5月に入り、あっという間に試合の日がやってきた。練習と学校で忙しくて、気がつけば試合の3日前。突然、緊張が始まった。ああ、やっぱりエントリーしなければよかった。負けるのが怖い。大地震でも起きて、今から試合がなくならないだろうか。
これを試合鬱という。
そんな非現実的なことを願っても試合は否応なくやってくるわけで、例によって朝イチでジムの前で翔太と合流し、舞洲アリーナへ。会場で黒沢と接触するリスクを最小限にするため、マイには後から試合時間を連絡して、試合開始直前に来てもらうことにしていた。
会場に到着する。
高校中級重量級のエントリーは8人。高校生は小学生のように学年別ではなく、1〜3年合同だ。1年生と3年生ではだいぶフィジカル差があるので、このざっくりとしたクラス分けはいかがなものかと思いつつ、受付でトーナメント表を確認する。思った通り試合は午後から。黒沢は僕と反対側の山だった。決勝まで当たらない。ちょっとホッとする。
黒沢の初戦の相手は、翔太だった。
「めちゃくちゃ強いぞ」
着替えながら黒沢の特徴を教えた。翔太は聞いているのか聞いていないのか、時々こちらを見てうなずくだけで、うんともすんとも言わなかった。緊張しているのだろうか? 緊張しているのは僕も一緒だ。お腹が痛くて、何度もトレイに行く。ただ、黒沢といきなりぶつからないとわかったので、少しだけ気が楽だった。むしろ、いきなり強敵とぶつかる翔太は大丈夫だろうかと心配する余裕さえあった。
「あ! すみません」
トイレを出たところで審判の制服を着た人とぶつかりそうになって、思わず頭を下げて謝る。
「雅史。雅史じゃないか」
沖名先輩だった。ニコッと笑って、足を止めた。
「あ、押忍。ごぶさたしております」
「まだ空手、やってくれていたのか」
沖名先輩は僕の両腕をポンポンと叩いて、うれしそうに笑った。僕の腰の緑帯に目がいく。
「緑帯になったのか。もう中級だな」
「はい。きょうは決勝まで行ければ、黒沢と当たります」
初戦で当たらない安心感で、思ってもいないことが口をついた。覚えていてくれたのは、うれしかった。真正館時代のことは思い出したくもないけど、沖名先輩のことは嫌いではなかった。むしろ、よくしてくれたのに尻尾を巻いて逃げ出したみたいで、申し訳なく思っていた。
「そうか。一年越しのリベンジだな」
目を細めて、ニッと笑う。
「そんな……。勝てませんよ。そもそも決勝まで行けるかどうか」
何を言っているんだ。心にもないことを。本当はみんなぶっ倒して、黒沢もボコボコにしたいはずなのに。
「やる前からそんなこと言うな」
沖名先輩は少し複雑そうな顔をした。
「あいつ、あっという間に茶帯になったんだが、最近ちょっとサボり気味でな。そんなんじゃ黒帯になれないぞと常々、言っているんだけど」
ため息をつく。
「そんなんだから、雅史にだって付け入る隙はあると思うぞ」
白い歯を見せて、さわやかに笑う。そんなふうに言ってくれるのは、うれしかった。
「アップしなくていいのか? 足を止めさせて悪かったな。頑張れよ」
もう一度、僕の腕を分厚い手のひらでポンと叩くと、トイレに消えて行った。
サブアリーナで翔太とアップしていると、黒沢が現れた。ミット打ちをしていると突然、翔太が手を止めたので、何事かと思って振り向くと、黒沢が見覚えのある取り巻きを何人か引き連れて、やってくるところだった。右の口角を上げて、ニヤリと笑っている。思わずゾッとして、背筋を寒気が走った。
どんどん近づいてきて、かつて何度もそうしたように、僕の肩に手を回す。ふっといい香りがした。整髪料だろうか?
「よう、モラシ。俺のお古の使い心地はどうだ?」
耳元で低い声でささやいた。お古ってなんのことだ? 一瞬、わからなかったが、マイのことかと思い当たり、カーッと頭に血が昇るのを感じた。
「俺がしっかり調教しといたから、いい声で鳴くだろう? 感度はどうだ?」
そう言って目を細めると、ヘラヘラと笑った。引き連れてきた取り巻きたちも、くすくすと笑う。
こいつ、言わせておけば……!
頭にきて腕を振り払おうとした時、急に黒沢が僕から離れた。離れたというか、誰かから引き剥がされたと言った方がいい。翔太だった。翔太が黒沢の道着の襟をむんずとつかんで、僕から引きはがした。
「アップ中なんで」
僕との間に割り込むと、黒沢を真正面からにらんだ。珍しい。コミュ障の翔太が人の目を真っ直ぐに見つめるなんて。
「なんや、こいつ」
黒沢は呆気に取られた顔をした。
「おう、お前、誰に向かってもの言っとるんじゃい」「やんのか、コラ」
取り巻きたちが目を吊り上げて、詰め寄ってくる。京橋道場の高校生たちだ。あんなに優しい沖名先輩に教えてもらっているはずなのに、いつからこんなにガラが悪くなったのだろう。変な汗が噴き出す。ヤバいよ。試合前に場外乱闘なんて。試合前で緊張していたのにさらに別の緊張が重なって、またキーンと耳鳴りがしはじめた。
「あ〜、待てや、コラ」
黒沢が目を細めて、取り巻きを制した。
「お前、俺の初戦の相手か?」
翔太にぐいと顔を寄せて、メンチを切る。おでことおでこがぶつかりそうだ。翔太は一歩も引く気配がなかった。すでに道着を着ていて、背中にゼッケンもつけている。ゼッケンを確認すれば、対戦相手は顔を知らなくてもわかる。翔太は無言で、そしていつもの真顔で黒沢をにらみ返した。
「へえ、オモロいやんか。今年はじゃあ、お前に漏らしてもらおうか」
黒沢は翔太の胸を両手でドンと突き飛ばすと「行くぞ」と言って、取り巻きたちを連れてどこかへ行ってしまった。
ようやく耳鳴りが収まる。だけど、胸はドキドキしたままだ。はあ、恐ろしい。どうなることかと思った。
不安な気持ちのままアップを終えて、メインアリーナの観覧席に座り込んで、天を仰いだ。
体育館の照明って、どうしてこんなにまぶしいのだろう。
まだ1試合もしていないのに、すでにドッと疲れていた。試合場では早くもミユちゃんが2回戦に登場して、危なげなく勝ち上がったところだった。代表がやってきて、セコンドに入っている。
翔太は隣で何もなかったかのように、持ってきたおにぎりをもぐもぐと食べている。
よく何か食う気になれるな。僕はもう胃袋が固まってしまったみたいで、何も食べる気になれない。
「さっきは助けてくれて、ありがとう」
僕は一応、お礼を言った。翔太はチラとこちらを見て、真顔でうなずいた。
「……」
なんだか沈黙が気持ち悪い。マイには試合は昼からだと連絡した。ああ、早く来てくれないかな。翔太と2人では、この妙な沈黙に押し潰されそうだ。
「あいつ、高校で僕のことをいじめてて」
耐えきれなくなって、なんとなく自分の身の上話を始めてしまった。
「1年前、ここで初めて出た試合で、上段膝蹴りでKOされてさ」
翔太を見ると、全く僕の方を見ていない。引き続きおにぎりをもぐもぐと咀嚼している。まあ、いいか。聞いてなくても。
「その時、僕、漏らしちゃって。小便」
はあ〜。普通、小便漏らすか? 気絶しただけで十分じゃね? 今、思い出しても情けなくなる。だが、ここの思い出でもっと辛いのは、マイが僕のそばを離れて、黒沢のところへ行ってしまったことだ。
「嫌な思い出しかないねん」
翔太の咀嚼音が止まる。こっち向いたのかなと思って見ると、ペットボトルの水を飲んでいた。翔太は水を一気に飲み終えると、ぷふぁと変な声を出して、そして僕を見た。
「……」
この沈黙は、翔太が今、何を言おうか一生懸命、考えている時間なのです。少々、お待ちください。
変なやつだなと思う。そして、この変なやつといつも一緒に練習している僕も、よく付き合っているなと思う。ただ、翔太と一緒にいると、なんだか安心するのだ。翔太は決して僕のことも、そして他の誰のことも否定しない。かといって媚びるわけでもない。いつも多くを語らず、そばに寄り添ってくれる。
しゃべらない明日斗という感じだ。
はあ〜。
また緊張してきて、手のひらで顔を覆った。指先が冷たい。さっき散々、アップしたのに。微妙に震えている。
「倒してくるから」
急に、翔太の声が聞こえた。
「えっ?」
顔から手を離して、翔太を見る。こちらを見ていた。太い眉毛の下の、大きな丸い目がキラキラと輝いている。
「倒してくるから。さっきのやつ」
そういうと口元をぐいと手の甲で拭って、立ち上がってどこかへ行ってしまった。
え? なに言っているんだ? 倒してくるって? 黒沢を?
どれだけ強いか知っているのか? 翔太の言っていることが理解できなくて、しばらく混乱していた。おかげで、少し緊張がほぐれた。