午後になってマイと母さんがやってきた。
なんでまた母さんも来てるの? しかも、朱嶺まで一緒だ。確かにきょう試合だと言ったけど、まさか来るとは思ってもいなかった。
マイはネイビーのパーカーに、ジャージーの長ズボン。くだけすぎ! だが、かわいいから許す! 朱嶺は白いTシャツの上にデニムのジャンパー、下は黒いミニスカートだった。制服の時ほどゴージャス感はないものの、カジュアルな服装でもモデルばりのスタイルのよさは隠しようがない。
「途中で一緒になって」とマイ。
「連れてきていただきました」
朱嶺はマイに深々とお辞儀をして「ありがとうございます」と言った。
「なんだ、雅史。二股はダメだぞ」
隣にやってきた代表が、ニコリともせずに言う。そういうことはニタニタ笑いながら言ってくれないと、洒落にならない。マイに、黒沢とその取り巻きが陣取っている場所を教えておいた。近づけば、鉢合わせする可能性があるからだ。
それにしても母さんと朱嶺が一緒だったとはいえ、よく来たものだ。ここはマイが黒沢と付き合い始めた頃に来て、一緒に記念撮影した場所だ。嫌な記憶があるところなので、引き返してもおかしくないと思っていた。
表情をうかがう。まるで、自分が試合をするかのような、真剣な顔をしていたので「緊張してるの?」と聞いてみた。
「えっ?」
マイは眉毛に力を入れたまま、僕を見る。
「いや、緊張してるのかなって」
「してへんよ。緊張してるのは、まあくんの方でしょ」
そうは言うものの、少し表情がこわばっているように見える。
「そう。それならいいけど」
みんなと離れたところを見計らって、顔を寄せてささやいた。
「苦しくなったら、いつ帰ってもいいんだから。一緒に帰るから、遠慮なく言って」
マイは体を離すと、また眉毛に力を入れて僕を見た。
「何言うてるん? ちゃんと最後まで、まあくんを応援して帰るから」
そして僕の肩をペシッと叩く。
「だから、自分のことに集中!」
ありがとう。気合入ったわ。
高校生中級重量級の部の第1試合が、黒沢対翔太だった。
「翔太、ファイト!」
観覧席からメインアリーナに降りて、フェンスの外から声を張り上げる。
「ヨシキさん、ファイトっす!」「ヨシキさん!」「ヨシキさ〜ん!!」
斜め向かいに陣取った黒沢の取り巻きがうるさい。試合場に立つ翔太は、黒沢より頭半分ほど小さかった。
高校生の重量級は70キロ以上だ。翔太は身長170センチほどで体重は80キロある。道着を着ていてわかりにくいが、ウエートトレーニングで作り上げた、ものすごく分厚い体をしている。その体で、身長差を覆せればいいが。ただ、黒沢も相当、フィジカルが強い。それは1年前にボコボコにされていた僕が一番、よく知っている。
「構えて、はじめ!」
審判の号令で試合が始まった。
翔太は一気に距離を積めると、胸元からボディー、ボディーから胸元と上下の突きのコンビネーションで攻め込んだ。
おお、押し込むぞ。
黒沢はたまらずに後退する。だが、表情にはまだ余裕があった。リーチ差を生かして翔太の道着をつかむと、下がりながらもボディーへ膝蹴りを突き刺した。
反則だ。
真正館の試合では、相手の道着や体をつかんでの攻撃は反則である。だけど一瞬つかんですぐ離すので、審判もスルーして試合を流している。
翔太が突きで攻め込み、黒沢が膝蹴りを返すという攻防が何度か続いた。
「翔太、引き分けは負けやぞ! きちんと取り切れ!」
セコンド席から代表の声が飛ぶ。
そうなのである。
黒沢は主催の真正館の選手。翔太は他流派ネバギバの選手。戦って引き分ければ、審判はまず間違いなく真正館の選手を勝たせる。そういうものなのだ。俗にいうホームデシジョンってやつ。だから、他流派の選手が主催者側の選手に勝つには、誰がどう見ても勝っているという試合内容にしなければいけない。
簡単なのは一本を取ること。要するにKOすればいいのだが、黒沢くらい強いと、一本を奪うのは難しい。となると、とにかく一方的に攻め込んでいる時間を増やすしかない。
体力勝負になる。
「シュッ!」
翔太は息を吐くと、突きの回転を上げた。顔はもう汗びっしょりだ。膝蹴りを受けて道着がはだける。早くもラスト30秒。膝蹴りで反撃させないように間合いを詰めて、突きで前に出る。
「芳樹、膝を出せ! 膝!」
黒沢側のセコンド席にいるのは、京橋道場の黒帯だ。名前は確か工藤さんだったはず。だが、黒沢は圧倒的な翔太のラッシュについていけないのか、スタミナが切れたのか、手も足も止まって、ジリジリ後退し始めた。口元を歪めて、苦しそうな表情をしている。
え、なんだ、これ! 勝っちゃうんじゃない?!
あんなに強かった、道場では白帯の頃から格上の道場生を圧倒していた黒沢が押し込まれているなんて、信じられなかった。
「ラスト15!」
代表の声が飛ぶ。いいぞ、このまま押し切れ! 勝てる!
と手に汗握った瞬間。
黒沢が翔太の頭に手をかけた。高校生の部は、ウレタン製のヘッドガードを装着している。そのヘッドガードに完全に手をかけた。ヤバい! 上段膝蹴りが来る!
ビリリ
ヘッドガードを留めているマジックテープがはがれる音が、ここまで聞こえた。黒沢は翔太の頭をヘッドガードごと抱え込むように引き付けると、左の膝を高々と上げて顔面へ膝蹴りを叩き込もうとした。
ゴッ!
骨がぶつかる音がする。聞き慣れた、膝蹴りが顔面を捕らえる音だ。
やられた。さっきまで聞こえていた応援や会場のざわめきが、一瞬で消える。翔太でもダメだった。耳がツーンとして、冷たいものが首筋を流れる。
思わず目をつぶろうとした、その時だった。黒沢の膝が変な方向に曲がった。スローモーションのようにゆっくりと、腰が落ちる。翔太はチャンスを逃さなかった。ちょうどいい高さまで落ちてきた黒沢の顔面を、強烈な右の中段回し蹴りで捉えた。
ゴツッ
再び骨と骨がぶつかる音。黒沢の左のほおあたりに、正確に当たった。
翔太の中段回し蹴り……キックボクシングでいうところのミドルキックは、めちゃくちゃ痛い。足首ではなく膝に近い、骨の太いところでしっかり蹴り込んでくるので、スパーでもらうと、とても痛いのだ。
それが顔面を撃ち抜いた。
黒沢は仰向けに倒れると、半眼を開いたまま動かなくなった。口の中を切ったのか、唇の端から細く血が流れ出しているのが見える。
え? 黒沢が倒れている? 嘘だろう? 信じられない光景だった。
「……!」
2人の副審が旗を横に上げ、すぐに真上に直した。一本だ。
「い、一本!」
主審の宣告が終わる前に、翔太は真顔で黒沢の前に仁王立ちして、残心を決めた。引き手を取った勢いで、汗がパッと飛び散った。
「担架、担架だ!」
主審が審判席に向かって声を上げた。一気に周囲の音が甦る。副審が駆け出す音、会場のざわめき。黒沢はピクリとも動かない。セコンドの工藤さんが飛び出してきてそばに座り込み、ほおに手を当てて「大丈夫か」と声をかけている。そして、主審に向かって言った。
「顔面殴打じゃないんですか?」
顔面殴打……。要するに反則だ。真正館の試合は、拳で顔面を攻撃してはいけないのだ。でも、何を言っているんだろう? 翔太の蹴りが当たったから、倒れたんじゃないのか?