あっという間にもうすぐ6月という時期になった。5月下旬には早々に梅雨入りが宣言され、暑くなるのも早かった。この時期が嫌いという人は多いが、僕は嫌いじゃない。基本的に引きこもり気味の僕にとって、曇って雨が降り続くのは、むしろ落ち着いて心地よかった。
「先輩、ちょっといいですか」
放課後に美術準備室で絵を描いていると、朱嶺が声をかけてきた。湿度が高いせいか髪がモサッとなって、ボリュームがいつもより増えているように見える。
朱嶺は僕の肘を引くと、廊下に連れ出した。
「何?」
毎日のように見ているが、まだ外国人モデルのようなセクシーかつゴージャスな外見に慣れない。気を抜けば鼻の下を伸ばして、デレデレしてしまいそうだ。悲しいことに僕は時々、朱嶺を夜のおかずにしていた。
だって、刺激が強すぎるんだもの。
そんな僕の胸中を知ってか知らずか、朱嶺はすごい勢いで僕に懐いた。美術部の男子部員3人の中で一番、会話しているのは間違いなく僕だった。朱嶺も人物画を描いていて、方向性が一緒だということもあった。
「自宅から画材を持ってこようと思っているのですが、手伝っていただけませんか? ちょっと量が多くて」
朱嶺は無表情なまま、言葉にも特別感情を込めずに言った。
惜しいのは、ここだった。朱嶺は間違いなく百人いれば百人が「美少女だ」というほど美しいのだけど、感情の表現がほとんどなかった。いつも無表情だし、言葉にも抑揚がない。笑うときも少しだけニコッとするくらいで、喜怒哀楽の起伏がほとんどなかった。よく言えばクールビューティー。悪く言えば鉄仮面だった。
もう少しかわいらしく笑えれば、すごく人気が出るのだろうけど。
「え? 全然、構わないけど……」
なぜそれを、わざわざ廊下に連れ出して言うのだろう。不審に思った。西塚さんと米沢さんが、いわゆる普通の美術をやらない人だから、気を遣っているのか?
「ありがとうございます。では、次の金曜日の放課後に、うちまで来ていただけますか?」
きょうは水曜日だ。
「きょうでも構わないけど」
「いえ。先輩に来ていただけるのであれば、準備をしておかなければいけませんから」
準備って、なんの準備だよ。別に上がり込んで、茶菓子を要求したりしないよ?
「そんなに気を遣ってもらう必要ないけど。画材を取りに行くだけでしょ?」
「はい。でも、私の気が済みません」
あ、そうですか。
2カ月ほど一緒にいてわかったのだが、朱嶺という少女は、とにかくいろいろなことがきちんとしていた。
ブレザーとスカートは毎日、ブラシをかけてほこり一つついていないし、ワイシャツもアイロンがきいて、ピシッと伸びたものを着ている。帰りに片付けをしている時に時々、鞄の中が見えることがあるのだけど、教科書やノートがきれいに整理されていた。
身の回りだけではない。部活には必ず早めに来て、美術準備室の掃除をしていた。割と雑多にものが詰め込まれていた棚を少しずつ整理してくれて、今や触るのが怖いくらいに整頓されている。
そんな朱嶺だからこそ、先輩が家に来るのであれば、何かやっておきたいことがあるのだろう。
まあ、いいや。思い過ごしだろうと、その時は思っていた。
◇
金曜日の放課後、校門を出たところに黒塗りの高級車が止まっていた。車種はわからないけど、とにかく高級そうなデカい車だ。雨が降っていた。黒いスーツをビシッと着こなした背の高い初老の男性が、傘を差して立っている。朱嶺を見ると一礼して、後部座席のドアを開けた。
「先輩、先にお乗りください」
朱嶺が手を差し出して促した。
「え、まあくん、どこ行くの?」
一緒に帰ろうとしていたマイと明科が目を見開いてびっくりしている。かくいう僕も、驚いていた。え、なんだこれ? まさか、お迎え?
「いや、ちょっと朱嶺の家に画材を取りに行くことになってて」
とりあえずマイに、ざっくりと事情を説明した。
「あ、そうなん」
「ごめん。明科と帰ってて」
呆気に取られているマイと明科を残して、朱嶺と車に乗り込んだ。かくいう僕も、まだ呆気に取られている。後部座席には青く見えるくらい、真っ白なシーツがかけられていた。
「え、これ、何? 朱嶺の家の車?」
運転手がいるんですけど。僕は隣に腰掛けて、何食わぬ顔をしている朱嶺に聞いた。
「はい。画材を運ぶ話を父にしましたら、使ってもよいとのことなので呼びました。雨も降っていますし」
「朱嶺の家って、お金持ちなの?」
「どうでしょう。世間的に見ればそうかもしれません」
朱嶺は無表情なまま、窓の外を見ている。
車は森ノ宮のはずれにある高層マンションの前で止まった。いつも通学途上で見えるマンションだ。もちろん入ったことはない。高級ホテルのような天井の高いロビーを通り抜けて、身の置き場に困るくらい広いエレベーターに乗って50階まで上がる。朱嶺が一緒でなければ、怖くて逃げ出していただろう。
エレベーターを出ると分厚い絨毯が敷かれた、これまた高級ホテルと見紛うような廊下が現れた。奥に一つだけドアがある。もしかしてフロア全部、朱嶺の家? ドアに近づくと自動でロックが解除された。
「どうぞ」
また促されて、先にドアをくぐる。
「お、お邪魔しま〜す」
室内は暗かった。僕たちが入ると、自動で明かりがついた。オレンジ色のやわらかい光が、きれいに掃除された玄関を照らし出す。塵ひとつないフローリングの廊下が、先へと続いていた。
「上がってください」
朱嶺は靴を脱いで先に廊下を歩いていく。
「いや、ここで待ってるよ」
「量が多いので、一緒に来てください」
振り返って手招きするので、仕方なくついていった。なんだか緊張するなあ。めちゃくちゃ豪華な家だぞ。
ただ、展望がどんなものなのか、単純に興味があった。あべのハルカスの展望台には行ったことがあるが、普通に人が住んでいるマンションの50階なんて上がったことない。
廊下を抜けると、ものすごく広い空間に出た。リビングだろうか。舞洲アリーナのサブアリーナと言えば大げさすぎるが、うちの学校の教室くらいの広さは余裕である。いや、あれよりも確実に広い。家族4人が集まれば手狭感のある城山家とは大違いだ。奥行きはもちろん、天井が高い。2階分あるのではないか。マンションなのに吹き抜けがあった。
うわあ、すごいぞ。
僕の背丈の3倍はあろうかという巨大な窓があって、大阪の街が一望できた。雨に煙る街並みは、なんともいえない風情があった。
窓のそばに10人くらい座れそうな巨大な応接セットがある。ソファーは幅が広く、ここで寝られそうだ。「そうだ」ではない。確実に寝られる。僕と竜二が腰掛ければいっぱいになるうちのソファーとは、大違いだ。手前側には、壁掛けタイプの巨大なテレビ。リビングの奥はカウンターがあって、その奥はキッチンになっているようだった。
「お茶を淹れますので、そこで座ってお待ちください」
ソファーが大きすぎて、落ち着かない。一度、座ってみたものの、気持ち悪くて立ち上がった。お手伝いさんが出てくるのではないかと思ったが、朱嶺が自ら淹れてくれるようだ。鞄を置くと、キッチンと思しきスペースに消えていった。
いや、ちょっと待って。
画材を取りに来ただけなのに、なぜ上がり込んで、お茶までご馳走になろうとしているのか。それに、室内に他に誰かがいる気配がない。父親は仕事に行っているとして、母親は不在なのだろうか? そういえば朱嶺にきょうだいがいるという話も聞いたことがない。もしかして、セクシーゴージャス美少女と今、2人きりなのか?
マズい。非常にマズいぞ。急にドキドキして、焦り始める。
いやいや、何を変な妄想をしているんだ。お茶をいただいたら、画材を持って学校に戻るだけだ。何も起きやしない。だけど、何か起きたらどうする? この状況で、僕の理性のタガが外れてしまったら?
「お待たせしました」
「うわあ」
妄想を巡らせていたら突然、声をかけられてびっくりした。銀のお盆にティーカップを2つ乗せて、朱嶺が戻ってきたところだった。
まだ動悸が収まらない。
「どうぞ」
朱嶺は天板がガラスの洒落たテーブルの上にティーカップを並べた。お菓子も持ってきてくれたようで、クッキーらしきものを乗せたお皿も、置いた。全てが高級すぎて「らしき」とか「ような」としか表現できない。
「先輩、お掛けください」
そう言ってソファーに腰掛けると、自分の横のスペースをポンポンと叩く。
ちょっと待って! 普通、対面で座りませんか? なんで隣同士なの?
朱嶺が黙ってもう一度、ソファーをポンポンと叩くので、つられて座った。
少し距離を置く。
そうだ。とりあえず紅茶をいただこう。そして画材を持って、さっさとこの部屋を出て行くのだ。何か起きてほしいという気持ちがないわけではない。でも、それが起きてしまったら、朱嶺とのぽわんとした緩くて心地よい関係が壊れてしまいそうで、怖かった。
「いただきます」
うん。僕でもわかる。この香りはアールグレイだ。ただ、美味しいかどうかは、さっぱりわからない。
わからないけど。
「美味しいです」
朱嶺の方を向くと、にこやかに微笑んで、キッパリと言った。いや、にこやかだったよな。引きつってないよね?
「どうして敬語なんですか。変です」
朱嶺はいつもの真顔で言う。
いや、変なのは君だよ! 真顔なのに、どうしてそんなに赤くなってるの?!
「先輩」
朱嶺はお尻をずらして、近づいてきた。
「はいっ?」
動揺して語尾が上がる。少し遠ざかる。あ、ヤバい。なぜか勃起してきた。ヤバいよ……。
「先輩。私、策を弄するのは苦手です。単刀直入に申しあげます」
さらににじり寄ってくる。
「なんでしょう?」
朱嶺、なんか怖いよ。ドキドキする。自分も赤くなっているのではないか。顔が熱い。朱嶺はにじり寄るのをやめると、僕を真正面から見据えた。目が少し潤んで、ふっくらとした唇が震えている。
「先輩、私と付き合ってください」
「へえっ?!」
それもあるのではないかと予測していた発言だったのに、変な声が出てしまった。
「え! な、なんで?!」
混乱した。混乱して立ち上がって、そしてまた座り直した。
いじめられっ子で、中学の時にはオナニー野郎というあだ名だった僕の、どこがいいの? 背が高いだけで大してイケメンでもない僕の、何がいいの?
「なぜって。好きになるのに、理由が必要でしょうか?」
いつもクールな朱嶺が、顔を真っ赤にしてうつむいている。でも、視線はこっちだ。
あ、かわいい。ヤバいいい、めちゃくちゃかわいいぞ!
不覚にも完全に勃起してしまった。
「だって、僕はそんなにイケメンじゃないし、陰キャの美術部員だし、いじめられっ子だし、どこにも女の子に好かれるような要素はないと思うんですけど!」
自分でもパニクって、何を言っているのかわからない。ドキドキが全身を駆け巡って、頭の中でうわんうわんと反響した。
「そんなことありません。先輩はとても優しくてカッコよくて、初めて会った時から、ずっと好きでした。違う、今も好き!」
朱嶺は拳を握りしめると、珍しく大きな声を出した。