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第82話 傷跡

 試合から帰宅して晩飯を食べて、リビングで父さんと竜二と一緒にテレビを見ていると、マイがやってきた。


 「こんばんは!」


 胸に数学の参考書とノートを抱えている。


 「まあくん、勉強しよう」


 ちょっと怒ったような顔をして言う。


 「え、きょう日曜日やし、試合やったし、もうええやん」


 マイの顔を見られてうれしかったけど、正直、勉強は勘弁してほしかった。試合の後で、もう何もしたくなかった。きょうくらいは解放感に浸っていたかった。


 「日曜やし、試合終わった後やから、やるんやんか」


 マイは譲らない。異様に気合が入っている。内心、なぜそんなに必死なのかと思った。何か伝えたいことでもあるのだろうか? それともきょうの試合を見て、何か刺激を受けたのだろうか。


 「ほら、立って。早く!」


 腕を引っ張られて、引きずられるようにして僕の部屋に行く。ちゃぶ台に参考書とノートを置き、すぐに座って始めるのかと思いきや、ふうと息をついて、パーカーの裾で手のひらを拭った。


 「トロフィー、飾らへんの?」


 部屋を見回していう。


 僕は一つもトロフィーを飾っていなかった。昨年12月は決勝で負けて、仮想とはいえマイを守れなかった悔しさで、飾っていない。新田に勝ったトロフィーは、マイに見られたくなくて飾っていない。押入れに突っ込んだままだ。そして今回のも、箱に入れてベッドの脇に置きっぱなし。あまり飾る気にはなれない。


 「うん」


 今回も、素直に喜べなかった。黒沢に勝って、マイの悪夢を払拭するのは、僕がやるべきことだった。それができなかった。決勝は翔太の強さに心が折れて、完敗だった。自分の弱さが、つくづく嫌になる。


 「ウチも剣道やってたから、わかるよ。準優勝って、悔しいもんね」


 マイはベッド脇に転がしてあった箱を見つけると、しゃがみ込んでトロフィーを取り出した。


 「せやけど、まあくん。今回のは、飾っておこう」


 立ち上がるとトロフィーを両手で持ち、真剣な顔をして差し出した。


 「7月、全日本やん? 全日本で1位になろうよ。きょうの悔しさを忘れないように、これ、飾っとこ。見えるところに」


 やっと優しく微笑んでくれた。うっ、まぶしい。聖母のようだ。いや、聖母って見たことないけど。なんとなく、言葉の感じで。


 そういえば中学時代に僕がいじめられていると、マイはよくこんな感じで励ましてくれた。頑張れ、立って前に進もうって。昨夏の一件以来、自分がマイを引っ張っているつもりだったけど、この日は違った。またマイに引っ張ってもらっている。


 トロフィーを受け取ると、手を伸ばして本棚の上に置いた。


 「地震が起きたら、落ちてくるで」


 マイは両手を頭の後ろで組むと、あはっと笑った。


 「でも、きょうはスッキリした。翔太くんが黒沢をやっつけてくれて」


 トクンと心臓が鳴った。逸らしかけた視線を戻して、マイを見た。僕を見ている。穏やかに笑っている。いま、黒沢って言ったよな? ずっと「あいつ」だったのに。


 「あれが翔太くんじゃなくてまあくんやったら、もっと最高やったけど。それでも、ええわ。まあくんには申し訳ないけど、思わず『よっしゃ!』って声が出た」


 頭の後ろで組んでいた手をほどくと、パーカーの裾をつかんだ。


 「ざまあみろって、思ったよ。なんか1年前のことが全部、吹き飛んだ感じがした」


 斜め下の床に視線を逸らして、また僕を見る。そうなんだ。一瞬、黒沢という名前を呼んだことで、僕の胸のうちに不安がむくむくと沸き起こっていたが、スッとそれが大きくなるのが止まった。


 「吹き飛んだ…」


 言葉が出てこなくて、マイが言ったことを繰り返した。


 「うん。吹き飛んだ。と思う」


 パーカーの裾をいじりながら、もじもじしている。また斜め下に視線を逸らした。フッと表情が曇る。


 「去年は本当に、ごめん」


 マイはまた、昨夏のことを持ち出した。口元が歪む。今にも泣き出しそうだ。いや、もういいよ。全部、許すって言ったはずだけど。と、マイの目からポロポロと涙がこぼれ始めた。


 「ほ、本当に……ごめん……」


 「マイ」


 そばに行く。マイはパーカーの袖で目元を覆うと、しゃくり上げながら泣き出した。


 え、なんで突然、泣き出したの? 意味がわからない。どうしよう。なんで今更、昨年のことを蒸し返して謝っているの? むしろモヤモヤして泣きたい気分だったのは、僕の方なんだけど。どう慰めればいいかわからなくて、とりあえず肩に手を置いて、頭を撫でた。おろおろする。


 「マイ、大丈夫だから。全部、許すって」


 マイはうう、ぐすっとか言いながら、両手で涙を拭っている。ああ、なんなんだ。なんで泣いているの?


 わからない。


 わからなくて、混乱した。だけど、また僕に許しを乞うて泣いているマイを見ていると、頭を撫でているだけでは足りない気がした。じっとしておられずに、そっと抱き寄せた。


 どさくさに紛れて、エロいことをしていると思われなければいいけど。マイの頭が目の前にある。髪に鼻をつける。いい匂いがする。マイが使っているシャンプーの匂いだ。なんで泣いているんだろう? 本当にわからない。大丈夫、大丈夫と言いながら、背中をポンポンと叩く。マイは僕にすがりついて、胸に顔を埋めて声を殺して泣いていた。


 随分と長い時間、そうしていた気がした。


 「はああ」


 マイは不意に僕の胸に顔をつけたまま、深いため息をついた。


 「うん。もう大丈夫……。ありがと」


 そう言って、やっと顔を離した。目を閉じて、ふうと息をつく。何が大丈夫なのか、さっぱりわからない。


 僕を見上げる。


 こんなに間近でマイの顔を見るのは、久しぶりのような気がする。さっきまで泣いていたので、目が潤んでいて、ほっぺたも赤くなっていて、妙に色っぽい。


 これは、このままキスをするパターンなのではないか?


 いやいや、そんなの、いいのか? 弱っているところにつけ込んで、いいのか? 悪魔と天使が心の中で戦って、天使が勝った。


 「大丈夫? なんで泣いてるの?」


 まだポロポロと涙がこぼれだしたので、指で拭いた。


 「うん。うん」


 マイは一人でうなずいている。


 「うん。もう大丈夫。たぶん」


 「たぶん?」


 「うん……」


 「そう……」


 まだ混乱していたが、マイが昨年のことを、いまだに気に病んでいるということは、なんとなくわかった。


 「もう去年のことは、気にしてないから。いや、気にしていたけど、もう忘れた。全部、忘れたから」


 肩に手を置いて、もう一度、言った。本当は、まだ忘れてないんだけど。


 「はあ……。ありがと。本当に、ありがと」


 やっとマイの涙が止まった。僕の胸に頭をつけて、下を向いてため息をついている。はあ〜ともう一度、ため息をついた。


 「あのね、きょうの試合を見て、ウチも改めて頑張らないとあかんって思ってん。まあくんが頑張っているところを見て」


 頭を押し付ける力が、強くなる。


 「黒沢が負けるなんて想像できなかった。だって、めちゃくちゃ強いんだもん。でも、負けた。こんなことあるんだって思った」


 また「黒沢」と言う。ドキッとする。その名前を口にすることは、大きな負担のはずだった。


 「それなら、私にもできるって思った」


 「できるって、何が?」


 「あいつらと一緒にいた記憶を、乗り越えていくこと……かな」


 明るく振る舞っていても、やはり、まだどこかで昨夏の悪夢に囚われていた。顔を上げると、ニコッと笑う。無理して笑っているような気がする。


 「まあくんは、もういじめられっ子じゃないよ。私も、泣いてばっかりの子はもう卒業する。だって、まあくんに追いつきたいもん」


 もう一度、抱きついて僕の胸に顔を埋めた。


 僕はマイに無理してほしくなかった。辛かったら素直に辛いと言ってほしいし、頼ってほしかった。それを、どう伝えればいい?


 「うん、うん」


 うまく言葉にできなくて、相槌を打つことしかできなかった。

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