学校に復帰できないまま、夏休みになった。
時間は少し前後する。
あの一件があった翌日から、マイは本当に来なくなった。朝も待っていないし、帰りにプリントを持ってくるのは、同じクラスで家が近所の梅野というやつになった。
ホッとした。
マイの顔を見て辛い思いをしなくていい。
だけど同時に、悲しかった。取り返しのつかないことをした感じがした。
ただ、それで僕の心のザワザワが収まったわけではなかった。むしろ学校に行かずに一日中、家にいるので、次から次へとマイと黒沢の妄想をして、苦しむことになった。
僕には空手が必要だ。
頭の中の邪念を、きれいさっぱりと洗い流してくれる空手が必要だった。
しかし、わずか3カ月程度で道場をやめてしまった手前、親にすぐにまたやりたいと言い出せず、悶々とした日々を過ごしていた。
とりあえず、体を動かせばモヤモヤが晴れるかもしれないと思って、母さんが仕事に出かけた後に近所を走りに行った。
全然ダメだった。走っている間に逆にいろいろ考えてしまう。やはり、空手でなければダメだ。
スマホで道場を検索した。京橋の方はダメだ。行きや帰りに黒沢やその取り巻きと会う可能性がある。学校とは逆の方向、鴫野の方にないか。明日斗が言っていた通り、思っていた以上にたくさんの道場があった。フルコンタクト空手だけではなく、伝統派空手やキックボクシングも出てくる。総合格闘技もあった。この時、キックや総合は道場ではなく、ジムと呼ぶのだと知った。それにしても、こんなにいっぱいあるのか。
画面をスクロールする手が、ふと止まった。
「Gym NEVER GIVE UP」
すぐに思い出した。あの子の所属団体だ。僕が壮絶KOされて漏らした大会で見た、珍しい横文字の団体。ジムって、空手道場じゃないのか? リンクをクリックしたらインスタに飛んだ。道場の内装? 壁の白い殺風景な室内の写真が一枚出てきて「リニューアルオープンしました! よろしくお願いします #Gym NEVER GIVE UP」とメッセージが添えられている。
それだけだった。キック? 総合? でも、所属選手は空手の試合に出ていたぞ? これでは何のジムなのかすらわからない。
場所は、鴫野だった。割と近くだ。いつも走っている圏内にある。
翌日、例によって母さんが仕事に出かけた後にジョギングに出かけた。7月に入っても梅雨は明けず、朝からジメッとしていた。そして暑い。走り出して間もなく、汗びっしょりになった。
真正館がある京橋の街は、にぎやかだ。駅前は繁華街でカラオケ店やパチンコ店も立ち並び、飲食店も多い。だけど、鴫野はそうではない。駅前にスーパーはあるけど、そこまでにぎわっていない。道一本外れれば、普通の住宅地だった。
「Gym NEVER GIVE UP」
割と簡単に見つけた。これまで全く気が付かなかったのは、駅前から道一本外れた雑居ビルの2階だったからだ。見上げないと気が付かない。窓の下に色褪せた看板がかかっていた。そんなに新しい感じはしない。
階段下に立て看板でも出しておかないと、誰も来ないんじゃないか? そう思いながら青いリノリウムが敷かれた狭い階段を上がっていく。電気すら点いてない。まだ営業が始まっていないのか。開くのは夕方からからだろうか。とりあえずドアの前まで行ってみよう。きょうは場所を確認するだけでも構わない。
玄関ドアはチェッカーガラスで、中の様子がわからなかった。ちょうど顔あたりの高さに「Gym NEVER GIVE UP」とシールが貼ってあり、その下に「営業時間 AM10:00〜PM10:00」とある。
全然、空手道場という感じがしない。定休日はいつだろう。というか、この道場、毎日午前10時からやっているのか? 電話番号も書いてあってので、スマホで撮影した。もしかしたら使うことがあるかもしれない。
手首に巻いたチープカシオを見ると、午前9時を回ったところだった。開店まで1時間近くある。今日は帰ろう。場所を確認しただけで十分だ。入ると決めたわけでもないし。
階段を降りようとしたその時、ガサガサとビニール袋を擦る音がした。ふと視線を向けると、階段を上がってくる男がいる。白髪まじりのボサボサの髪、無精髭、そして少し寝ぼけたような目つき。コンビニの袋をぶら下げた手が小刻みに揺れている。40歳くらいだろうか。身長は僕よりも低い。165センチくらいか。
白いくたびれたTシャツに、カーキ色の短パン。足にはビーチサンダルだ。見覚えがあった。試合会場でセコンド席に座っていた人だ。髪には派手に寝癖がついている。太っているわけではないのだが、コロンとした丸っこい体型だった。切長の目で、江戸時代の浪人といった雰囲気だ。
僕に気がついた瞬間、目をわずかに見開いた。でも、驚きが表情に浮かんだのは一瞬だけ。すぐに口元を緩め、目尻に小じわを寄せながらニコッと笑うと、小走りで階段を駆け上がってきた。
「あ、もしかして、見学の方ですか?」
服装と顔つきからぶっきらぼうな対応を予想していたので、丁寧な口調に驚いた。外見と少しギャップのある高い、よく通る声が印象的だ。
「すみません、お待たせして! すぐ開けますね」
ポケットから鍵束をジャラジャラといわせながら取り出すと、えっとと言いながら一つ、つまみ出してドアを開けた。
まだ見学者だって言ってないんだけど。
ドアを開けると、室内の電気をつけた。それから「どうぞ」と手招きした。
ここで「見学者じゃありません」と言って逃げ出せるほど、僕は勇敢じゃない。ああ…どうも…と口から出たのは、頼りない声だった。踵を踏みつつ、ためらいがちにランニングシューズを脱ぐ。
つんと乾いた汗の匂いが鼻をつく。古びたブルーのウレタンマットが敷かれた床、奥の壁にはビニールテープがぐるぐると巻かれた、これも古びたサンドバッグが吊るされている。
格闘技のジムには違いない。でも、まるで時間が止まったような景色だった。