2人には絶対に言えないけど、実はもう一つ、まあくんを異性としてすごく意識した出来事が割と最近、あった。
まあくんのパーカーを借りた時のことだ。
まあくんは最近、試合があったみたいで毎日のように遅くまで練習していた。なかなか帰ってこない。普段は城山家のリビングでおばさんや竜二、たまにおじさんともおしゃべりしながら勉強をしている。まあくんが帰ってこなくて寂しい時は、一人でまあくんの部屋に行った。
まあくんの部屋は落ち着く。
黄崎家は厳格な家で、小さい頃は漫画を買ってもらえなかった。ゲーム機もない。だが、城山家には漫画がたくさんあった。リビングに行けばゲーム機もあった。だから小さい頃、まあくんの家に行くのが楽しみだった。
中学になって、行く機会は激減した。部活で忙しかったから。あの一件以降、城山家に入り浸っているけど、実はこんなにたびたび出入りしているのは、小学校以来になる。
自分の家、自分の部屋にいると、いろいろ思い出して苦しかった。
ママは私がまた手首を切らないように、カッターとか刃物の類を一切合切、部屋から持ち出した。それにすごく違和感を覚えた。ベッドで横になっていると、あの夜のことを思い出して、体が震えた。最近は減ったけど、部屋で一人の時に過呼吸の発作が出て、すごく怖い思いをしたこともある。意味もなく涙が出て、眠れない夜もあった。
だけど、まあくんの部屋にいると、それがない。あそこに入れば、2人だけの世界ができ上がったように思えた。なんでも受け入れてくれるまあくんがそばにいて、すごく安心した。迷惑でなければ、ここで寝てしまいたいくらいだった。
それに、実はまあくんの部屋の匂いが好きなんだ。恥ずかしくて大きな声では言えないけど、私、匂いフェチらしい。だって、すごく好きな匂いがあるから。それが、まあくんの部屋の匂いなの。どんな匂いなのか聞かれても、うまく説明できない。ちょっと古い家の匂い。干した布団の匂い。乾いた汗の匂い。あと、なんだろう。ああ、そうだ。まあくんの手のひらの匂い|(これもクンクンしていると落ち着く)。少し甘酸っぱい、でも温かい匂い。それが入り混じったような匂いだ。
あの匂いに包まれていると、落ち着く。
それが濃縮されたものを、見つけてしまった。それでまあくんを、異性として強烈に意識してしまったんだ。
あの夜は寒かった。まあくんの部屋も寒かった。当たり前だ。暖房、ついてないんだもの。
「寒っ」
独り言を言いながら、ちゃぶ台に座る。暖房を入れようと目を上げると、椅子の背にパーカーがかけてあった。あ、これ、借りちゃえ。まあくんのサイズだから、さぞかし大きいだろう。寝袋みたいになっちゃうかも。なんだか楽しい気持ちになって袖を通して、頭からかぶった、その時だった。
なにこれえええええヤバいいいいいいいい
まあくんの部屋の匂いの濃縮版! それも、私が一番好きな、甘酸っぱい部分の濃縮版! 思わず襟元を寄せて、思い切り吸い込んだ。
はああああああ。頭がクラクラする
これ、まあくんの匂いだ! え、私、まあくんの匂いが好きなんだ!
その時、ふと思い出した。あいつに求められている時、どうして気持ちよくなれなかったのか。あいつ、ちょっと嫌な匂いがしたんだ。錆び臭いというか、なんというか。それに比べて、この官能的な香りはどうだ。私はもう一度、襟元をかき寄せると夢中で吸った。
うわあああ……。
いや、おかしい。こんなところ誰かに見られたら、確実に頭がおかしいと思われる。だけど、やめられない。
うわあああああヤバいヤバいヤバいめちゃくちゃいい匂いいいいいい
たまらない。どうにかなりそう……。
ハッ
階段を上がってくる足音がする。ちゃぶ台に座って、勉強をしているふりをした。
まあくんだ。
「マイ、それどうしたん?」
「え! ちょっと寒いから借りた!」
ああ、ヤバいヤバい。今、すごく顔が赤くなったりしてないよね。めちゃくちゃパーカー吸ってたとか、気づかれてないよね!
「それ、全然、洗ってないんだけど」
あ、そう。洗ってないんだ。だから、こんなにまあくんの匂いが、蓄積しているんだ。まあくんが疑いの目を向けているような気がして、必死に素知らぬふりをした。
それにしても。いやあ、たまらない。まあくん、めっちゃいい匂い。抱きついて、本人そのものを吸いたい衝動に駆られたが、なんとか我慢した。その代わり、どさくさにまぎれてパーカーを持って帰ってきた。
いや、めちゃくちゃまあくんには怪しまれていたけど、手放すつもりはなかった。
何、これ。フェロモン? まあくん、思春期迎えて、フェロモン出してるん? 別れた後、ダッシュで自分の部屋に戻って、思う存分、パーカーを吸った。
ああ、気持ちいいいいい
ヤバいよ。
何もしてないのに、興奮している。その夜、私はパーカーを着たまま寝た。大好きな匂いに包まれて、頭がクラクラしておかしくなりそうだった。
そのまま、ひとりエッチしちゃった。
あいつにやられている時は全然、気持ちよくなかったのに、パーカーを着たままのひとりエッチは、頭が真っ白になって気絶しそうなくらい気持ちがよかった。
あ、大丈夫だ。私、まともにできないのかと思っていたけど、大丈夫っぽい。ちゃんとイケる。ごめんね、まあくん。パーカー、汚しちゃったかも。
でも、そろそろ返却して、まあくんの匂いをまた蓄積してくれないと、ダメみたい。だんだん、匂いが薄まってきたから。
パーカーの件で、私はまあくんのことを、めちゃくちゃ異性として意識してしまった。こんなこと恥ずかしすぎて、サキにもコハにも言えない。
だから、本音を言えば一刻も早く告白してもらって、思う存分、まあくんを吸いたい。そうだなあ。脇の下とか、胸板とかクンクンしたいなあ。まあ吸いだ。全力でまあ吸い。
思い返せばクリスマスの夜に抱きしめられた時に、同じように頭がクラクラするほど気持ちよかった。あれはきっと、まあくんの匂いのせいだ。
パーカーじゃなくて、まあくん本体に抱きついて思う存分、スーハーしたい。
「じゃあ、私が城山のケツを叩いて、告白させたろか?」
サキはやっとコーヒーカップに口をつけた。もう中身は冷めているのではないだろうか。
「ああ、それは助かるねえ。助かるけどねえ……」
私は曖昧な笑みを返す。
「城山くん、マイちゃんを恋愛に引き込んだら、以前のことを思い出させてしまうかもと思っているんじゃないの? それで、なかなか言い出せないんじゃない?」
コハが名探偵みたいなことを言う。本当にそうなら、いつまでも告白しないだろう。優しい人だから。いや、ちょっと待って。そんなことになったら困るな。早く告白してほしいのに。
「せやけど、はよ引っ付いてしまわへんと、そのうち彼女できてまうかもしれへんで?」
え? サキ、何言ってんの?
「彼女?」
「うん。そう」
「できるって、誰に?」
「城山に、に決まってるやん」
え?! ちょっと待って。意味がわかんない。まあくんに彼女ができる? あのナヨッとして頼りないまあくんに? いつも弟みたいなまあくんに? え? どういうこと?
「え、まあくんに好きな子、おるん?」
混乱して、わけのわからないことを聞いてしまった。
「いや、知らん。そうじゃなくて、城山を好きになる子が出てくるかもしれへんということやんか」
サキの言葉は、衝撃的だった。そんなこと、1ミリたりとも考えたことがなかった。
だって、まあくんは、私が守ってあげないと生きていけないような、頼りない男の子だったんだもの。
「そんなこと、あるわけないやんか!」
パニックになって、思わず声が上ずった。わかってる。全部「だった」んだ。今は違う。今のまあくんは、以前とは全然違う。相変わらずおとなしくて引っ込み思案だけど、すごく頼もしくて、かっこよくなった。とろけるくらいに優しいのは、ずっと変わらない。よくわかっているのに、それを認めたくない自分がいた。
「だって、まあくんは中学までいじめられっ子やってんで。ずっと私が助けてあげてて、ナヨッとしてて。高校でも不登校になってるくらいなんやで!」
必死に否定したがっている自分がいて、思わず興奮して、まくし立ててしまった。だって、認めてしまったら、まあくんが私を置いて、どこかに行ってしまうような気がしたから。
「そんなん関係ないやん。それに、マイだって城山がおるのに、黒沢とくっついたやん」
サキは真顔で言った。いや、まあ、そうだけど。それは確かにそうだけど…。
「中学の時は地味な感じやったけど、今の城山くん、ちょっとかっこいいもんな」
コハはフォークをぶらぶらさせながら言った。もうティラミスは食べ終えている。
「え? かっこいいかなあ?」
いや、かっこいいよ。かっこいいし、いい匂いだし、最高だよ。いつの間にあんなにかっこよくなったんだろう? 世界の七不思議だよ。
「え、なに言うてんの。かっこいいやん。ちょっと斎藤工に似てへん?」
サキはニヤッと笑った。
「誰、それ」
「シン・ウルトラマンの人」
コハがスマホで写真を見せてくれた。
「おっさんやん!」
「あるいは長谷川博己」
またスマホで検索して、写真を見せてくれる。
「いや、そっちもおっさんやし! ん……。でも、似てるといえば似ているかもしれへん」
正直、ちょっと似ている。そうか。まあくんって、イケおじ顔なんだ。
「どっちやねん」
サキが笑ってツッこむ。
「ウチはずっと、キリンに似ていると思ってた」
「キリンって、あの首が長い?」
「そうそう。目が優しいところとか、なんだかちょっと悲しそうなところとか、キリンっぽいなって」
「ちょっと待ってよ。自分の彼氏をキリンっていう彼女は、おらんやろ〜」
「おるよ、ここに」
アハハ……。私とサキのやりとりを聞いて、コハが楽しそうに笑っている。
こうやって屈託なく笑っている時間が、愛おしい。
まあくん、好き。大好きだよ。いつまでも、そばにいてほしい。わかってる。調子いいよね。あんなにひどいことしたのに、こんなにまあくんのこと、求めている。私は、なんて自分勝手なんだろう。
あ、そうそう。ちなみに、まあくんは「雅史」と書いて「まさふみ」と読むからね。本人は訂正するのが面倒臭いから、「まさし」と呼ばれてもそのままスルーしているんだけど、本当は「まさふみ」なんだから。「モラシ」なんて、的外れな呼び方も甚だしい。
「まさし」なんて呼んでいる人は、もぐりなんだよ。