5月最後の日曜日に明日斗の試合があり、応援に行った。会場はまた難波の総合ジム「キングダム」。玄関を出たところで、なぜかマイが待っていた。
「あ、来た!」
なんだろう。何も約束してないけど。
マイは黒い長袖Tシャツの上にベージュのジップアップパーカーを羽織っていた。下は最近、お気に入りのスキニージーンズだ。ニューバランスのグレーのスニーカーもお気に入り。どこかに出かけるような服装だった。
「明日斗の試合、応援しに行くんやろ?」
「そうだけど…」
あれ、なぜ知っているんだ。話した記憶がないんだけど。
「水臭いやん。ウチも行く」
ちょっと怒った顔をする。だけど、真剣に怒っているわけではなさそうだ。
「なんで知ってるの?」
「明日斗にLINEで聞いたから」
お花見に行ったときに、5月に試合があると聞いたらしい。で、僕が何も言わないので、明日斗に直接、聞いたのそうだ。
アマチュアの総合の試合会場は、空手と違って狭いことが多い。リングのあるジムで開催されることが多く、選手もセコンドも応援も一気に入るので、ぎゅうぎゅう詰めになる。
特に僕がたびたび明日斗やネバギバ選手の応援に行っている「キングダム」は狭くて、試合を待っている選手やセコンドが廊下や階段にあふれ出す。基本的に関係のない人間が観戦することは考えられていない。それに圧倒的に男子が多い男臭い場所で、マイを連れて行くという選択肢はハナからなかった。
僕の応援には行っているのに、同じ幼馴染の明日斗の応援に行かないわけにはいかないという趣旨のことを、マイは行きの電車の中でドヤ顔をしながら力説した。はいはい、わかったわかった。
「キングダム」が入っている雑居ビルの下に到着すると、なぜか明科がいた。
「やっほー、マイ」
「やっほー、コハ」
やっほーじゃねえよ。
総合の試合会場、特にアマチュアの会場は圧倒的に男だらけで、女子がキャッキャしているイメージは全くない。乾いた汗の匂いが充満し、野太い声が飛び交う野郎汗みどろの世界なのだ。
「なんで明科もいるの?」
ちょっと困惑しながら聞いてみた。聞いたところで追い返すわけにもいかないんだけど。
「だって、一緒にお花見、行ったやん」
明科はコンバースのロゴが入ったえんじ色のトレーナーに、下はレースがついたフワッとしたベージュのロングスカートだった。
場違いだ。こんななんというか……女子っぽいのは、この会場では場違いだ。
ジムに入る。思った通りの雰囲気だった。
アップを済ませた半裸の選手たちが、真剣な面持ちで試合が行われているリングを見つめている。セコンドの野太い声、リングサイドから飛ぶ応援もオラオラ系である。汗の匂い、ピリピリした緊張感。きょうの試合にはネバギバの選手は出ていない。
「失礼しまぁす」
雰囲気に圧倒されたのか、明科が小さな声で言った。
明日斗は会場の隅にいた。もう数試合後には出番なのか、ヘッドガードもグローブも装着済みだった。ジャージーを着て、軽くシャドーボクシングをしている。
「あ、いた」
マイはスタスタと明日斗の方に向かっていく。いやいや、もう集中しているところだから、そっとしておいてあげようよ。そう声をかける間もなく、目の前まで来てしまった。
「明日斗!」
「おお」
気がついて、シャドーをやめた。顔から流れ落ちるくらい汗が出ている。
「明日斗、頑張ってね!」
マイはガッツポーズして励ました。
「奈良くん、頑張ってね!」
明科も隣でガッツポーズした。
なんか、うらやましいな。女子2人に応援してもらって。自分も毎回、マイに応援に来てもらっているのに、やたらとうらやましい。
「おう。頑張るわ」
明日斗は、もうガッツリ集中モードに入っていた。ニコリともせずに真顔で言った。
アマチュア修斗の試合は基本的に1日1試合だが、同階級の選手が複数いれば、2試合以上組まれることがある。この日の明日斗は2試合だった。
1試合目は大苦戦だった。
打撃から組みに行こうとするのだが、なかなか組ませてもらえない。相手は手足が長く、明日斗を引き離してなんとしてでも打撃で戦いたいみたいだった。
明日斗のベースは空手だ。割り切って打撃で戦えばいいのに。
打撃から組みに行って引きはがされ、また打撃から組みに行って失敗してという展開で第1ラウンド終了。第2ラウンド、明日斗は一転してローキックで攻めた。面白いようにローが当たる。嫌がった相手が組みに来たところを捕まえた。差し合いからバランスを崩してテイクダウン。トップを取りきりたい明日斗、なんとか逃げたい相手の攻防が繰り広げられている間に、試合が終わった。
判定勝ち。すごい。普通に総合の試合をしている。
自分も習っているからわかるのだが、総合をきちんとやるのは難しい。やることが多いからだ。打撃をして、立って組み合って、倒して寝技をする。全部を満遍なくこなすには多くの練習時間が必要だ。
想像してほしい。キックボクサー(打撃)であり、レスラー(組技)であり、柔道家(投げ)であり、柔術家(寝技)でなければ、全局面に対応できない。何年もかかって習熟する技術をざっと挙げただけで4人分、身に付けなければならない。そんなの無理だ。だから、大概の選手には得意、不得意な局面がある。
ところが、明日斗は寝技以外は、そつなくこなした。打撃のベースがしっかりあるとはいえ、総合に転向して2年目でここまでできるとは、ただただ驚きだった。
「まあまあかな」
不満そうに顔を歪めて戻ってくる。
「すごい! 奈良くん、強いね!」
明科が興奮している。総合格闘技の試合を見るのは初めてだと言っていた。明日斗の試合中、ずっと大きな声を出して応援していた。
「明科の声、めっちゃ聞こえたわ」
明日斗は少しニコッと笑った。うれしそうだ。
そう、明科の声はよく通るのだ。試合中、すごくジム内に響いていて、ちょっと恥ずかしかった。
「ほんま? じゃあ、次の試合も頑張って応援するわ!」
「ルール、わかるの?」
「いや、よくわかんない」
明科の無邪気な返答に、明日斗は本格的に顔をほころばせた。一つ勝って、余裕ができたのかもしれない。
2試合目は圧勝だった。
組みにこだわった1試合目とは違い、序盤からパンチで勝負に行った。リングはそれほど広くないので少し打ち合えばすぐにロープを背負うことになり、組みの展開になりがちだ。だが、明日斗はパンチでプレッシャーをかけるとロープ際に追い詰めて、組みに行かずに冷静にパンチを当て続けた。
「行け、行け!」
フィニッシュできそうだ。思わず声が出る。
「奈良くん、頑張れ! 頑張れ!」
明科の声がジム内に響き渡る。選手やスタッフが何事かとチラチラとこちらを見ているけど、気にするそぶりはない。
「明日斗、行け〜!」
マイも声を張り上げる。
状況を打破しようと相手が苦し紛れのタックルに来たところを捕まえて、首相撲でコントロール。そのままテイクダウンするのかと思ったら、パッと離して強烈なストレートを叩き込んだ。
返しのフックまできれいに当たった。相手はたまらず倒れる。追撃する明日斗。審判は十分なダメージがあったと見たのか、ここで試合を止めた。
明日斗のTKO勝ち。一方的だった。
「やったあ、奈良くん、すごい!」
明科は僕の背中をバシバシ叩いて大興奮しているが、戻ってきた明日斗は「うーん」と首をひねっていた。
「なんなん。何が不満なん?」
「うーん。なんか、ただ勝っただけ、みたいな感じがして」
着替えるわ。と言い残すと、浮かない顔をしたまま更衣室へと消えていった。
この試合をステップに8月の関西選手権に出て、そこで優勝すれば10月の全日本選手権に出られる。全日本で3位までに入れば、プロ資格が得られるという流れだ。
場所はいつものサイゼリアに移っていた。
「すごいね。奈良くん、すごい強いんだ」
明科は初めて見た総合格闘技(そもそも格闘技の試合を見ること自体が初めてだったらしい)に、まだ興奮さめやらない。少しほおを紅潮させて、さっきから試合の感想をしゃべりまくっていた。
「総合の試合って初めて見たけど、面白かった! 2試合目なんかKO勝ちやったし」
マイも笑顔で持ち上げる。
「いや〜。試合内容なら、1試合目の方がよかったなあ」
明日斗はミラノドリアを2人前頼み、さらに柔らかチキンのチーズ焼きも注文した。
相変わらず、よく食うな。
身長172センチで普段は体重が90キロあるらしい。それを試合の時には76キロまで絞る。階級はウェルター級だ。もしかして翔太と同階級なんじゃないのか?
「そうなんだ。難しいことはよくわからないけど、なんだか感動しちゃった」
明科はミラノドリアとマルゲリータを食べている。この子もチビのくせに、よく食うな。
「なんか格闘技って、命を削り合っているみたいな感じがして、感動した」
「そうなんや。ありがとう」
明日斗は2皿目のミラノドリアを平らげると一度、スプーンを置いた。
「応援、めっちゃ力になったわ。ありがとう」
明科を真っ直ぐに見て、笑顔で言った。
「ほんま? めっちゃうれしい!」
明科はほおを紅潮させて喜んでいる。
なんなん、これ。この2人、いつの間にこんなに仲良くなったの?
「関西選手権も応援行くね」
「うん。来て、来て。明科に応援してもらったら、百人力や」
マイの方をチラッと見たら、マイもこっちを見ていた。目が合う。
ウフッと笑った。なんだよ、その妙な笑い方は。でも、なんだか楽しい。この4人でワイワイやっているのは、本当に楽しかった。