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第80話 同門対決

 「顔面殴打じゃないんですか?」


 工藤さんは黒沢のそばにしゃがみ込んだまま、主審を見上げて言った。


 え……。


 そうだ、頭突きかましただろうが! 反則だ、反則!と取り巻きたちがブーイングを始めた。


 翔太は外れかけたヘッドガードを直すと、一礼をして試合場を出ようとする。それを工藤さんは「ちょっと待って!」と呼び止めた。選手が試合場を出てしまうと、判定が確定してしまうからだ。


 「だってこの子、頭突きしたでしょう? 顔面殴打で反則ですよ」


 工藤さんは口を尖らせて、主審に食い下がる。


 「反則って言うなら、そっちの選手だって反則だろうがよ」


 代表もセコンド席から立ち上がった。


 「思いっ切り、ヘッドガードつかんどったやないかぁ。反則やろぉ」


 普段、あまり関西弁っぽくないのに、なぜこんな時だけ巻き舌でコテコテの関西弁? しかも目つきをやたらと鋭くして、ガラの悪いおっさんのような表情を作っている。


 「いや、あれは試合の流れで…」


 工藤さんは引き下がらない。主審が副審を呼び、試合場の中央で協議が始まった。担架が運び込まれ、気絶した黒沢が運び出される。副審の一人が本部席へと走っていった。指示を仰ぎに行ったようだ。


 「流れの中やったら、反則してもええんか?」


 「いや、そういうつもりで言ったわけじゃないんですけど……」


 代表は工藤さんに絡む。工藤さんは目を泳がせて、しどろもどろになった。


 「でも、決定的な反則をしたのは、そっちじゃないですか」


 さすが真正館の黒帯。ちょっと威嚇されたくらいでは引き下がらない。


 「反則に決定的もクソもあるかいな」


 代表も下からねめつけるようにして、迫る。


 「ダウンしてから蹴ったじゃないですか」


 「あれ、ダウンなん?」


 しばらく押し問答が続き、副審が本部席から戻ってきた。主審に何か耳打ちした。


 「はい、セコンドは試合場から出て」


 主審に促されて、代表と工藤さんはセコンド席に戻った。試合場には翔太だけ。まだ顔は汗まみれのままながら、はだけた道着をきちんと直して正面を向いて、胸を張って立っている。


 「改めて判定取ります。判定!」


 主審の声とともに、副審の旗がいずれも真上に掲げられた。


 「一本、一本、主審、一本。判定、赤!」


 「押忍!」


 翔太は空手風に十字を切って一礼した。


 嘘だろ、本当に勝っちゃったよ。


 「ちっ、なんだよ」「応援に来いとか言っといて、初戦で負けとるやないか」「ダッセえ」「帰ろうぜ」


 僕の後ろを、黒沢の取り巻きがぶつくさ言いながら通り過ぎていく。大粒の汗をしたたらせながら、翔太が戻ってきた。


 コイツ、スゲえ!


 僕、こんなスゲえやつと一緒に練習していたのか。手を上げたので、呆然としたまま、つられて手を上げた。ハイタッチする。翔太の分厚い手のひらがパアン!といい音を立てた。言葉が出ない。僕からペットボトルとタオルを受け取ると、汗を拭く前に歩きながら水をゴクゴクと飲んだ。


 「いや、すごいな……お疲れ」


 やっと声をかけられた。翔太は真顔のまま、何も言わずにペットボトルの蓋を閉めている。閉め終わり、ヘッドガードを外すと、顔の汗を拭いた。左の額が赤くなっていた。しれっとした顔で頭突き、したんだな。


 おもむろにこちらを向く。


 沈黙。


 何か言うつもりなんですね。待ってるよ。


 「決勝で待ってる」


 ボソッとひと言。ニコリともしない。かっこいい。翔太、めちゃくちゃかっこいいよ。僕もそのセリフ、一度言ってみたい。と思っていたら、続けた。


 「一度、言ってみたかった」


 いや、お前もかい!


 期待に応えないと。それに、こんなに強いやつと一緒に練習しているんだ。簡単に負けるわけがない。妙な自信がわいてきた。



 翔太の1回戦をやっている時に、ミユちゃんは決勝戦を危なげなく勝って、みんなの予想通り全日本の出場権を手に入れた。僕は真正館の選手相手に2戦連続で本戦判定で勝ち、決勝に駒を進めた。いずれもフィジカルの強い選手だったが、遠い間合いから左の突きで押し込み、前蹴りで突き放して、まともに攻撃させなかった。


 キックボクシングの試合に出た経験が生きた。キックに比べると、フルコンタクト空手の間合いはずっと近い。キックは顔面にパンチをもらいたくないから、相手の手の届かないところから攻防がスタートする。だが、打ち合うことが大前提のフルコンタクト空手は、最初から手の届く間合いで攻防が始まる。


 フルコンタクト空手の間合いの外から攻撃する僕のスタイルは、空手しか知らない選手には随分とやりにくかったようだ。2人とも、ろくに攻撃を当てることができないまま、敗退した。


 そうか、なるほど。今になって、碧崎さんに言われたことを思い出す。


 「試合で勝つには、相手が知らないことをやるのが一番、手っ取り早い」


 見たことがある技を防御するのは簡単だが、知らない技を出されると、そもそも防御することが難しい。相手の知らないことをやることこそ、勝利への近道だとよく言われた。当時はよくわからなかったが、今ならすごくよくわかる。フルコンタクト空手の選手は、キックボクシングの間合いに対応できない。


 決勝の相手は翔太だった。翔太は2回戦もパワフルな突きのラッシュで相手にこれといった見せ場を作らせず、判定勝ちした。


 さて、お互いに手の内を知った者同士だ。


 翔太は総合の選手なので、キックの間合いも知っている。総合の間合いはもっと遠い。ジムでのスパーでは、僕は翔太をコントロールできたことがない。いつもやられる。


 どうすればいい?


 同門対決なのでセコンドはなし。代表はフェンスの向こうで「雅史、一本取って勝て!」と気楽に野次を飛ばしている。さっき、抗議した気迫はどこへやらといった感じだ。


 試合場で翔太と向き合う。いつもの顔だ。いつもジムでスパーする時の、落ち着いた表情をしていた。堂々としている。僕はなんとなく試合場に入り、なんとなく立っていた。いつもみたいな緊張感もない。なんだ、これ。試合なのに、こんな気持ちになることもあるんだ。


 「はじめ!」


 これといった作戦を思いつかないまま、試合が始まった。

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