「雅史、翔太とやろう」
いつも練習でコンビを組む相手に指名された。175センチと割と背が高くてガッチリとした体格だったので、180センチ以上ある僕と並んでも見劣りしなかった。通信制の高校に通っていて、午前中に練習に来ていた。昼からはバイトをしているという。
翔太は総合格闘技のプロ志望だった。中学まで柔道部で、力が強かった。ミットも強烈だった。パンチもキックも黒沢並み、いや、パンチだけならそれ以上かもしれない。ガードの上から当たる技はどれも重くて、骨までビリビリと響いて受けていて怖かった。
寝技は押さえ込みがキツくて、全くかなわなかった。まるで巨大なおもちでマットに張り付けられたようになる。隙間がなくて、本当に身動きができない。毎回のように腕十字を決められて、勝てる気がしなかった。
そして、いつも真顔なのだ。黒沢のように、口角を釣り上げてニヤリと笑わない。それはそれで意地悪そうではなくてありがたいのだが、いつも真顔というのは逆に怖くもあった。とはいえ打撃も寝技も手加減して、こちらにもある程度、攻撃させてくれるので、すごくいい練習相手だった。
ただ一つ、問題があった。翔太はすごいコミュ障だった。不登校のお前が言うなと言われそうだけど、ああ、こんなんだから普通の高校に行っていないんだなと思った。
まず、他人とスムーズに会話できない。朝、会ってもあいさつしない。最初、もしかして口がきけないのかと思ったくらいだった。いつも驚いたようなどんぐりまなこをしていて、目を合わさない。プロ志望だということも、通信制の高校に行っているということも、午後からはバイトだということも全部、代表から聞いた。慣れてくると少し話をするようになったものの、いつも言葉は最低限。しかも、発言するまでに時間が必要だった。
まあ、いいや。僕も人のことは言えない。
そんな翔太の代わりに、いろいろと教えてくれたのは岡山さんだった。午前クラスの常連の一人で、たぶん40歳くらい。いつも髪をきれいに七三に整えて登場する、ニコニコと笑みを絶やさない優しいおじさんだった。背はそれほど高くないけど、ガッチリとした体格は確実に何か格闘技をやってそうだった。立った状態で組み合うと、面白いように柔道技で投げられた。警察官だった。
「城山くんは健康的だなあ。学校行く代わりに朝から練習に来てさ」
程よくいじってくれて、助かっていた。
ただ、僕が足繁くネバギバに通った最大の理由は、間違いなくミユちゃんだった。午後の昼間は基本的には自主練タイムだった。そこで、連日のようにミユちゃんとフルコンタクト空手の稽古をした。それが楽しくて仕方がなかったのだ。
「城山くん、ミユちゃんとスパーしてみようか」
入会して早々の頃だった。
午後もジムに残ってストレッチしていた。のちに「雅史」と呼ばれるようになるが、この頃はまだ代表から「城山くん」と呼ばれていた。
僕以外にミユちゃんしかいない。彼女は朝の練習を終えて、親に持たせてもらった弁当を食べて、ジムの隅っこで漫画を読んでいた。
勉強しなくていいのか。小学校の不登校って普通、学校に行くだけ行って、クラスとは別の部屋で勉強するものじゃないのか。経験者だから知っているんだぞ。そんなことを考えていると、不意に代表から声をかけられた。
ミユちゃんは「何?」と言いたげな顔をして、漫画から顔を上げた。
「え、いいんですか」
思わず聞く。真正館では年下の中学生と組手をしたことはあったけど、小学生とはなかった。
小学生か。しかも女子。とはいえキャリアはあちらの方が断然に上っぽい。何しろ黒帯だ。力加減はしても、手は抜けないな。
「空手、教えてほしいんだろ? 3人でスパーを回そう。もちろんマスな」
というわけで、いきなりミユちゃんと組手をすることになった。あのハイキックをもらわないようにしないと。いや、でもこの身長差だぞ。そんな簡単に当たるかな?
実際に向き合ってみると、ミユちゃんは思った以上に小さかった。Tシャツの下にチェストプロテクターをつけてきたので、すごいボインに見える。思わずドキッとする。いやいや、何を考えているんだ。相手は小学生だぞ。
「1セット2分ね。じゃあ、はじめ〜」
代表のあまり緊張感のない合図で、初対戦はスタートした。
うわ、ちっさ。
試合場の外から見ていると全くそうは見えなかったが、向かい合うとしっかり腰が落ちて、すごく低く構えているように見える。ボディーへの下突きを当てるには、随分とかがまないといけない。胸元への突きで上半身を起こしたいけど、顔を叩いてしまいそうだ。
やりにくい。
ミユちゃんは遠い間合いからスッと一気に接近してきた。全く予備動作がなく、まるで目の前に瞬間移動してきたみたいで、反応できなかった。そのまま僕の腹に強烈なストレートを叩き込む。
「ぶっ!」
小さな拳が、僕のお腹にめり込む。思わず息が詰まるほどの衝撃だ。
マスじゃないのかよ。ガチじゃないか。
さらに1発、2発。続けて内股にローキック。バシバシとリズムよく2発蹴ってくる。
やられ放題だ。バックステップしてかわそうとしたが、またススッと近寄ってきて離れてくれない。そのまま追撃のコンビネーション。
「ほら、もっとフットワーク使わないと。固まってないで軽く、軽く」
代表から指示が飛ぶ。
フットワーク使って逃げようとしているんですけど、全く逃してもらえません。固まっているつもりもないんだけど。
これが黒帯の集中力なのか。試合で優勝する選手の集中力なのか。ミユちゃんの表情は真剣そのものだった。さっきまでの漫画を読んでいたときの、緩んだ顔とは違う。目つきが鋭く、口元も引き締まっていた。
僕は、ここまで集中してやれているのか?
結局、ほとんど何もさせてもらえないまま初対戦は終わった。ミユちゃんはタイマーが鳴ると、礼もせずに代表のところへ行き、真顔で「全然、なってないわ」と静かに言った。
なぜ僕に直接言ってくれないんだ。
「うーん。フルコンタクト空手をやっていた人の、悪い例の典型みたいだなあ。でも、2カ月くらいしかやってなかったんだろ? まだまだ修正はできるから、コツコツやっていこう。ミユちゃんも動くサンドバッグが来たと思って、付き合ってよ」
代表も素で、意外にひどいことを言っている。
ミユちゃんは僕の方をチラリと見て、代表に向き直ると、軽い調子で「もう一本、続けてやってええ?」と聞いた。ごはん、おかわり頂戴くらいのノリだった。
2本目で、初めてハイキックをもらった。
1本目と同じく、スッと接近されてパンチをまとめて、ローキックをもらう。逃げようと下がったところにミドルキック。そのまま接近して再びパンチの連打。この身長差。黒沢みたいにつかんで膝蹴りをするのに絶好の高さなのだけど、どんどん接近されるので逆に膝蹴りをするスペースがない。と、ミユちゃんが止まった。追いかけてくるのをやめた。今なら膝蹴りにいける。
いいのか? 相手は小学生だぞ。
そう思いながらも、体は動いていた。
顔面はまずい。ボディに軽く当てよう。キャッチする。捕まえた。その瞬間だった。ミユちゃんの細い肩をつかんだ僕の両腕の間から、つむじ風が吹きあがった。
バチッ!
脳内に響き渡る衝撃音。あ、ヤバイ! もう遅いのだが、ここで初めて思考が追いつく。ハイキックをもらった。右あごを蹴られた。視界が歪み、脳が揺れた感覚から遅れて、ツーンとした痛みが広がっていく。
お、まずい。視界が急に黄色くなる。力が抜けて、とっさに床に手をついた。
「お〜、お見事。一本!」
代表の声が聞こえる。顔を上げると、ミユちゃんがこちらを向いてきれいな残心をとっていた。
嘘やん。両腕の間から蹴った?
「まあ、仕方ないよ。今の城山くんには、ミユちゃんの蹴りは防げへんわ」
僕がよほど信じられないという顔をしていたのか、代表が笑いながらフォローしてくれた。