Gym NEVER GIVE UPは、真正館京橋道場に比べれば、狭かった。ひと回りほど小さい感じだ。
奥の壁の向かって左側、つまり窓側に棚があって、キックミットやグローブ、レガースが置かれている。その棚の右側にサンドバッグが2本、吊るしてあった。窓と反対側の壁には、更衣室らしきドアが2つ。手前側の壁沿いには事務スペースとおぼしき小さなカウンターがあり、トイレの入り口もあった。
「すみません。まだ開店前なんで」
おっさんはコンビニ袋をカウンターに置くと、いかにもなにわの商人といった笑みを浮かべ、もみ手をして僕に向き直った。そこで初めて、見学者ではないのではないか?という疑念を抱いたようだ。笑みが消える。スッと目を細めて眉根を寄せ、不安げな表情になった。
「…見学、ですよね?」
首を傾げて、僕を見上げる。胸の内を見透かされてしまった。だが、今更、違うなんて言えない。
「ああ、はい。えっと、そう…です」
頭をかき、しどろもどろになりながら答えると、おっさんの顔に笑みが戻った。ヨシヨシとでもいいたげな、うれしげな表情。営業スマイルってやつかな?
「ええっと、何を見てくれたんですかね? チラシ? インスタ?」
実際にはインスタだったんだけど。
「あ、違うんです。実はこの前、空手の試合会場でこちらの生徒…道場生の方が戦っているのを見て。珍しい、横文字の道場名なんて、珍しいなって思って」
知らない大人の人と、思った以上に普通にしゃべることができた。なぜだろう。この人に大人特有の威圧感がないせいかもしれない。
「空手。ああ、ああ!空手ね!」
おっさんはポンと手を叩いた。と、その時、道場の入り口から「押忍…」とあまり覇気のないあいさつが聞こえた。真正館でこんなあいさつをしたら、沖名先輩に「元気がないな。もう一度!」と言い直しさせられる。
見ると、赤いランドセルを背負った小学生の女の子が立っていた。白いポロシャツに紺色のスカートという、どこかの制服姿だ。背が高い。6年生? 髪を下ろしていたから一瞬、わからなかった。でも、ほっぺたのつるんとした整った顔立ちや、何より凛々しい切長の目を見て、思い出した。
あ……。あの子だ。
試合会場で、鮮やかなKO勝ちをした子。
「おはよう、ミユちゃん。今日はこっちなんか?」
ミユちゃんと呼ばれた子は靴を下駄箱に入れて道場に上がると、またあまり覇気のない声で「押忍」と言った。
いや、ちょっと待て。
僕は不登校だからここにいるけど、小学校は今、授業中じゃないの? 不登校の僕がいうのも何だけど、なんで学校行ってないの?
ミユちゃんはスタスタと道場を横切ると、更衣室のドアの向こうに消えた。おっさんは、僕がずっと目で追っているのに気がついた。
「不登校やねん。ご両親は共働きでね。学校に行かない日は、ここに来てんの」
言葉に悲壮感はない。むしろ軽く微笑みながら、昼ごはんはカツ丼です、と説明しているような感じだった。
「ああ、そうなんですか」
僕も釣られて、素で返してしまう。
「あの子、この前、空手の試合で優勝したんですよ」
「はい、知ってます。僕が見た選手って、あの子のことで…」
予想外に早く更衣室のドアがバン!と乱暴に開いて、薄いピンクのTシャツとグレーの短パンに着替えたミユちゃんが出てきた。真っ直ぐにサンドバッグに向かう。
立ち止まることなくサンドバッグに近づくと、ふわっと足を上げた。次の瞬間、ジムの空気を震わせるようなズドン!という衝撃音が響き、サンドバッグが横ではなく縦にブルブルと揺れた。
細身の体からは想像もつかないほど、強烈なキックだった。
ミユちゃんはクルリと向きを変えておっさんのところまでやってくると、表情をこれっぽっちも変えずに、割とはっきりとした声で言った。
「この人、この前、漏らしとった人や」
いきなり何を言うの、この子。呆気に取られた。
結論から先に言うと、僕は「Gym NEVER GIVE UP」に入会した。初めて足を踏み入れてから、割とすぐに。
「Gym NEVER GIVE UP」
ああ、めんどくせ。みんな「ネバギバ」と呼んでいるので、今後はそうする。ネバギバは空手の道場ではなかった。総合格闘技のジムだった。
「あの、空手を教えてほしいんですけど」
ミユちゃんは言いたいことだけ言うと、くるりと身を翻して棚からパンチンググローブを取って、サンドバッグの前に行ってしまった。飽きもせずに、いつまでも叩いている。ズバン! ズバン! 聞いているこっちが怖くなるくらい、強烈な打撃音が響き渡る。
「あ〜。そう…。あのね、うちは空手の道場じゃないんですわ。総合格闘技のジムなの。でも、一応、打撃もやってるから、それでよければ…」
このおっさんが、ジムの代表だった。
打撃という表現が、何を意味しているのか、その時はよくわからなかった。だけど、僕が衝撃を受けるほど鮮やかな組手をした選手が今、目の前にいる。どうせ頭を真っ白にするなら、この子が教わっていることを、自分も教わってそうなりたいと思った。
「以前、少しだけ空手をやっていて、その時、すごく楽しかったんです。頭が真っ白になるというか、リセットされるというか…」
思いがうまく伝えられない。僕がしどろもどろになっていると、宮城さんは適当にうなずきながら、カウンターの裏から何枚かのプリントを持ってきた。入会用の資料だった。
「とりあえず、やってみます?」
受け取って目を上げると、宮城さんの肩越しにミユちゃんが見えた。手を止めて、こちらを見ている。相変わらず真顔のままだが、上気して、ほおが赤くなっていた。
ちょっとかわいい。
広瀬◯ずが小学生なら、こんな感じかもしれない。小学生が朝から学校に行かずに来ているジムなのなら、不登校の高校生だって続けられるだろう。
「…検討します」
あいまいな返事をして出てきたけど、ドアを閉める時には入会すると決めていた。