部活のない日は基本的にネバギバに行っていた。というか、週4でネバギバに行けるようにスケジュールを調整していた。というのも新田と戦った後、すぐに次の試合が決まったからだ。
時間は、少し逆戻りする。
新田との試合が終わって、碧崎さんがアメリカに旅立った3日後。3月下旬のことだった。
「雅史、5月の真正館の試合に出ろ」
試合後に新田があんなことになって、モチベーションはガタ落ちしていた。そんな時に代表から言われた。夜のクラスが終わった後、カウンターに呼ばれた。代表はノートパソコンを触りながら、僕の方を見ずに言った。いつも手応えのない感じで淡々としゃべるのに、珍しく命令口調だった。代表は「試合は出たいやつが出ろ」という主義だ。自ら「出ろ」と強制しているのは、見たことがない。
「え」
すぐに悪夢が甦った。
昨年、真正館時代に初めて出た試合だ。黒沢にKOされて、小便漏らした大会。漏らしたことよりも、そこでマイが黒沢と付き合っていることを知ったショックの方が大きかった。
「関西選手権だ。もう初級じゃなくて、中級で出ろ」
「え? 中級……」
代表の言っていることに頭が追いつかず、もう一度、間抜けな声を出した。
「関西選手権は、全日本の選抜を兼ねてる。入賞すれば、全日本への切符が手に入る」
入賞? 前回のように初戦で黒沢と当たりでもしたら、入賞どころではない。
「ミユちゃんも出るから。あの子のご指名だ。お前と一緒に全国に行きたいってな」
「ミユちゃんが? 僕と?」
説明が足りない。いろいろな情報をすっ飛ばされすぎて、何がなんだかわからなかった。頭の中がごちゃごちゃになる。
「そうそう」
代表はノートパソコンをパタンと閉じて、僕をジロッと見た。普段、あまり目が合うことはない。ほんわかしたそこらのおっさんみたいな雰囲気を漂わせているのに、今は目が怖かった。さすが元プロ格闘家。ちょっと胃がキュッと引き締まる感じがした。
「あの子、お前のことをすごく慕っているから。不登校の先輩やって。高校生で不登校でも、ああやって生きているって」
ほめられているのか、けなされているのか、よくわからない。
「ミユちゃんは中学受験するから。7月の全日本が小学生では最後の試合になる。だから、お前と一緒に出たいんだとさ」
ああ、なるほど。ようやく話が理解できてきたぞ。
春休みの間は用事がなければ朝から晩までネバギバに入り浸っていたので、毎日のようにミユちゃんと顔を合わせていた。でも、そんなことひと言も言われなかった。相変わらず僕に直接、話しかけてくれない。
「まあ、ミユちゃんは普通に出場権は取るだろう。で、7月に京都で全日本。夏休み入ってすぐな。そのつもりで日程、空けといて。あ、出場権もちゃんと取れるように、練習しといて」
代表はそういうと、汚れてもいないカウンターの上を手でさらって、ふうと息をついた。
あっさりと言ってくれる。
僕がこれまで出ていたのは、高校生の初級クラスの試合だ。帯色で言えば白、橙、青(7級〜無級)まで。中級は黄、緑、茶帯(1〜6級)だ。茶帯は黒帯の一歩手前なので、相当強い。あれから1年経っているし、黒沢も、もう初級ではないはず。早ければ茶帯を巻いているかもしれない。
僕は初級でも、優勝したことがない。まだ1勝しただけだ。
「え、中級なんて大丈夫なんですか。僕、そんなレベルじゃないと思うんですけど」
不安だった。早すぎる。中級なんて、とてもじゃないけど通用しない。恐る恐る、反論してみた。
「仕方ないじゃん。全日本は緑帯以上じゃないと出られないんだから。中級以上で実績作らないと、出られないの」
代表は立ち上がると、静かながらも有無を言わせない迫力で言い切った。僕の横をすり抜けて、どこかへ行こうとする。だが、僕がよほど不安そうな顔をしていたのか、また戻ってきた。
「大丈夫。雅史はもうそのレベルだから。いつも指導している俺が言うんだから、間違いない。結果で俺の指導を証明してこい」
ポンと肩に手を置くと、取ってつけたような笑顔でニッと笑った。
……。
何かかっこいいことを言っているような気がするけど、ちょっと意味がわからない。
「僕の知り合いで、めちゃくちゃ強いやつが出るはずなんですけど」
黒沢がニタニタ笑っている顔が脳裏に浮かんでくる。
「ああ、そう。大丈夫だよ。雅史もこの一年で随分と強くなったから」
代表はサラッと言った。
僕は今でも、黒沢に勝てる気がしない。あのパワー、あのプレッシャー。イケイケドンドンのスタイル。押し込まれて、膝蹴りで倒されるイメージしかわかない。
早くもお腹が痛くなる。
断りたい。断っていいだろう。無理だ。黒沢に勝つなんて絶対に無理。試合場で会うのも怖い。
「ああ、そうそう」
まだ何かあるのか。
「翔太も出るから。同じ高校生中級の部で」
「え、翔太は総合の試合に出るんじゃないんですか?」
びっくりして聞き返した。翔太はプロ志望なのかどうかはわからないけど、主に練習しているのは総合だった。他のアマチュア選手とよく自主練しているし、総合の試合に出るものだと思っていた。打撃クラスでフルコンをしていることもあるけど、僕のように思い入れがあるようには見えなかった。
「あいつはウチの秘密兵器だから、8月のアマ修の関西選手権まで、他のジムの連中に見せたくない。とはいえ全く試合をせずに本番に行くのもアレなんで、フルコンに出す」
代表はいつもの淡々とした口調に戻って、説明した。
同じ道場に所属している選手が同じ部門にエントリーした場合、いきなり初戦で当たらないように主催者が配慮してくれることが多い。だから、いきなり翔太と当たることはないだろう。だが、黒沢とならある。というか、当たる可能性は非常に高い。
「お前のいう、その強いやつ。翔太がやっつけちゃうかもしれないじゃない。とにかくミユちゃんのたっての希望だから。小学校生活最後のわがまま、聞いてやってくれよ」
代表は無表情のまま、僕に向かって軽く手を合わせた。本当にお願いするつもりなら、もう少しニッコリするとか、申し訳なさそうにするとか、表情を作ったらどうか?と思う。いつも通り淡々としているところに、微妙にイラッとする。
とはいえ。ミユちゃんの希望、か。そう言われると、断りづらかった。
去年、僕が一番辛かった時に、一緒にいてくれたのはミユちゃんだった。本人にその意識はなかったかもしれない。いや、なかっただろう。だけど、小学生とはいえ、同じ不登校の子が同じ空間にいるということに、僕は安心していた。あの子が学校に行っていないのなら、僕もまだ大丈夫だと思っていた。
ミユちゃんたっての希望か。
黒沢に会うのは、今でも怖い。顔を見るのも嫌だ。だけど、今回ばかりは逃げられないような気がする。もう一度戦って、勝ち負けはともかく、この一方的にやられた気持ちを清算する必要があるのではないか。
だが、僕の口を突いて出たのは、そんな決意とは裏腹な言葉だった。
「一晩、考えさせてください」
僕はそう言って、ジムを後にした。
◇
翌日、ジムに行くとミユちゃんがいた。午前中の練習が終わったタイミングで、話しかけた。
「ミユちゃん、僕も関西選手権、出るわ」
ミユちゃんはチラッとこちらを見たが、すぐに目を逸らした。エネルギーゼリーを乱暴にじゅうと音を立てて吸い尽くすと、カウンターの方へと走って行ってしまった。ノートパソコンの前に座っている代表に向かって、割と大きな声で言う。
「代表、城山は特訓させへんと、関西選手権、突破できへんわ」
なんなんだ。照れ隠しか?
「んー、わかってる」
代表はいつも通り、適当に返事した。
本当に一晩考えた。やっぱり逃げられない。それに、たとえ負けたとしても、ミユちゃんのお願いなら断るわけにはいかなかった。
特訓が始まった。
きちんと口で説明して、できるまで何度も我慢強く付き合ってくれる碧崎さんと違い、代表の練習はよくも悪くも大雑把だ。
簡単に言えば物量作戦である。考えるより、動けという感じだ。
腕が上がらなくなるまでミットを打ち、倒れるまでスパーをやり、ヘロヘロになったところでビッグミットをする。夕方からのクラスが始まる前にウエートトレをやって、クラスに参加。またミット打ちしてスパーして、終わったら翔太と走りに行った。
「はい、もういっぽ〜ん」
代表の監視付きだった。
去年の夏は翔太に全くついていけなかったのに、今は追いつけこそしないが、なんとかついていける。はっ、はっとリズムよく呼吸をしながら走る背中を追いかけながら、自分が少しずつ成長しているのを実感する。
だけど、もっとやらないと。
1年前、黒沢に全く歯が立たなかった。秒殺された。そんなやつに勝たないといけない。不安しかなかった。不安から目を背けるために、とにかく練習した。
帰る頃にはヘトヘトを通り越して、座り込んでそのまま寝てしまいそうだった。マイが待っている。それだけを発奮材料にして、体を引きずって家にたどり着いた。