「はじめ!」
主審の合図と同時に、翔太はスッと流れるようなステップで間合いを詰めてきた。1発目のジャブはなんとかパリング(手で払って防御すること)で防いだが、2発目の右ストレートが僕の左の胸に突き刺さった。続いて左のボディー。「ふっ、ふっ」という翔太の息遣いとともに、どんどんパンチが飛んでくる。
突きの回転が早い。ついていけない。ダメだ、距離を取って戦わないと。
「まあくん、頑張れ!」
観覧席からマイの声が聞こえる。
「城山先輩、ファイト!」
朱嶺の声も聞こえる。
応援してくれるのはありがたい。だが、開始早々から劣勢だった。一生懸命、足を使って回り込もうとするのだが、翔太は僕以上にスピードがあり、間合いを遠ざけさせてくれない。そりゃそうだ。ラントレでも一度も勝ったことがないんだから。
そうだ。ラントレでも、スパーでも、僕は一度も翔太に勝ったことがないんだ。もう、どうしようもない。とりあえず、無我夢中で打ち返した。応援している時は気がつかなかったが、こうやって試合で相対した翔太は、いつもとは違って目を見開いて、必死の形相で攻め込んできていた。
普段のスパーで、僕よりも強いことは十分にわかっているはずだ。なのに、こんなに汗をかいて、目をむいて攻めてくる。絶対に勝つんだという、強い意思を感じた。
こんな翔太に、勝てるのか。
息が苦しかった。数えきれないほどボディーブローを食らって、スタミナがどんどん削られていく。
勝てるわけないじゃないか。
「やめ、やめ!」
気がついたら、試合は終わっていた。結果はもちろん、僕の判定負け。
「ありがとうございました」
「あざっす」
握手をした時の、胸を張った翔太の表情は、忘れられなかった。基本的にいつも無表情で、今もそうなんだけど、僕には汗まみれの翔太の目が、キラキラと輝いて見えた。笑っていないのに、ニッコリと笑っているように見えた。
畜生、こいつ、めちゃくちゃ強い。
僕、めちゃくちゃ弱い。
「雅史、途中で心、折れただろ」
試合場を出たところで、代表に呼び止められた。返す言葉もなかった。確かに途中で、どうしようもないと思ってしまった。代表は少し目を吊り上げて、怖い顔をした。
「もっと必死になって自分のスタイルを貫き通さないと、強敵相手に勝てないぞ」
ポンと背中を叩かれる。それほど強く叩かれたわけでもないのに、痛かった。自分の弱さを見透かされたみたいで、恥ずかしかった。
◇
真正館の大会の優勝賞品はトロフィーだった。
優勝、翔太。両手で持たないと不安定になるくらい、背が高いトロフィー。
準優勝、僕。片手で持てるくらいのトロフィー。
同じく巨大なトロフィーをゲットしたミユちゃんとともに、記念撮影する。応援に来てくれたマイや母さんや朱嶺にも入ってもらって、写真を撮った。
「どうや、1年前の悪夢、少しは払拭できたか」
母さんが耳元でささやく。どうだろう。よくわからない。
「まあくん、ほんま準優勝が好きやな」
僕のモヤモヤした気持ちを知ってか知らずか、マイはニコニコ笑っている。さっき、翔太とハイタッチしていたので、黒沢を倒してくれたことが、うれしかったようだ。
黒沢と当たらなくて、ホッとした。翔太が倒してくれて、ホッとした。そのホッとしている自分が、憎たらしかった。本当なら僕が黒沢と対戦して、倒さなければならなかった。ここで黒沢を倒していれば、1年前から続いていたモヤモヤを、自分の手で晴らすことができたはずだった。
だけど、それを翔太に委ねてしまった。いや、別に委ねたわけではない。たまたまそうなっただけなのだけど、それでも翔太が黒沢を倒したことにホッとしている自分がいて、それがすごく嫌だった。
「わかっただろ」
帰りの電車の中で、隣に座っていた翔太が不意に声をかけてきた。
「わかったって、何が?」
意味がわからなくて、聞き返す。そして、沈黙。
「倒せる相手だってことが」
ああ、黒沢をってことね。
「うん。でも、それは……。翔太だから、できたんじゃないのかな……」
完敗だった。翔太に完敗だ。僕に、あそこまで勝ちたいという気持ちがあっただろうか? 今まで自分なりに必死にやってきたと思っていたが、翔太の必死に比べれば、僕のはまるでなってない。翔太の必死を本物とすれば、僕のはおもちゃだ。
沈黙。
「俺ができたのなら、雅史もできる」
翔太は少し僕の方に身を乗り出してきた。じっと目を見つめてくる。透き通った、なんの混じり気もない瞳だった。そんな目で見ないでくれ。なんだか、自分の嘘を見透かされているみたいで、すごく恥ずかしい。僕は思わず目を逸らしてしまった。
「頭突き、狙ってたの?」
そう聞くと、翔太も僕から目を逸らした。
沈黙。
「いや、咄嗟に」と言ってから、珍しく間を置かずに「顔が目の前にあったから」と続けた。なんというか、顔が目の前にあったから咄嗟に頭突きを出したという闘争本能が、すごい。
「俺、全日本には出ない」
翔太は目を逸らしたまま言った。
「繰り上がりになる」
「うん」
さっきから、何を見ているんだろう。視線の先を追っても、向かいの窓しかない。
「全日本、頑張って」
翔太はこっちを向くと、僕の肩に手を置いた。
そうなのだ。翔太は閉会式の後、全日本に出ないと早々に大会本部に申し出た。で、僕が繰り上がりで関西代表になった。
「うん」
全然、代表なんて気持ちになれない。ミユちゃんとの約束は守れたけど、ちっとも自分の力でやり遂げた感覚はなかった。
次は7月末。死ぬほど練習しないと、代表の座を譲ってくれた翔太に顔向けできない。しかも、その直後には翔太がアマチュア修斗の関西選手権に出場する。僕がきちんと成績を残して、バトンを繋ぎたかった。
マイと朱嶺が隣で楽しそうに話している。いつの前にこんなに仲良くなったのだろう?