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第57話 アランタ塔⑬


――アランタ第二層。


ルーカスたちは、少しずつ前進していた。


得られるポイントを最大まで手に入した。もはやプレッシャーはない。


今はただ、最高の成果を目指し、悔いを残さぬよう尽くすだけ。


アランタを作動させていたオスワルドの口元が、つり上がった。


常識にとらわれることなく、彼らなりのやり方で進むとは、聡い子たちだ。


第一陣の背後には、彼らを支えるルーカスの存在。


絶えかけた武の灯火に、再び薪をくべる少年は――気づかれずに影から、勝利の布石を打っていた。


オスワルドの口から、躍進の真実が語られることはないだろう。


ルーカスは決して道から外れてはいなかった。


仲間と力を合わせること――これこそ、アランタの試練で問われるもの。


そう、ルーカスの行いは、ここでは正義。


――塔内。


10人の小隊は、5体の異族の幻影と対峙していた。


本来、この第二層には百を超える幻影が徘徊している。


この階層に足を踏み入れれば、異族たちはたちまち来訪者に気づき、容赦なく群れをなして襲いかかってくる。


だがルーカスたちは、不思議と数の暴力に見舞われることはなかった。


それもそのはず――ルーカスの分身が、その侵攻を密かに食い止めていたのだ。

分身は幻影と同じ気を纏い、まるで同胞のように潜み続けていた。


塔の外にいる教師たちは、生徒の状態を感知できる。


万全であればエネルギー反応は強く、負傷すればエネルギーはたちまち弱まる。


教師たちは塔内のエネルギーを読み取り、塔内で何が起きているのかを推し量っていた。


そして――幻影が討伐された際の変化は、明確に外にも伝わる。


だからこそ、アランタでの戦果は常に外の目にさらされているのだ。


「さらに5体、だと……」


ウォーレンの口元が歪んだ。


武道クラスの生徒たちは、誰ひとりとして脱落せず、戦いを続けている。


次々と現れる幻影を、確実に仕留めていく様は、実戦のそれと何ら変わりなかった――つまり、実戦においてもこの実力、この数の異族を倒せる。


「……おかしいわね。遭遇している幻影の数が、あまりに少ないわ」


リンドラの表情が一瞬だけ曇る。


長年、アランタの試練を見てきた彼女にとって、これは見過ごせない異常だった。


10人の小隊なら、倍以上の幻影に囲まれてもおかしくないはず。


幻影が討ち果された後に、即座にエネルギーが前進しているということは――それ以上の敵が、そこにはいなかったということ。


これは偶然か、それとも――?


「……オスワルド」


ザレカの表情も陰りを帯びていた。


現場にいなくとも、アランタ内部の状況を感知することができる。


リンドラ教師が感じた違和感を、ザレカもまた察知していた。


アランタはオスワルドが動かしており、出現する幻影の数すら自在に操作できるのだ。


しばし考え込んだ末に、ザレカは静かに首を横に振った。



彼にはもっと深く理解していることがある。


オスワルドの人となり――私情で誰かを優遇するような男ではない。


たとえ、相手が武道クラスの生徒であっても、だ。


それにしては奇妙だ。武道クラスの生徒たちの進展ぶりは、常軌を逸していた。


思い返されるのは、あのときオスワルドが語らなかった――“何か”。


ザレカは確信しつつあった。


“何か”は存在する――この10名の中に。


ザレカの口元が綻ぶ。


オスワルドが隠そうとした“秘密”――ならば、儂の手でその真相を暴いてみせよう。


百を超えた老魔導士とはいえ、その胸には未だ、若者にも劣らぬ好奇の炎が灯っていた。


――一方、塔の外。


「……なっ、どこまで行く気だ!」


苛立ちに満ちた声を上げるウォーレン。


またしても幻影が散っていく――第一陣の進撃が止まる気配は微塵もない。


カイたちのエネルギーは先ほどより弱まっていたが、陣形は乱れることなく保たれたまま、確実に“第三層”の階段へと歩みを進めていた。


このまま敵の猛襲がなければ――本当に、第三層へ到達してしまう。そこは、ほとんどの魔法クラスの新入生が届かぬ高み。


もし武道クラスがそれを成し遂げるならば、魔導士としての誇りが音を立てて崩れ去る。


ウォーレンの胸には、怒りと焦りが渦巻いていた。


「シグルド、教え子が立派に育っているのね。さっきの発言を謝るわ」


リンドラはシグルドのそばへ歩み寄り、静かにそう言った。そして、深々と頭を下げた。


「あ、あぁ……構わん。あいつらが、頑張った結果だ」


シグルドは慌てて言葉を返すと、少し気恥ずかしさに視線を落とした。


ふと、衣の裾に残った古びた油の染みに気づき、目を細めた――これ、いつついたっけ?一昨日……いや、それより前か?


普段なら気にも留めないシグルドだが、今日ばかりは後悔していた。


あの子たちがここまでやってくれるとは。


せめてもう少しだけ、快進撃をやって見せた教え子に見合う衣装を身にまとってくればよかった。


そう思わずにはいられなかった。


だが、この服がシグルドの持ち服の中では“まだマシ”な一着だということを彼は忘れていた。


ちなみに、裾の油染みは十日前のもの。


シグルドにとって、服とは“着られれば良い”ものであり、洗濯は最終手段に等しい。一か月放置? それが日常だった。


「相変わらず謙虚ね。でも、あなたが英気を取り戻してくれて、嬉しいわ」



リンドラは笑顔を浮かべ、まるで春の陽射しのように柔らかくそう言った。


少し離れた場所からその光景を見つめていたウォーレンの目は、嫉妬と怒りに燃えていた。


彼もリンドラに想いを抱いていたが、彼女は一度として特別な眼差しをウォーレンに向けたことはない。


今、あの笑顔はシグルドだけに向けられていた――彼が聞いたことのない、柔らかく温かな声と共に。


「あぁ、ありがとう。俺の教え子は本当に優秀だからな」


静かにうなずいたシグルド。


実は、最初はまったくやる気などなかった。毎日、ただ酒を飲めればいい、それしか考えていなかった。


初日から遅刻するような人間だ。責任を担う教師に向いているはずがなかった。


だが、目の前で懸命に戦う生徒の姿を見ているうちに、彼の心は静かに揺れ始めていた。


期待などしていなかったのに。


気づけば、思いが胸に浮かんでいた。


教え子たちの背中に、あの頃の自分を見た気がした――ひたむきで、粘り強く、そして何より楽しそうに稽古に励む若き武者。


何も感じぬふりなど、できるはずもなかった。


「あなたはとっても優秀なの。でも、服くらい洗ったほうがいいわよ?におうし、何よりあなたらしくないわ」


いたずらっぽく舌を出したリンドラの笑顔は、いつもより親しみがあって、シグルドの心に温もりを与えた。


記憶の底から引き上げられるように、懐かしい日々の情景が浮かんだ。


「武道クラスの子たちが、これからどんな活躍を見せてくれるのか、楽しみにしてるわ」


そう言って立ち去るリンドラを目に収め、シグルドはただ静かに立ち尽くす。


けれどその胸の奥では、確かな思いが燃えていた。


――ああ、任せろ。この子たちは、きっとやり遂げる。



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