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第19話 石川翔太

 母さんは、思った以上に簡単に、ネバギバに入会することを了承してくれた。


 「空手なの? 空手じゃないの? まあ、どっちでもいいけど。けがだけはしないようにね。あと、失礼のないように」


 買い物袋の中身を冷蔵庫に移す手を止めることなく、淡々と言って少し肩をすくめた。息子が不登校で家に引きこもっているよりも、多少、暴力的でも格闘技ジムに行ってくれる方がよほどマシなのだ。


 それは父さんも一緒だった。父さんは製薬会社の営業マンで朝早く出かけて、帰ってくるのは夜遅く。週末も仕事で出掛けていることが多い。働き方改革が進んだ令和の時代に、こんなに働かされるのかというほど働いている。だから、会うのは日曜日の夕食の時間くらいしかなかった。


 「お兄ちゃん、そんなに空手が好きやったんや」


 父さんに話しかけたのに、割り込んできたのは竜二だった。口一杯にほおばっていた塩唐揚げを飲み下して、鼻の穴を膨らませて感心したように言った。


 空手じゃないんだけど。説明するのが面倒だったので「うん」と答えた。


 「道場でもいじめられて、スポーツのたぐいはもうやらへんと思っていたけどなあ。お兄ちゃんも成長したやん」


 大皿からさらに塩唐揚げを3つ、4つと自分の皿に持っていく。こいつ、本当によく食べるようになったな。


 明日斗の食いっぷりにも驚いたけど、竜二の食欲もなかなかのものだ。小さい頃は食が細かった。サッカーでけがばかりしているのは栄養が足りないのだとコーチから言われて、母さんが竜二の好物のハンバーグばかり作っていた。ハンバーグだけは、よく食べた。だけど今は違う。何でもよく食べる。茶碗に五分しか食べなかったごはんだって毎晩、最低3杯は食べている。


 成長したのは、お前の方だよ。


 「まあ、けがのないようにな」


 父さんはにこやかに微笑みながら、静かに言った。空いたグラスに500ミリリットルの缶からビールを注ぐと、ちびっと飲んだ。普段は口数の少ない人だ。最近は頭髪が薄くなってシワも増えて、年を取ったなと思う。背が高くて骨張っていて全体的に尖ったイメージの僕と違って、丸顔にいつも笑みをたたえている、いかにも人の良さそうな中年のおっさんだ。営業マンなら仕事でたくさんしゃべらないといけないはずなのだが、それが想像できないくらいおとなしい。


 「仲間にも、けがをさせないようにな」


 そういうと、唐揚げを大皿から1つだけ取って、これも上品に半分くらいかじった。穏やかで、丁寧。父さんはそんな人だ。


 それは、沖名先輩にも言われたことがある。一緒に稽古している人は、切磋琢磨して一緒に強くなる仲間です。一生懸命やるのはいいけど、けがをさせないようにしましょう。スポーツ経験者というイメージがない父さんから、くしくも同じニュアンスの言葉を聞いて、なんだか妙な感じがした。


 ◇ ◇ ◇


 7月は引き続き学校に行っていなかったので、朝からネバギバに入り浸っていた。


 ネバギバは朝から晩まで何かしらのクラスを開講していた。月曜日ならば午前10時から11時半までが打撃、11時半から午後1時までがグラップリング。午後は2時からフリーマット。要するに自主練の時間で、人数がそろえばクラスが開かれた。夕方は午後5時から6時半まで少年部。ここで代表がフルコンタクト空手を教えていた。


 午後7時から8時半は総合格闘技。8時半から閉館まで打撃。基本的に1クラス1時間半で、曜日によって午前も午後も組み合わせが変わり、まんべんなく総合格闘技を学べるようになっていた。


 グラップリングというのは寝技のことだ。柔道は投げて押さえ込んで時間が経ったら勝敗が決まるけど、グラップリングは押さえ込んでから、絞め技や関節技でKOしにいく。要するに、総合格闘技の寝技の攻防だけを切り取った感じ。柔術着を着ないブラジリアン柔術…って、もっとわかりにくいかな。Tシャツと短パンという軽装で参加できるせいか、人気があった。


 ただ、実際にやってみると、空手と違ってものすごくしんどい。代表や先輩のジム生に押さえ込まれると、身動きができなかった。「ブリッジして逃げるんだよ」と教えてもらったが、まずそもそもしっかり押さえ込まれて、ブリッジができない。逆に先輩たちは下になってもクルクルとよく動いて、気が付けば腕十字を決められた。三角絞めもよく決められた。気が付いたときには僕の首に代表の足が絡まっていて「大丈夫か? すぐタップ(降参)しろよ」と笑いながら声をかけられた。


 打撃はキックボクシングだ。ただ、代表に言わせれば「キックじゃない」らしい。キックボクシングを習ったことがないのでわからないのだけど、総合はタックルして倒しに行くので、間合いがずっと広いのだそうだ。フルコンタクト空手の感覚でやっていたら「そんな距離でやっていたら組まれてしまうぞ」とよく注意された。


 指導は全部、代表だった。


 ああ、そうそう。さっきからずっと代表って言っているけど、宮城さんのことをそう呼んでいた。先生なのか宮城さんなのか、どう呼べばいいのか迷っていたら「代表」と呼んでいる人が多かったので、僕もそれにならうことにした。


 教え方は分かりやすかった。


 最初の30分はアップと基礎練習。打撃ならステップで体を温めて、シャドー。続く30分は対人の技術練習。ミット打ちをすることもあったけど、大概は2人1組になってパンチを防御して打ち返す、簡単なコンビネーションを延々と繰り返した。


 最後の30分はスパーリング。空手で言うところの組手だ。ただ、フルコンタクト空手みたいにガチではやらない。真正館では毎日毎回、互いに倒すつもりでやっていた。顔を蹴られて倒れるのは、当たり前だった。だけど、ここは基本的にマススパー、要するに軽く当てるスパーしかやらない。


 「強くは打ち込まないね。相手が防御に失敗してもダメージを受けないように、きちんとコントロールして止めよう」


 口酸っぱく指導された。だけど、フルコン時代の癖が抜けなくて、防御の上からガツンと当ててしまい「もっと力抜いて!」とよく言われた。


 え、これではまだ強すぎるのかな?


 戸惑いで、思わず手が止まる。真正館では「押し込め」「突き抜け」とよく言われたが、ネバギバでは「彼女のほおに触れる程度に」と言われた。どっちが正解なんだ。わからなくなる。


 真正館ほどではなかったけど、ジムの規模を思えば、そこそこ生徒がいた。学生が少なくて社会人が多い。午前中は当然、社会人だらけだ。飲食店、風俗店、夜勤明けの警察官。常連メンバーが4〜5人いてレベルが高かった。僕以外に珍しく学生で参加していたのが、翔太だった。石川翔太という。

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