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五話 晋一族①

 惺陽に対してなんとも粘着的な言葉を投げかけた男は、同僚なのか他に二人の男を連れていた。同僚たちの方は男の態度が信じられないとでもいうかのように揃って顔を青ざめさせている。

 それもそうだろう。大柄な男はその服装から見ても惺陽より地位が上だとは思えない。全身から粗野な雰囲気が滲み出ていて、高官としての教養があるとも思えなかった。


(左衛将軍なわけがないし、……少尉? いや、もっと下だろう)


 見たところ声を掛けてきたのは左衛に詰める士兵だ。左衛は陽泉や皇城内の見張りや警護を務める役職の部署で、士兵としては優秀な方かもしれないが官位は持たないため地位は当然ながら太尉よりずっと下だ。

 物事のまことを見抜く慧眼を使うまでもない。覇気も教養も無さそうな男は、どう見ても役職のない士兵だ。

 だというのにこのような物言い。彼の後ろの同僚たちが青ざめるのも道理というものだ。

 だが、惺陽はうんざりした様子でただ呟く。


「ああ、面倒なのが来た……」


 どうやら知り合いのようだが……。


「聞きましたよ? 掖庭宮の女官を無理を言ってご自分の所に異動させたとか。もしかしてその娘ですか?」


 話しているうちに春蘭の存在に気付いたようで、男は無遠慮に春蘭の顔を覗き込んできた。目が合うと、彫りの深い顔がにたりと嫌な笑みに変化する。


「亀を肩に乗せてるとはおかしな女官だが、こりゃあ別嬪だ。仕事の上で必要な人材だとか言ったらしいですが、これは別の理由がありそうですなぁ……」


 にたにたと、どこまでも粘着質な声と表情に春蘭は不快感を覚えた。


(なんなのだこの筋肉達磨は? 暑苦しいだけでなく粘着質とは……不快の塊のような男だな)


 しかもその粘着性を向けている相手は惺陽だ。大将軍に次ぎ軍部を纏める者である太尉に向ける態度ではない。

 何故叱責もせず言いたい放題にさせているのか。疑問というより最早不満に近い気分で惺陽を見上げる。

 だが、惺陽は春蘭の視線に気付くことなく、いつものへらへらとした笑みを浮かべ男の声に答えた。その言葉の中に、惺陽が男を叱責しない理由があった。


「あまりじろじろ見ないでやってくれないか? 晋武孔しんぶこう。なにか変な勘ぐりをしている様だが、本当に仕事のためだぞ? 頼んでいる仕事が終われば、彼女は元の部署へ戻るのだからな」


(ああ、そういうことか)


 男の名を聞いて理解した。

 晋武孔……晋の姓。

 それは現皇帝の母・晋太后と同姓であり、令国の権力を牛耳っている一族の名でもあった。

 齢三つの皇帝は当然ながら政などできない。なので皇帝に代わり母である晋太后が最終的な判断を下している。しかも皇帝の次に政治的権力を有する尚書令しょうしょれいである宰相も、晋太后の兄である晋文俊しんぶんしゅんだ。他にも国の上層部は晋一族の者で占められている。

 そのため、この首都・陽泉では『晋一族の者に逆らうと命はない』などと真しやかに囁かれている。

 事実、晋一族の者の不興を買って処刑された者もいる。命は奪われずとも、左遷や何らかの罪を着せられた者は数知れない。


(この男も晋一族の者、というわけか)


 本来であれば、惺陽の身分ならばこのような下っ端、無礼だと断じて罰することは簡単だろう。

 だが、明確な罪があるわけでもないのに罰すれば惺陽自身の首を絞めることになる。

 武孔と呼ばれた筋肉質の男も、それは分かっているのかあくまで丁寧な口調は変えていない。物言いと態度がふざけているだけなのだ。

 態度が無礼ではあるが明確な罪はなく、叱責でもしようものならば晋一族の者に詰められるのだろう。


(故に面倒というわけか……)


 納得はしたが、不満は変わらなかった。


「そうは言ってもこれだけ別嬪なら気が変わることもあるんじゃないですか?」


 武孔は惺陽へさらに一歩近付き、彼の顔を覗き込む。そして、春蘭と惺陽にしか聞こえない程度の声量で続けた。


「仕事だと言いくるめて手籠めにでもするつもりなのではないですか?」

「は?」


 惺陽は少し目元をぴくりと動かすだけで何も言わなかったが、春蘭の方が思わず反応し声を上げてしまう。

 丁寧な口調は変わらぬ武孔だが、今の発言は惺陽への明らかな侮辱だ。


(この男、なんということを言うのか!)


 惺陽を悪く言われたことに、どうしてか無性に腹が立った。

 いつもへらへらとしている惺陽にはうんざりするが、彼の仕事に対する姿勢は真摯しんしなものだと春蘭はもう知っている。

 また、わざわざ部下のために点心を作るなど親しみもある。

 点心で餌付けされたわけではないが、少々ほだされた部分はあった。


「お前、今なにを言――」

「はっはっは! 確かに春蘭は美しいからな。俺の理性が持てば良いが」


 武孔の侮辱の言葉を問い詰め訂正させようと声を上げた春蘭だが、それは他でもない惺陽の笑い声で遮られてしまった。

 同時に、彼に腕を掴まれ強引に後ろへと下げられてしまう。


「とはいえ女性を無理矢理、というのは俺の信念とは真逆だからな。そのようなことにはならぬよ」


 あくまでも軽い口調なのはいつもと変わらず。

 ……だが、春蘭の腕を掴む惺陽の手の力はとても強かった。


「すまないが、今から行かねばならぬところがあるのだ。失礼するぞ」


 にこやかに、だが強引に惺陽は話を終わらせ踵を返す。そのまま武孔の返事も待たずに春蘭の腕を引き歩き始めた。

 軽く蹈鞴たたらを踏みつつもなんとかついていった春蘭の耳に、武孔の悪態が届く。


「けっ、へらへらしやがって。あれだけ言っても怒りやしねぇ」


 軽く振り返り見ると、苦々しい様子で彫りの深い顔を歪めている武孔が見えた。その周りでは、安堵したような表情を浮かべている同僚たちも見える。

 どうやら、武孔の不快な態度や言葉は惺陽の感情を揺さぶるためのものだったらしい。ならば怒りを露わにするのではなく、惺陽がしたように受け流してしまうのが正解だ。


 だが、疑問は残る。

 先程の言葉は明らかな侮辱だ。いくら晋一族の者だとしても、苦言を口にするくらいはすべきではないだろうか? 士兵が太尉という地位の者を侮辱してもいいという事例を作ってしまっているのではないだろうか?

 すぐにでも疑問を投げかけたかったが、惺陽はこの場を離れることを優先しているのか無言で足を進めている。

 仕方ないので、武孔から完全に離れてから声を掛けた。


「……いいのか? あの男をあのままにして」

「……」

「いくらなんでも惺陽様を舐めすぎだろう。せめて態度に気をつけろと注意するくらいはした方がいいのではないのか?」

「……」


 春蘭の問いに惺陽は無言を突き通す。

 聞こえていないわけではないだろう。その証拠に、腕を掴む力は問いかけと共に強くなっている。


(これは、答えたくないということか?)


 このまま春蘭が諦めるのを待つつもりなのだろうか。

 だが、すでに惺陽を挑発するための話の種に使われたのだ。少しは巻き込まれている状態なのだから、知る権利はあるのではないかと思う。

 とはいえこのままでは聞き出すことはできないだろう。

 そう判断した春蘭は方法を変えることにした。


「……惺陽様、痛いのだが」

「え? あ、すまない! 跡がついてしまっただろうか……?」


 春蘭の声にはっとした惺陽は慌てて手を離す。自分でもかなり強く掴んでしまっていたのだと気付いたのだろう、かなり申し訳なさそうに眉を下げていた。

 自分を思いやる惺陽を見て、春蘭は軽く笑みを浮かべる。


(やはり私は惺陽様の軽そうな態度が苦手なだけで、それ以外の部分は好ましいと思っているのだな)


 そう自覚すると共に、だからこそ疑問は解消しておきたいと願う。


「……悪いと思うのなら、説明してくれないか? なぜあの武孔という士兵に一言も言い返さないのか。感情的になるのは悪手でも、あそこまでのことを言われたら苦言を呈するくらいはしてもいいと思うが?」


 腕に跡を付けた代償ということにして問いかける。

 このような脅しもどきの問いかけはよくないとも思うが、こうでもしないと話してはくれなさそうなのだから仕方ない。


「それは……」


 それでも躊躇う様子を見せる惺陽に、今まで黙って春蘭の肩に乗っていたレイが話し出す。


「惺陽よ、話しておきなさい。春蘭はこう見えてかなり頑固じゃ。聞くまで引かないじゃろうで」


 かなりと言うほど頑固だろうか? レイの言葉にも一言もの申したい気分になったが、今は惺陽の話が先だ。

 じっと濃い黒の目を見上げると、惺陽はため息を吐きながら眉と肩を下げる。そして、複雑そうな笑みを浮かべて頷いた。


「分かった、話そう」

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