよりも、紹介派遣とか使った方が良い就職先を見つけられそうな気がするんだけどな」
「えー、社長、ちょっと待ってよ! そもそも私の経歴って地下アイドル以外に何もないんだよ? 真っ向勝負しても書類で落とされるのがオチだし! もう、社長のくせに何も分かってないんだからー」
だー、うるさいなコイツは!
そもそもマリンのような特殊な職歴の人間を真っ当に戻すこと自体が無理ゲーなのだ。
それでいて生活水準も下げたくないとか、楽な仕事がしたいとか、社会人を舐めているとしか思えない。
「……とりあえず美味いモノでも食って、これからのことを考えるか」
「やったー♡」と歓喜の声を上げるマリンとは対照的に、どうしたものだろうと頭を掻きながら、俺達はレンタルオフィスを後にした。
————……★
「そういえば、前に社長が話していた弁護士さんって、まだ彼女いないの?」
よく行くカフェのランチを食べに行こうと歩いている最中、佐久間の話題を振られて「んー……」と眉を顰めた。
マリンの奴、あの時は軽く流していたくせに、やっぱりハイスペック男子のことが気になっているのだろうか?
「いないと思うけど、何で?」
「んー、社長が勧める人なら一回会ってみたいなーって思ったり? だってさ、勉強会が終わったら、もう社長と会う口実無くなっちゃうじゃん?」
「うっ、マリン……っ⁉︎」
「それとも
意外な発言に俺は言葉を詰まらせた。
ストレートに言われても困るのだが? コイツは分かっていて言ってるのか?
俺には波留と心という最愛の妻と娘がいるのに……。
「共通の友達なら萩生がいるじゃん? アイツじゃダメなん?」
「やだって言ってるじゃん。もう社長ってマリンの話、全然聞いてないしィ。あー、でも流石に不謹慎……かなぁ? 社長と繋がっていたいが為に紹介してもらうとか……」
おいおいおいおい、そんなの、お前のキャラじゃねぇだろ?
俺も俺だ。佐久間をダシにするような行為、許せないと断らないといけないのに。
返答に困って黙り込んでいた時だった。
人通りが多いにも関わらず、目についた二人の姿。
その瞬間、全身の血の気が引いたように冷たくなって、手足も思考も微塵も動かなくなってしまった。
さっきまで浮かれていた自分が馬鹿らしく感じるくらい、俺は現実に打ちのめされていた。
「ん? 社長、どうしたの? 何があったの?」
今となっては、マリンの声すら届かない。
いや、きっと理由があるに違いない。
なのに、どうして……?
「——波留?」
俺の視線の先にいたのは、心を抱いた波留と……心にそっくりな一重の男性だった。
俺なんかよりも親子らしい姿に、わずかな希望を絶望が押し潰してくる。
込み上がる嘔吐、眩暈が襲って立っていられなくなった。
「社長? ねぇ、社長ったら、どうしたの? ねぇ?」
こんな光景だけじゃ不倫とは言い切れない。
だが、相手が悪かった。直感で悟ってしまった。
あの男、心の父親だ——って。
————……★
「社長ー! もう、一体何なの? 意味分からないんだけど⁉︎」