玄関ポーチの一角に移動すると、マイは何かを確認するように左右を見回して、改めて僕の方を見た。
「嘘や。嘘やろ」
少し声をひそめて言う。
何が嘘なんだよ。
「漏らしたんが原因なんて、絶対嘘や」
マイは一歩近寄ると、僕の顔をのぞき込んだ。真っ直ぐに目を見つめてくる。
「何年、まあくんと付き合ってると思うてるん? それくらいへっちゃらなん、知ってるよ。そんな弱いやつじゃないやんか」
勘がいい。いや、それこそ付き合いの長さかな。すぐバレてしまった。
「なあ、ホンマに心配してんねん。おばちゃんに聞かれたら、困ることなんとちゃうの? だから、外に出たんやんか。まあくん、ちゃんと言うて。ウチだけにはホンマのこと、言うてよ」
マイは僕の腕をつかんで揺さぶった。
勝手なこと言いやがって。
本当に心配しているのなら放っておいてくれ。それ以前に心配しているのなら、僕をいじめているやつと付き合ったりするなよ。
なんで、黒沢なんかと付き合ってんだよ。
猛然と腹が立ってきた。
「なあ、まあくん!」
握りしめた拳の中に、冷たい汗が湧いてきた。心臓がバクバクいっている。
なんだよ。一体、何をさせたいんだ。手のひらは汗でじっとりしているのに、口の中はカラカラだった。喉に何かが絡んで、とても話せそうにない。それでも、聞かざるを得なかった。
「な、なんでっ」
聞いちゃダメだ。
僕が突然、言葉を発したので、マイは息を呑んでびっくりして、揺さぶるのをやめた。
聞いちゃダメだって。
「なんで黒沢とセックスしたんだよ!」
…。
震えていた。歯がカチカチいうほど。手もブルブルして、止められなかった。
呆気に取られた顔というのは、こういうのを言うのだろう。マイはそんな顔をしていた。丸い目をさらに丸くして、口が半開きになっている。
僕の腕から手を離す。
「…は?」
急に顔を赤くすると、眉間に皺を寄せた。
「え、それ…どこで聞いたん?」
「え…本人から」
「本人って、誰よ」
「だから…黒沢本人から…」
マイはブレザーの裾をぎゅっと握りしめた。下を向いて口を開きかけたが、言葉が出てこない。少し間があってから、唇をぎゅっと結んだ。
嘘だって否定してくれ。そんなん嘘って言ってくれよ。
沈黙が怖かった。心臓の鼓動の音で、脳みそまで揺さぶられそうだ。ギュッと目を閉じて、奥歯を噛み締めた。
マイ、否定して。
「はっ」
強く息を吐き出すような声だった。びっくりして顔を上げると、マイは半笑いしていた。
「何それ。そんなこと、気にしてたん?」
否定なのか、肯定なのか、どっちだろう。判断しかねて、混乱した。
「え…だって、彼氏と彼女やし、そういうこと、するもんなんとちゃうの…。そりゃ、ちょっと早かったかなと思わなくもないけど…。なんか、おかしい?」
ブレザーの裾をいじりながら、怒ったような、笑ったような顔でもじもじしている。おかしいかどうかを、どうして僕に聞くんだよ。こっちがなぜか聞いているのに。
やっぱり、やったんだ。
「僕にとっては、そんなことなんかじゃない」
意味が通じたかどうか、わからない。でも、カラカラの喉を押し開けて、やっと絞り出せた言葉は、これだけだった。
「え…」
マイはもう一度、なんで?みたいな顔をした。
「だって、ウチはヨシキの彼女やし、そういうこともするやん? なんでそんなこと、まあくんにとやかく言われなアカンの? ウチ、まあくんの彼女じゃないでしょ?」
そうだ。何も間違っちゃいない。
「そんなこと、気にしてたん?」
また、そんなことって言った。僕にとっては、そんなことじゃないんだ。味方だと思っていたマイがいじめっ子の側に行ってしまったことが、大問題なんだ。
違う。そうじゃない。
ずっと大好きだったマイが他の男と付き合って、しかもそいつが僕をいじめている張本人で、しかもそいつに処女まで捧げてしまったってことが大大大問題なんだよ!
どうしてそれがわからないんだ、この馬鹿女は!
怒りだけではなかった。恐怖と不安と、そして自分に対する不甲斐なさが一気にお腹の底から湧いてきて、胸が張り裂けそうだった。顔が熱くなる。内側から何かが噴き出してきそうだ。
「そんなことじゃないんだよ!」
思わず大きな声を出していた。
「マイだって知ってるだろ! 黒沢が僕をいじめてるってことを! どうしてそんなやつとセックスしてんだよ!」
大声でセックスって言ってしまった。母さんに聞こえたかもしれない。
「違うって!」
マイも僕につられたのか、声のトーンを上げた。拳を握りしめ、眉を吊り上げて僕をにらんだ。
「ヨシキはまあくんと仲良くしたいだけなの! いじめてるつもりなんか、ないの! パリピやから、やり方がちょっと派手なだけなんやって! てゆうか、ヨシキのこと、悪く言わんといて!」
明らかに怒った表情に変わった。マイは割とカッカするタイプだ。怒ると怖い。
「あんな、いつまでウチにお守りさせるつもりなん? ウチがどこの男と付き合おうが、どこでエッチしようが、ウチの勝手やんか。それをどうのこうの言われたくないわ!」
少し声量を落としたはしたものの、マイは激しい口調で一気にまくし立てた。
「ヨシキはあんたと違って、明るくて、楽しくて、イケメンで、何より優しくて、最高の彼氏やねん。それを悪くいうのは、なんぼまあくんでも許さへんで」
余程、頭に来たのか、肩がブルブルと震えていた。目に涙が浮かんでいる。
反論できなかった。僕の喉には、もう何もない。うつむいて、自分の足元を見た。薄汚れたサンダルと、骨張ってヒョロリと長い自分の足の甲が見える。取り残されて、一人ぼっちだった。
いじめっ子の定番だよ、それ。
一緒に遊んでいるつもりでした。
からかったつもりはありませんでした。
嫌な思いをさせたのなら、ごめんなさい。
みんな、同じことを言う。
だけど、いじめられた方の心に刻まれた傷は、いつまで経っても残るんだ。簡単には塞がらない。
「あんな」
まだ何かあるのか。もう十分だよ。
「ウチ、ずっとまあくんのお守りして、一緒に負け組やってきて、ホンマに嫌だった」
顔を上げると、マイは泣いていた。大粒の涙が、ほおを伝っている。
「だから、高校に入って、ヨシキに告白された時は、ホンマにうれしかった」
マイは胸を膨らませて、ふうと息をついた。
「学年一の…学校一のイケメンに告白されて、学年の中心グループの、ど真ん中にいさせてもらえて…。どんなに楽しいか、わかる? 幸せだか、わかる? 絶対にわからんやろ、あんたみたいな万年陰キャには」
薄笑いを浮かべていた。こんな表情、僕に向けたことはない。あざけりと哀れみと、そして、後悔。勝ち誇った話をしているはずなのに、悲しい表情なのは、なぜだろう。
言葉が、鋭いナイフのようだ。
何度も何度も、僕の心を突き刺し、引き抜いて、また突き刺した。
「ヨシキはウチを日陰から、日のあたるところに引っ張り出してくれた。こんなん、あんたのお守りをしていたら、絶対にないことやった。そら、セックスもするよ。ヨシキに初めてをあげられて、幸せやった」
マイは眉を吊り上げて、急にグッと表情を引き締めた。
「どこで、どんなふうにやったか、言うたろか」
いつの間にそんな残酷な子になったんだよ。
もう耐えられなかった。
「いらんわ」
僕はそう言うと、マイの横を通り抜けて、玄関ドアのノブに手をかけた。
「もう二度と、来んといて」
振り返ってみた。マイはこっちを見るかなと思ったけど、僕に背を向けたままだった。また泣き出したのか、背中が小刻みに震えていた。
おしまいだ。
さよなら、マイ。
僕はドアを開けると、自分の部屋に戻っていった。踏みしめるフローリングの床が冷たい。寂しくて寂しくて、心がからっぽになったように思えた。