武の道を歩まんとする者に、栄光の光は差し込まない。
その行く手には、ただ冷たい風が吹きつけるばかり――今のアルカナス大陸の現実だった。
キャサリンに、それを変える力はない。
ありがたいことに、息子は努力を惜しまず、その成果は学園の成績にも現れている。
「アランタはとても偉大な場所なんだ。当時、ザレカ学長はこの塔を建てるために心血を注いで、莫大な資材を投入し、10年もかけて、やっと完成させたんだ……」
貴族にしてダクト育ち――その特異な背景を持つカイは、誰よりもアルティメアを知っていた。
寮の中で、学園の話題になると彼の独壇場だった。
寮の一室にはルーカスたちだけでなく、隣部屋の生徒たちまで押し寄せ、身動きもままならぬほどの混雑だった。
そんな中、カイはまるで星々に囲まれた月のごとく注目を集め、その熱を楽しむように語り続けていた。
会話がいつしか、アランタに挑んだ生徒たちや、注意を要する事柄へと移り変わっていたとき、不意にルーカスが振り向く。
遠くから風に乗って届いた声に、彼の表情がわずかに揺れる。
「ママ、もうすぐだよ。あっちに寮があるの」
ジュリアの声に違いない。
無垢な瞳を輝かせながら、ジュリアは武道クラスの寮がある場所を指していた。
しかし指されたその方向は、かつて廃墟だった地――
微かに目を伏せ、キャサリンは胸の奥でため息を洩らした。
「母さん?」
ルーカスの視線が微かに揺れた。
わけもなく、心がざわめいた――あれは……母の気配。
家族は、命に代えても守りたい、かけがえのない存在だった。
「ママ、お兄ちゃんはね、とっても強いの。でも、誰もそれを知らないの」
ジュリアの小さな唇は真実を語りながらも、兄との約束はしっかり守り、真実の核心はそっと包み隠していた。
ルーカスはそっと腰を上げ、身なりを整えた。
その仕草ひとつに、言葉では語れぬ想いがにじんでいた。
「どこに行くんだ、ルーカス?」
カイの問いに、ルーカスは肩越しに言葉を残した。
「ああ、ちょっと外に。気にしないでくれ」
理由は語らない。だが心は一つ。
——母が来たのだ。偶然を装ってでも、迎えに行かなければならない。
「ああ、そうか……」
カイは一瞬だけ残念そうに目を伏せたが、仲間の期待の眼差しに応えるように、再び語り始めた。アランタの話を。
「うちのクラスは、成績で勝ち取った権利がある。誰にも文句は言わせない」
実戦経験はまだ乏しいが、今こそ武の真価を試される時。
アランタの中では命の危険がなく、相手も全力。それは、心ゆくまで戦える“夢の戦場”だ。
明るい声が空気を揺らす。
「お兄ちゃん!」
ルーカスの姿を目にしたジュリアは、まるで陽だまりのような笑顔を浮かべた。
そのすぐ後ろで、キャサリンも息子の姿に気づき、込み上げるものを抑えきれずにいた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
ジュリアが小さな手を振りながら呼びかける。
「ジュリア、それに……母さん?」
ルーカスが驚きと喜びが混じった声で返した。
家を出てからの時間は長くはないが、こんなにも母と長く離れていたのは初めてだった。
ルーカスはすぐさま、母と妹のもとへ駆け寄った。
「母さん、いつ来たの?」
ジュリアと同じく、まずそのことを尋ねた。
キャサリンの指先が、そっとルーカスの髪を撫でた。
その瞳に宿るのは、言葉にしなくとも伝わるほどの深い愛情だった。
「昨日着いたばかりよ」
「じゃあ、父さんも一緒に?」
ルーカスはすぐに訊ねる。
「ええ、来たわ。でも前線に用事があって、昨日にはもうダクトを離れたわ。
でも大丈夫よ、戻ってきたときには、あなたたちに会いに来るから」
キャサリンはうなずいた。
子どもたちを思う気持ちは、ホルトも同じだった。
「前線はどうなの?父さん、危ないの?」
ルーカスはさらに問いかけた。
外見は幼くとも、ルーカスの内には過去の記憶と経験が宿っていた。
転生してから、この世界での歳月を重ねると、彼の魂はすでに20歳を超えていた。
この広大な大陸には、異なる種族が無数に存在し、彼らの間には簡単には越えられぬ深い溝があった。
人類はこの大陸でもっとも恵まれた大地を手中に収めていた。
そして、その繁栄の陰で、他種族は凍てつく山岳や不毛の荒野に追いやられ、渇いた眼差しで人の国を睨み続けていた。
ホルトが幾度も剣を交えたのは、獣人族と呼ばれる存在だった。
獣の如き体躯と、人と同じだけの知恵を併せ持つ、半獣半人の戦士たち――それが、人の敵であり、恐るべき強敵でもあった。
ただし、知と力、その両方を完全に掌握していたわけではない。
完全な存在ではなかったがゆえに、人類はいまなおこの地に王座を築いていられるのだ。
戦の火は、いまだ消える気配を見せなかった。
獣人族との対立は、二十年という歳月を呑み込み、血と涙を飲み干してなお、続いている。
数えきれぬ命が犠牲となり、今もなお剣は錆びる暇を与えられていない。
帝国の魔導士たちは、獣人の軍勢を寄せ付けなかった。
獣人が一度でも人の地に踏み入れたことはない――それが、魔導士団の誇りと実力の証だった。
「ごめんなさいね……何も聞かされてなくて……」
首を横に振るキャサリンの瞳には深い不安が滲んでいた。
ホルトは帰還するたびに、明るい話ばかりを口にした。
だが、キャサリンは知っている――かつて自らが前線に立ち、あの地獄を見てきたのだ。
その笑顔の裏に、語られない現実があることを。
敵の猛攻を正面で受け止めるのは、常に武人たちだった。
加えて、接近戦が得意ではない魔導士たちを護る盾にもなる――戦の最前に立ち、命を落とす者の多くが彼らであることは、疑いようもない事実だった。
そんな中、ホルトは幾度も戦を生き抜き、今や第三軍団の長となっていた。
その地位のおかげで突撃を任されることは減った。この事実が、キャサリンをわずかに安堵させていた。
「お父さんは絶対に大丈夫だよ。だって世界一の英雄だもん!」
それは、ジュリアの口から自然とこぼれた言葉だった。
「心配なんて無用さ。父さんは、誰よりも強くて頼れる人だからね」
口元にやわらかな笑みを浮かべながら、ルーカスはためらいなく次の言葉を紡いだ。
キャサリンは二人のやり取りに表情を和らげ、先導するように歩き出した。
アルティメア魔法学園は、厳格な規律に守られた閉ざされた学び舎だった。
その掟のもと、生徒たちは壁の内側で日々を過ごし、外出などという言葉は遠い存在となっていた。
学生の外出は厳しく制限され、唯一許されるのは家族の迎えがある特別な時だけだった。