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皇帝の資質

一話 人事異動①

「春蘭が人事移動だなんて、なんてこと!」


 悲嘆に暮れるような悲鳴を上げたのは、春蘭と同房どうしつでもある同僚の叙司宝こと果鈴だ。今はその自房じしつにいるため、春蘭のことを楊司衣ではなく名で呼び、少し砕けた物言いになっている。


 今朝、尚服を通じて吏部から異動の通達があったことが伝えられた。

 惺陽に彼の下で怪異退治を手伝うと返事をしてから二日しか経っていなかったので、仕事が早いなと軽く驚いたものだが……それほどまでに怪異退治に関して人手が足りないということなのだろう。

 だが、流石に明日までにへやを移動するようにと言われたときには頬が引きつった。いくらなんでも急すぎる。


 辞令を伝えた尚服も、『この忙しい時期に人手を抜くなんて』と忌々しげに呟いていた。

 それに関しては最終的に惺陽の頼みを了承した春蘭にも原因があるため、申し訳ないとは思う。だが、主に女官を苛んでいた怪異は退治したのだ。伏せていた女官たちもそのうち復帰して人手は戻ってくるだろう。

 春蘭の手伝いに涙を流すほど喜んでいた王淑妃の衣装を手がけている女官たちには申し訳ないが、人手が戻るまでは耐えてくれと願うしかない。


「春蘭の手が空いてなんとか桜花祭までに間に合いそうと思っていた矢先に……」


 荷造りをしている春蘭の横でいつまでもぐちぐちと恨み言を呟いていた果鈴は、じとりとした目を春蘭に向けて問いを口にした。


「異動先はあの惺陽様のところなのよね? 気に入られているとは思っていたけれど、まさかいい仲になったとか言わないわよね?」

「はぁ!? いたっ」


 予想もしていなかったことを言われ、籠に頭を突っ込んで最後の花綵を手に取っていた春蘭は勢いよく上げた頭を寝台の角にぶつけてしまった。


「ちょっと、大丈夫?」

「だ、大丈夫だ」


 心配して近付こうとしてくる果鈴に春蘭は手のひらを向け留める。痛みはあるが、たんこぶができるほどではないので問題はない。

 それよりも。


「というか、あの男と私がいい仲とか……なぜそんな考えが浮かぶのだ?」


 そのような誤解があるならばなんとしてでも解いておきたい。春蘭は睨みを利かせて問い質した。

 惺陽はともかく、春蘭は彼を好意的に見ていないということは尚服局にいる者なら実際に見て理解しているはずだ。

 事実、春蘭は惺陽の願いを聞き入れ怪異退治を手伝うことは了承したが、普段の軽い調子の惺陽を苦手としているのは今も変わりない。


「だって、なんだかんだ惺陽様は地位も顔も良いし……春蘭は彼の軽そうなところを苦手にしていたけれど、なにかきっかけがあって絆された可能性もなくはないかなーと」


 果鈴は説明しながら徐々に視線が泳いでいく。春蘭の責めるような視線に、自分の考えが間違っていたことを認識したのだろう。最後には「……ごめん」と謝罪を口にしていた。


「いや、分かってくれればいいのだ」


 勘違いさえ正してくれたのなら文句はない。深く頷いた春蘭は、今度は花綵以外の荷造りのために籠に頭を突っ込んだ。

 そんな春蘭の丸まった背中に、果鈴は改めて聞く。


「でも、それならどうして春蘭が惺陽様の下へ異動になったのかしら? いくらなんでも一方的に気に入ったから、なんて理由じゃあ吏部は動かないでしょう?」

「……」


 果鈴の疑問に春蘭はどう返すべきかと軽く悩み、すぐには答えなかった。

 いい仲になった、などというふざけた勘違いをされたくはないが、怪異退治の手伝いを求められたなどと言えるはずもない。

 惺陽は春蘭の目立ちたくないという願いを聞き入れてくれたというのに、自分から言いふらすような馬鹿なことをするわけにはいかない。

 なので、結局は尚服が口にした吏部からの通達理由そのままの言葉を返答とした。


「惺陽様が秘密裏に行っている仕事に、私の手が必要だったからなのだろう?」


 一度籠から頭を出し、眉を寄せている果鈴に小さな笑みを添えて告げる。

 自分も詳しくは知らないのだ、という態度で素知らぬふりをした。


***


 元々大した量の荷物がなかった春蘭は夜のうちに荷造りを終え、翌朝迎えに来てくれるという惺陽を宮の出入り口のところで待っていた。

 果鈴は見送りたいと申し出てくれたが、今回の人事異動はあくまで一時的なものなのだ。春蘭が怪異退治に協力することで、この陽泉に蔓延はびこっている怪異の数は一時とはいえ減るだろう。そうすれば春蘭はまた尚服局へと戻ることになっている。

 なので二度と会えないわけではないのだから、と果鈴を仕事に向かわせた。


 果鈴は『尚服局の代表として一言文句を言ってやらないと!』などと息巻いていたが、この忙しい時期にそんな理由で仕事を遅れさせるわけにはいかない。

 春蘭は『恨み言はしっかり伝えておくから』と伝え彼女を送り出したのだった。


 尚服局の皆の様子を思えば、確かに一言二言――どころか十は軽く超えるくらいの恨み言は言いたくなるだろう。とはいえ春蘭が怪異退治の手伝いを了承しなければ異動とまではならなかったかもしれない。

 ここは一つ程度で済ませておこう、などと思っていたのだが……。


「おはよう春蘭。やはり日の光の下で見るお前は美しいな」


 現れた惺陽の第一声がいつものようにふざけたものだったので、春蘭の中に僅かにあった思いやりが掻き消えた。


「世辞などいらん。いいから荷物を持ってくれ、そのために来たのだろう?」


 これから直属の上司となる人物だが、春蘭は不躾に言葉を投げつける。

 他に人がいたり本人に注意されたのなら口調や態度も改めるが、惺陽は寧ろへらへらと笑うだけなので春蘭の方から改めようとは思えないでいる。


(心から仕えたいと思える相手なら自然と頭も下がるのだがな……)


 仕事はちゃんとこなしている様子の惺陽だが、普段の態度が軽すぎてどうも不真面目に見える。上司として欠片も尊敬すべき点が見つけられないのも、口調と態度を改めることができない要因なのだろう。


「まったく、お前は可愛いのに可愛げがないな。荷物を持ってもらうのだからせめてお願いしますと言うべきところだろう」


 大きくため息交じりに指摘され、それもそうだと春蘭は思う。流石に失礼すぎたと判断し、素直に頭を下げた。


「それもそうだな。すまない、迎えと荷物持ちに感謝する」


 言われた通り言い直した上に感謝も伝えたのだが、頭を上げて見えた惺陽の顔はなんとも表現しがたいものになっていた。


「お前、そういう所は素直だよな……」

「悪いと思ったのならすぐに謝るべきなのは普通のことだろう?」


 意地を張って謝らない者が多いことは知っているが、そういう態度は総じて醜い。そして春蘭はそういう醜さを嫌っている。つまりは、素直というより生真面目な性格なのだ。

 惺陽は苦笑するような笑みを浮かべ、床に置いてあった重そうな荷物を軽々と持ち上げる。


「ま、そういう真っ直ぐで男前なところも気に入っているがな」


 その目にはどこかもの悲しさが垣間見えたが、春蘭はそれを無視して軽く不快感を表情に乗せた。


「私はお前の軽そうなところを不快に思っているがな」


 だから気に入られたくはないのだと暗に言ったつもりだったが、惺陽は「はは! 手厳しいな」と軽快に笑うのみだった。

 嫌っている部分をはっきり口にしたというのに、意に介していない様子の惺陽。春蘭はそんな彼には何を言っても無駄なのかもしれないと諦め、果鈴との約束を果たすことにした。


「それにしても仕事が早かったな。桜花祭の衣装作成で忙しい尚服局から人手が減る人事異動など、吏部でも渋られたのではないか?」

「まあな、だがそこは権力で押し通した」


 まるで自分は何も悪いことをしていないとばかりに真っ直ぐ前を見て歩き出す惺陽。権力を行使して無理を押し通すのは悪いことではないのだろうか。


「尚服局の者たちには申し訳ないと思うが、怪異の被害は増え続ける一方だ。怪異退治に、春蘭の方術はどうしても必要なんだ」


 先程までの明るい口調とは裏腹に、硬く焦りが込められた声音は本当に切実な問題となっているのだと知れた。仕事に関しては真面目な男なのだと改めて認識する。

 少なくとも申し訳ないとは思っているようだったので、春蘭は伝えると約束していた恨み言は保留にしておこうと考え直した。とはいえ、小言くらいは言わせてもらう。


「だが、尚服局の皆はかなり恨み言を口にしていたぞ?」


 仕事に関しては真面目な様子を見せた惺陽に幾分気をよくした春蘭は、僅かに笑みを浮かべからかいの口調で伝える。

 途端惺陽は後頭部を掻きながら、まいったなと苦笑いを浮かべた。


「それはそれは……怖くてしばらくは尚服局へ行けないな」

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