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第66話 v.s.新田

 新田との試合の日がやってきた。


 会場は鶴見緑地にあるハナミズキホール。普段はフリーマーケットや展示会などを開催している施設だ。ど真ん中に本格的なリングが設置されて、周囲に椅子を並べて観客席にしてある。選手の控え室はないが、会場がだだっ広いので、みんな思い思いの場所でアップをしていた。


 試合は基本的に体重が軽い順、年齢の若い順、経験の浅い順で行われる。僕と新田がエントリーしているのは多少、格闘技の経験があるBクラスのミドル級。過去のこの大会のタイムスケジュールを見ると、本来ならば終了間際の午後6時とか7時とかに組まれてもおかしくなかったが、2人とも高校生ということを考慮してくれたのか午前中の最後、30試合目となっていた。


 ちょっとだけよかった。というのも、この大会は午前10時に全選手が集合し、出場確認をする。計量は試合の1時間前だが、朝イチで会場に来て夕方まで待っているのは結構キツい。ずっと緊張が続くから。想像しただけで、お腹が痛くなる。何度もトイレに行って出し切った。お腹は引き続き痛いけど、もう何も出るものがないというのはある意味、安心だ。


 僕たちがいたところから試合会場のちょうど対角にあたる位置で、新田がアップしていた。ミット打ちをしている。キックミットを蹴っている。思った以上に違和感がないので、ゾッとした。もしかしたら、全く手も足も出ずにやられてしまうのではないか?


 「あれが相手か?」


 セコンドで来てくれた碧崎さんが、僕の視線の先に気づいて話しかけてきた。


 「そうです」


 「ボクサーって感じじゃないな」


 碧崎さんは3月の終わりに渡米するので、準備で忙しいはずだった。だけど「いろいろ教えたのに、試合を見ないわけにはいかないから」とセコンドを買って出てくれた。きょうは上下ともグレーのジャージーのセットアップだ。バキバキのアスリート体型なので、さまになっている。


 アメリカに行って、プロになる。


 そんな大きな旅立ちを前にして、緊張していないはずがない。なのにここ2カ月半くらい、僕の試合の準備をすごく手伝ってくれた。だからこそ、無様な試合をするわけにはいかなかった。せっかくあんなにたくさん教えてもらったのに何もできずに終わってしまっては、碧崎さんが僕のために費やした時間が全て無駄になってしまう。


 計量の時に、初めて新田と顔を合わせた。会場の一角に家庭でも使うような体重計が無造作に置いてある。


 「よう逃げずに来たのう、ワレ」


 おかしな関西弁を使って、ニヤリと笑った。


 体重計に乗るときに、新田は着ていたシャツを脱いだ。すごい体だ。背中の筋肉も腹筋も、くっきり割れている。ネバギバのアマチュア選手たちが試合前にこんな体になっている。しっかり練習して節制してきた体だった。


 「約束、忘れんなよ」


 僕の肩をポンと叩くと、さっさとアップをしていた場所に帰って行った。


 「パワーがありそうやな」


 碧崎さんがつぶやく。バンテージを巻いてもらいながら、アドバイスを受ける。といっても、全てこれまでの練習の中で言われてきたことばかりだ。


 「とにかくディフェンス。ガンガン攻め込んでくるだろうけど、絶対にムキになって打ちあわないこと。ディフェンスして、足使って回って。近づいたら首相撲して膝。確実に攻められるところ以外は、きっちりディフェンスすること。ギャンブルは絶対にしない」


 どこまでできるだろう。そう言われ続けながら2カ月以上、練習してきた。だけど、この緊張感の中でうまくできる自信がない。



 「ヒトシくん!」


 ミユちゃんがお母さんに連れられてやってきた。その後から代表もやってくる。ミユちゃんは黒い長袖Tシャツにデニムのハーフパンツ姿だった。まだ寒いのに、元気だな。さすが小学生。パタパタと小走りで碧崎さんのもとへと駆けてくる。


 「城山の応援に来たで」


 なぜ僕に直接、言わない。


 「緊張してるみたいやから、腹、蹴ったってくれ」


 碧崎さんは薄笑いを浮かべて、僕を立たせた。いきなりフルパワーの打撃をもらってびっくりしないように、フルコンでは試合前に腹に突きや蹴りを受けることがある。それみたいなものかな?


 ミユちゃんがスッと足を上げる。靴、履いたままかよ。腹筋を締めて受ける準備をした。


 蹴りはフェイントだった。パッと足を下ろすと、タイミングをずらして拳が僕の腹に突き刺さった。いわゆる水月という部分だ。小さな拳がめり込んで、胃袋を揺らす。ギュッと内臓が縮こまる感覚があった。


 「ぶっ!」


 めちゃくちゃ効く!


 「ミユちゃん、そこフェイントかけるところとちゃうで!」


 碧崎さんも代表も笑っていた。


   ◇


 僕の前の試合は、1ラウンドTKO決着だった。一方の選手が開始早々から攻め込み、相手が防戦一方になって固まってしまって、戦意喪失と見なされて試合が終わってしまった。


 「ああならへんように、注意せえよ」


 碧崎さんが僕の両肩をポンと叩く。その手がピシャリと音を立てた。まだ肌寒いくらいなのに、アップした後に汗が止まらなかった。緊張している。心臓がドクドクと動いているのを、手に取るように感じる。


 「赤コーナー、城山雅史選手!」


 コールされて、リングへ上がる。この試合直前の緊張感。突然、全身が重くなって動けなくなる。ヘッドガードがきつい。グローブが重い。キックレガースがずれているような気がする。全身が敏感になって、その場でうずくまってしまいそうだ。踏み出すにも、引っ張り上げないと足が動かない。


 うわー、緊張する。


 リングは高かった。足元がフワフワする。照明がまぶしい。


 「青コーナー、新田亮選手!」


 新田って、亮って名前だったのか。軽い足取りでリングに上がってくる。畜生、あいつ、緊張してないのか? きれいな顔を、黒いヘッドガードで包んでいる。新田は薄笑いを浮かべていた。あの顔だ。狂気モードの顔。


 レフェリーの手招きで、リング中央へ行く。


 「頭突き、肘打ち、サミングは禁止だからね。一方的に打たれ続けたら、TKO取るから。グローブ合わせて」


 説明の間、新田はずっと僕の目を見ていた。ギラギラと瞳を輝かせて、口角を上げて笑っている。なんて楽しそうなんだ。これから殴り合いをするというのに、こいつはどうして、こんなに楽しそうな顔ができるんだ? 僕はといえば、緊張で顔が引きつっているというのに。


 腕が重い。新田は上から叩きつけるようにグローブタッチした。腕がちぎれて落ちるかと思った。


 「コーナーへ。ジャッジ…ジャッジ…ジャッジ…」


 レフェリーの声がやけにはっきり聞こえる。


 「雅史、リラックスな」


 代表がコーナーの下から声をかけてくる。振り返って、うなずいた。


 「とりあえず1ラウンド目、やられずに帰ってこい」


 碧崎さんが付け加える。もう一度、振り返ってうなずく。ぐるぐると肩を回す。ポンポンと軽くジャンプして、フーッと息を吐いた。グローブをつけた手を胸に置いて、少しだけ目を閉じる。


 そうだ。緊張している場合じゃない。もう、やるしかない。集中だ。


 カァン!


 ああ、ゴングって、本当にこんな音が鳴るんだ。


 新田は一気に間合いを詰めて、パンチを打ち込んできた。右ストレートを振りかぶって、正確に僕の顔面を狙ってくる。腕を上げて、ブロックする。ガードしていても、お構いなしだった。続いて左フック。これもモーションが大きくて、隙だらけだ。だけど、緊張しているせいか、反撃できない。その間も新田は腕ごとへし折る勢いで連打してくる。


 「雅史、足! 足! 動いて!」


 大丈夫。碧崎さんの声がよく聞こえている。それに、ちゃんとディフェンスできた。ステップして左に回ると、新田は逃すまいと右のロングフックを振り回して追いかけてきた。


 ゴツン! 


 長い腕を振り回して力任せに打ち込んでくる。すごい衝撃だ。だけど、僕はこれ以上の衝撃を知っている。碧崎さんのパンチは、こんなものではない。一発もらったら倒れるようなパンチだ。それに比べれば力みが強くて、少し当たったくらいならば耐えられそうな気がした。その思いが、僕に少し余裕をもたらした。


 左に回りながら、新田の首を捕まえた。よし、ロープ際から脱出できた。新田は強引に僕の腕から頭を引き抜くと、さらに右のパンチを振り回して追いかけてくる。


 「いいぞ、雅史! 足を止めるな!」


 ああ、めちゃくちゃ下がっていて、見た目が悪いな。だけど、新田のパワーと真正面からぶつかっていては、こっちがもたない。下がりながら左のジャブを出すと、そこに右のロングフックをかぶせてくる。あっちの方が前進していて勢いがあるので、効くほどではないが、パンチをもらってしまう。かといって、強い右のパンチを出すわけにはいかない。苦し紛れに出せば、新田のパワフルなカウンターをもらってしまいそうだった。


 左を2発くらい出したところで「雅史、1分経過!」という碧崎さんの声が聞こえた。


 えっ、もう半分終わり? まだ何もしていない。あっという間だ。気がつけばヘッドギアの間からびっしょりと汗が流れていた。肩や腕も汗が伝うのを感じる。呼吸はまだ大丈夫だ。まだ余力がある。


 新田は何発、パンチを打っただろう。蹴りは出さない。アップの時は蹴っていたのに、試合では全くない。やはり、普段やり慣れていないことは、本番では出ないのだ。


 「止まるな! 押し切れ!」


 あちらのセコンドの声が聞こえる。新田は「シュッ」と息を吐くと、再びラッシュをかけてきた。


 うわあ、ちょっと勢いが落ちるかと思ったけど、全然そんなことねぇ!


 さっきまではブロックの上ばかり殴っていたが、今度はボディーに散らしてきた。結構、強烈だ。だけど、試合前にミユちゃんに鋭い一発をもらっていたので、それに比べると大したことはない。そもそも、新田のボディーは狙いがアバウトで、ポイントを捉えていなかった。


 もうすぐ1ラウンド目が終わる。ほとんど何もできなかったけど、倒されずに終わりそうだ。約束通り、ギャンブルもしなかった。


 と、新田の頭が下がった。


 少し疲れてきたのか、右のロングフックを振り回す時に、頭が下がっている。この高さ、右のミドルが当たりそうだ。いや、膝蹴りかな。と思った瞬間、膝を出していた。


 カツン!と硬い手応えがあった。しっかり刺さってはいないが、当たった感触だ。


 しかし、新田は止まらない。そこからもう2発、3発と打ち込まれたところで、ようやく第1ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。笑みは消えていた。僕をチラッと見ると、グローブタッチせずに汗だらけの背中を向けて自分のコーナーへと戻っていく。


 「よく帰ってきた。それでいい」


 コーナーに戻ると、碧崎さんがペットボトルの水を口に含ませてくれた。


 「膝が当たったけど、タイミング、わかったか?」


 息が切れて声が出ないので、うなずく。


 「じゃあ、前蹴りも当たるわ。でも、次のラウンドも最優先はディフェンスな。ギャンブルはなしで」


 ガードを固めて、前蹴りね。それも作戦の一つだった。


 「知らん技を突然、出されたら対処できへんやん? じゃあ、相手が知らんことをやったらええんとちゃう?」


 碧崎さんは練習中に、たびたびそう言った。そんなこと、言われるまで考えたこともなかった。


 「知らないことをされたら、防御の仕方がわからんやろ?」


 そりゃそうだ。


 「ボクサーだから、蹴り全般に疎いやろ。仮にキックに対応するために練習していたとして、知らんのは何や? 前蹴りちゃう?」


 ああ、なるほど。確かにネバギバでも回し蹴りはみんなよく練習しているけど、前蹴りを練習して、上手に使いこなしている人はあまりいない。ミユちゃんくらいだ。


 「雅史、空手出身なんやったら、前蹴りやったらええんとちゃう?」


 というわけで、この2カ月半ほど、前蹴りは集中的に鍛えてきた。


 相手コーナーを見る。


 新田もセコンドから何か指示を受けている。うなずきながら聞いている。次のラウンドはスタイルを変えてくるだろうか。今までのままなら、少なくとも膝蹴りは当たるのだが。


 「雅史、雅史」


 代表が手招きをしながら、僕を呼んだ。


 「雅史、勝てるわ。勝ってこい」


 珍しく僕の目をしっかりと見て、肩をポンポンと叩く。


 「セコンドアウト! ファイナルラウンド!」


 碧崎さんと代表がコーナーから降りた。リング中央に向き直る。あっちのコーナーで、新田はグローブをパアン!と音を立てて打ち合わせた。その顔に、またニンマリとした笑みが戻っている。


 カァン!


 第2ラウンドのゴングが鳴った。よし。我慢の時間は終わり。次のラウンドで、勝負だ。

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