「おはよ」
2年生になり、1学期が始まった。
朝、マイが迎えにくる。まだスラックスだ。そして、もちろん眼鏡。伸ばしたままの髪は、前髪こそ切りそろえて手入れしているが、後ろは肩にかかるくらいになった。
あれから8カ月が過ぎた。マイは何もなかったような顔をしている。僕の前では過呼吸の発作を起こすこともない。それでも、イメチェンしたスタイルを崩さない。それを見ていると、まだどこかで無理をしているのではないかと思ってしまう。
マイは僕と違って頑張り屋さんだ。一生懸命、戦おうとする。だけど、僕に言わせれば、頑張りすぎだ。弱いところを見せてもいいし、しんどい時は学校を休んでも構わない。と思う。頑張り過ぎは反動が怖い。
「どうかした?」
マイはいぶかしげな顔で僕を見た。僕はどうやら、ずっとマイを見ていたようだ。
「ちょっと、じっとして」
立ち止まる。顔に向かって手を伸ばすと、マイは素直に目を閉じた。ほおにそっと触れる。もちろん、何もついていない。ただ、触りたかっただけだ。
「ごめん。取れた」
しれっとした顔で嘘をついて、また歩き出す。
「取れたって何が?」
マイは僕に触られたところをさすりながら、不思議そうな顔をした。
「花びら」
「嘘やん」
いや、バレるの早っ。マイは少し怒ったような顔をしたけど、すぐに笑顔になった。
「まあくん、ウチのほっぺた、触りたかっただけと違うのん?」
その通り。だが、素直に認めるのは悔しい。
「うん。ううん」
どっちとも取れる返事をして、ごまかそうとした。
「どっちやねん」
「うううん」
マイはニタ〜と笑って、下からのぞき込んできた。
「なに、どっちなん? 触ってもええねんで。素直に『触らして』って言うてみ?」
ニヤニヤ笑ってそう言いながら、自分のほっぺたをムニムニと触る。
「ううう」
「ほら、『触らして』って言うてみ?」
「んむむむ」
すごく触りたいけど。ムニムニしたいけど。「触らせて」と言うのは、恥ずかしい。顔が熱くなる。今、絶対に顔、赤いわ。勘弁して。
◇
クラス替えがあり、僕はマイと同じ2年5組になった。鈴鹿と明科も一緒なので、クラスでも登校時と同じ花中出身女子トリオ+僕という構図になった。担任は山梨先生。物理担当の若い男の先生だ。
黒沢は引き続き宮崎先生が率いる2年1組。新田は2年3組。岩出はクラス替えの表に名前がなかった。
何かあったのだろうか。
マイは明科に誘われて、手芸部に入った。基本的に例会は月、木曜日。美術部と一緒だ。ただ、例会のない日でも、手芸部員は部室を兼ねている家庭科室とか、校内のあちこちで年がら年中、何か作っている。
美術部と同じ日に例会があるということは、僕も部活に行っていいということだ。むしろ部活に行かないと、マイと下校のタイミングが合わない。昨秋に駅で絡まれた一件が忘れられなくて、今でもマイと別々に下校することには不安があった。
というわけで、今年は割とまじめに美術部に顔を出すことにした。
「おお、城山が来るとは珍しい」
美術部が部室として使っている美術準備室に入ると、色白で背の高い男子が声をかけてきた。この人が、新部長の西塚さん。絵を描かせればそれなりにうまいのだけど、最近はCGにハマっていて、部室にノートパソコンを持ち込んでAI画像ばかり作っている。美少女画像を大きくプリントアウトして壁に貼るものだから、まるでアニオタの部屋みたいになっていた。先代部長の藤田さんが「お前ら、こんなのを描いてくれよ」と残していった果物の静物画が埋もれそうだ。
「今年は城山も活躍してくれないと困るぞ」
作業台の椅子に座って腕組みしていた先輩も、声をかけてきた。この人がもう一人の3年生、米沢さん。必然的に副部長を務めている。
全く美術部員に見えない。丸刈りで色浅黒く、まくり上げたワイシャツの袖からのぞく二の腕は、どこの空手家ですかというくらい太い。昼に運動部が使っている体育館のウエートルームでハードな筋トレをしていて、噂ではベンチプレスで100キロを挙げたことがあり、運動部員から一目置かれていた。
美術部員なのに筋トレをしているという点では藤田さんの直系なのだけど、作っているものは西塚さんと系統が似ていて、アナログで漫画を描いていた。
それも、少女漫画。しかも、百合もの。
こんなマッチョマンが毎日、放課後に美術準備室で百合漫画を描いている。だから、藤田さん時代から美術部は「漫研」と揶揄されていた。これが藤田さんと米沢さんでなければ、即いじめの対象になっていただろう。だが、描いているのはベンチプレスで100キロを挙げ、けんかをすれば明らかに強そうな米沢さんなのだ。誰も文句を言えない。
文句を言われないのはいい。けど、この3年生2人の活動を軌道修正しないと、とても美術部とはいえない。あるいは僕が孤軍奮闘するかのどちらかだ。
美術部の顧問は神戸先生という人で、3年生の副担任だった。背の高いおじいちゃんで、ふさふさした口髭がトレードマークだ。ベレー帽をかぶせてパイプ煙草をくわえさせれば、漫画に出てくるような典型的な画家になると思う。
神戸先生は懐が深いというか鷹揚な人で、西塚さんのAI画像も「すごいね〜」と言ってほめて、米沢さんの百合漫画も「プロになれるんじゃないか〜」とほめていた。「まともな美術をやれ」なんてひと言も言わない。だからこそ僕が頑張って、美術部らしいところを見せないといけないと思っていた。
というのも、まもなく1年生対象の部活見学が始まるからだ。要するに新入生勧誘週間である。毎日、部室を開けて、1年生に活動しているところを見せる。部によっては体験会も開催する。1年生はいろいろと見て回って、気に入ったところに入部する。見学に来たときに嬉々としてAI画像を作ったり百合漫画を描いていたりしたら、まともな美術をやりたい子はドン引きすること間違いない。油絵を描いたり、デッサンをしているところを見せてあげないと。
僕はスケッチブックを開けた。
昨年、文化祭で展示したブラット・ピットの鉛筆画は、評判がよかった。よし、このシリーズで行こう。
ブラピはものすごくたくさんの映画に出演しているので、それぞれの映画でのブラピを描くというのも手だ。だけど、文化祭の時に「他の映画俳優も描いてほしい」というリクエストがあった。具体的にキヤヌ・リーブスとか指名してくる意見もあって、それに応えることにした。
というわけで、今はキヤヌを描いている。映画『ジョン・オィック』シリーズの姿だ。古本屋で買ってきた映画雑誌を手本に描く。生きているモデルと違って、動かないのがいい。よし、ガッツリとかっこいいのを描いて、1年生をたくさん入部させるんだ。なにしろ3年生2人が卒業すれば、僕しかいなくなるんだから。