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二話 人事異動②

 惺陽直属の女官となった春蘭は、掖庭宮を出て外廷にある武官が詰める官署かんしょへと向かった。その中の一画に惺陽の仕事場兼寝泊まりしている邸宅があるらしい。春蘭はそこの一房ひとへやを賜った。


 武官は通いの者もいるが、大事が起こった時にすぐに対応できるよう皇城に住み込んでいるものも多い。

 惺陽は皇城内の太尉に与えられる邸宅を利用していた。外観は皇城内らしく豪華な装飾も施されているが、中は意外と素朴な造りとなっていた。

 春蘭の房もそれほど華美ではなく、落ち着けそうな雰囲気だ。

 元々少ない荷物だったため荷解きもすぐに終わり、事前に言われていたとおり昼を少し過ぎた頃に惺陽の書斎へと向かった。


「貴太尉、失礼する」


 他に人がいる可能性もあったため呼び方に気をつけて声を掛けたのだが、許可を得て入ったそこには惺陽の姿しかない。

 比較的広めな書斎には執務机が二つと、休憩するとき用の長椅子二脚と卓が一台ある程度。

 本来太尉は文官が就くことが多い役職だ。おそらく書類仕事も多いのだろう。当然ながら執務を手伝う文官がいてもおかしくはないのだが、今は見当たらない。人払いしたのだろうかと思ったが、惺陽が座っていない方の執務机がしばらく使われていないようにも見える。

 まさか執務を手伝う部下がいないのか? と思ったところへ、なにやら書き物をしていた惺陽から声が掛けられた。


「ああ春蘭、荷解きは終わったのか?」

「ああ、私の荷物は少ないからな。花綵も最近は使用する一方だったら、あまり残ってはいなかったし」


 春蘭の荷物は主に衣類と裁縫道具と花綵だけだ。衣類は仕事をする上で最低限あれば問題ないし、簪などの身を飾る嗜好品には興味がない。他には身だしなみを軽く整える程度の化粧品があれば問題はないため、時には花綵の方が多くなることもあった。

 春蘭の返答に「そうか」と頷いた惺陽は、持っていた筆を置き改めて春蘭を見る。


「では、早速調査に――と言いたいところだが」


 と、言葉を止めた惺陽は口の片端を上げて笑うとおもむろに立ち上がった。


「まずは昼食にしようか、腹が減っただろう?」


 嬉しそうな様子が滲み出ていて、そんなに昼食が楽しみなのか? と疑問に思うが、春蘭自身腹は減っている。


(怪異の調査の話など、聞いて気分のいいものではないだろうし……先に食事を済ませられるのなら済ませたいところだな)


 そう思った春蘭は「ああ」と頷いた。


「では少し待っていろ。共同の食堂へ行ってもいいのだが、ここにも小さいが厨房がある。通いの庖人りょうりにんが作ってくれているはずだから、今持ってきてやろう」


 惺陽は話しながら立ち上がり、当然のように一人で房を出ていこうとする。言葉通り惺陽自身が運んでくるつもりなのか。


「いや、ちょっとまて。そういうのは宮女の仕事だろう?」


 食事を運ぶなどという雑務、太尉である惺陽がすることではない。春蘭は慌てて止めるが、惺陽は軽い調子で答えた。


「それはそうかもしれないが、この邸宅には掃除と洗濯のための宮女が一人いるだけだからな。しかも昼前にはここの仕事を終わらせて別の官舎へ行くはずだ」


 だから今この邸宅に宮女はいないのだと惺陽は話す。


「ならば私が取りに行く。場所さえ教えてもらえば問題ないだろう」


 太尉が詰める邸宅だというのに宮女が一人ということには驚いたが、今現在その宮女すらいないのなら自分が取りに行くしかないと春蘭は判断した。


(自分のものだけでなく、女官の食事まで運ぶ太尉など有り得ないだろう!)


 尚も一人で出て行こうとする惺陽を制し声を掛けたが、軽く手で押しのけられてしまった。


「かまわん。実は今朝も点心を作っていてな、庖人に蒸す行程だけは任せたのだが、蒸し上がりが気になっていたのだ」


 だから自分が行く、と言い残し惺陽は今度こそ房を出て行ってしまった。

 ……一人、春蘭を残して。


「……まったく、不用心だ」


 太尉の書斎となると重要な書類が持ち込まれることもあるはずだ。そのような場所に女官を一人残して行くなど、不用心がすぎるというものだ。


「だが、点心はありがたい」


 惺陽の去り際の言葉を思い出し、春蘭は軽く瞼を伏せ細い指先を口元へと添える。

 先日頂いた惺陽の手作りだという点心は本当に美味かった。

 リュウがちゃっかり二つも食べていたくらいなので、四霊の舌にもあったのだろう。


 蒸すということは胡麻団子では無さそうだ。包子パオズか小籠包か……甘い甜点心テンテンシンではなく塩気のある鹹点心シェンテンシンかもしれない。他のもやはり美味いのだろうか?

 などと惺陽の手作り点心に思いを馳せていると。突如明るい子どものような声が聞こえた。


『え? 点心もあるの?』

『リュウがついつい食べ過ぎてしまうほどに美味かったと言っていた点心じゃろうか? それは楽しみじゃ』


 続いて穏やかな老人のような声も届く。

 声の正体にすぐ思い至った春蘭はその名を呼んだ。


「リンとレイか?」


 すると、窓も開いていないのに風が吹き、風と共に光の粒子が房内へと入ってくる。その光の粒子が集まり二つの塊を作ったかと思うと、次の瞬間には見慣れた鹿姿の麒麟のリンと、同じく見慣れた亀姿の霊亀のレイが現れた。


「やあ春蘭、挨拶がてら怪異の話を聞きにきたよ! けど、噂の点心を頂けるなんて運がいいね!」

「そうじゃのう、そのうち食べてみたいとは思っていたが、これほど早くありつけるとは思わなんだ」


 本題そっちのけで惺陽の点心について期待の言葉を口にするリンとレイに、春蘭は僅かに呆れると共に【餌付け】という言葉がふと浮かんだ。

 二人がそこまで期待するということは、リュウはかなり惺陽の点心を気に入って話して聞かせたのだろう。オウも、点心についての感想は口にしなかったがしっかり自分の分は平らげていた。やはり四霊の口に合うのだろう。


 惺陽は普段の調子が軽い印象ばかりで春蘭にとっては苦手な人物だが、四霊にとっては美味い点心を作る人物として認識されつつあるのではないかとすら思う。正に四霊が【餌付け】されそうになっている状態に、春蘭は内心これでいいのだろうかと遠い目になった。

 とはいえ、今重要なのは四霊が【餌付け】されるか否かではない。なぜこの二人が惺陽の邸宅内で姿を現したのかだ。基本的に人前に姿を現すことのない四霊が、春蘭以外の人がいる場所に来た理由はなんなのか。


「まず点心が人数分あるのか分からないが……それより、なぜ来たのだ? 初めから点心が目的ではないのだろう? 『挨拶がてら怪異の話を聞きにきた』と言っていたが……」

「うん、そうだよ。僕らの大事な春蘭がお世話になるんだもん挨拶くらいはしておきたいからね」


 リンの返事に面映ゆい感情が湧き、春蘭は照れ隠しのため少し困ったような笑みを浮かべた。

 この二年ほどの交流で四霊の方々には気に入られていると感じることはあったが、大事と言われるほどだったとは……。


「それと怪異退治についてじゃな。どの怪異を退治するのか分からんが、今回はワシとリンが手伝うことにしたからのう」


 この人選となったのは、それこそ挨拶がてらということらしい。

 惺陽が春蘭に怪異退治の手伝いを願ったのは、春蘭自身の方術に期待しているということもあるが、四霊の助力があるというのも一つの理由だろう。

 だからこそリンとレイも顔合わせしておこうか、ということらしい。


「そうか……だが、現れるのは惺陽が戻ってきてからの方がよかったのではないか? 戻ってきたら房内に動物がいるというのは驚くどころでは――」

「おわっ! なんだ!?」


 リンとレイに出直した方がいいと話している途中で、戻ってきたらしい惺陽の声が聞こえた。

 視線を遣ると、二人分の昼食と点心が載っている大きな盆を持った惺陽が目を丸くして房の入り口に立っていた。

 印象的な黒の瞳が小さく見えるほど大きく見開いている目は、リンとレイに向けられている。


(遅かったか……だが、驚いた拍子に盆を落とすようなことがなくてよかったな)


 予想通り驚いた惺陽を見て、春蘭は諦めのため息を吐くと共に盆の料理が台無しにならなくてよかったと安堵した。


「お、おい春蘭。何故俺の書斎に鹿と亀がいるんだ?」


 なんとか気を取り直した惺陽は、至極当然な問いを口にする。

 もっともだ、と春蘭が納得しているうちに、その問いにはリンが答えた。


「ああ、きみが惺陽だね。始めまして、僕は四霊の一体、麒麟のリンだよ。よろしくね!」


 物怖じしないいつもの明るさで、リンは挨拶をし軽く足を踏み鳴らす。それに続くようにレイがゆっくり頭を伸ばした。


「ワシは霊亀のレイじゃ。怪異退治の手伝いのために話を聞きに来たんじゃ……よろしく頼むぞ」


 リンとレイの挨拶に、惺陽は目を激しく瞬かせながら「ああ……」と応じる。

 驚きと戸惑いはあるようだが、オウとリュウを見ているので、この突然の状況も比較的すんなり受入れることができたようだ。


「四霊の二柱、麒麟と霊亀どの。俺は太尉の位を賜っている貴惺陽と申します。以後、よろしくお頼み申し上げます」


 完全に気を取り直し、真面目な顔つきで惺陽は挨拶を返す。軽さを欠片も見せない様子は普段より凜々しいが、料理を持っている状態では少々様にならなかった。

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