6月も終わり頃になって、マイが夏休みに予備校に行かないかと言い出した。
「予備校?」
「そう。予備校」
「なんで?」
「だってウチら来年、受験やんか」
全日本のことで頭がいっぱいで、そんなこと考えたこともなかった。来年、受験と言われても、全くピンとこない。そもそもどこの大学を受けるとか、将来の仕事とか、まだ真剣に考えたことがなかった。
「マイは行くの?」
「うん。行こうかなって思ってる。サキに誘われてて」
「鈴鹿って部活で忙しいんじゃないの?」
「だからこそ、予備校に行くんやんか」
なるほど。何もしなければ部活で夏休みが終わってしまうから、予備校に行って勉強をする時間を強制的に設けようということか。
学校の帰りだった。なかなか梅雨は明けず、そのくせもう夏が来たかのように暑く、早くもビンビンにクーラーが効いた電車に乗ると、ホッとした。汗が急速に乾いていく。背中に張り付いたシャツがひんやりして、思わず身震いした。
「あと、オープンスクールはどうする?」
「え?」
「『え?』じゃなくて」
マイは少し怒った顔をして眼鏡を外すと、半袖シャツの袖で乱暴にレンズを拭いた。
オープンスクール。要するに学校見学だ。
夏休みの期間に、大学が高校生を招待して講義をしたり、いろいろなイベントを開催する。志望校の雰囲気を感じ、受験へのモチベーションを上げるためだ。1年生から受け入れているところが多く、昨年も募集しているチラシを校内で見かけたが、全く関心がなかった。それどころではなかったと言った方が正しいかもしれない。
こうやって尻を叩いてくれるマイもいなかったし。
「ほんまに何にも受験のこと、考えてへんのやな。ウチら、もう来年は受験生やねんで。はよ準備せな」
マイは呆れたように眉根を寄せた。
「はよ準備って……。じゃあ、マイはもう志望校とか志望学部とか、決めてるの?」
「うん。おぼろげやけど」
「え! どこ?」
そこまで考えていたことを初めて知って、びっくりする。思わず声が上ずった。
「関学か同志社。将来は世界に出ていくような仕事がしたいなって思ってて。国際系の勉強ができるところに行きたいなと思ってんねん。まあ、ほんまにざっくりやけど」
マイは少し照れくさそうに、指先をいじりながら言った。
そうなんだ…。
そんなこと、全く考えたことなかった。
ずっといじめられっ子で、日々生きていくのに精一杯で、将来のことなんてあまり考えたことがなかった。強いていえば絵を描くのが好きなので、それで生活できたら最高だなあと夢見たことはある。
だけど、絵で生活するなんてハードルが高すぎる。自分に抜きん出た才能があるとは思えないし、あくまでも趣味だ。朱嶺は将来、美大に行って、お父さんのように芸術で生活しようとしている。早くもそう決めているのは、すごいなと思う。
将来かあ。もうそんなことを決めないといけない時期に来ているのか。
「まあくんは将来、なりたいものとかないの?」
マイは僕の顔をのぞき込んだ。
「うーん……」
全然、思いつかない。
なんか普通に会社員になって、職場でいじめられないようにビクビクしながら毎日、過ごしている姿しか思い浮かばない。
そもそも、普通の会社員ってなんだ?
「なんだろう。会社員?」
「会社員って、なんの会社?」
「え……。わかんない」
「出た、まあくん必殺『わかんない』」
マイはニヤニヤと笑った。僕の肩をポンポンと叩く。
「マサフミくん、僕たちはそろそろ将来のことを真剣に考えないといけない時期に来ているのだよ。わかる?」
眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、ふざけた調子で言っている。が、その通りだ。
将来なあ。どうしよう。
◇
7月になった。
美術部で夏休みに入ってすぐに合宿をしようという話が浮上した。
「合宿がしたい! 合宿に行こう!」
西塚さんが立ち上がって拳を握った。
美術準備室には冷暖房が付いていない。北向きの部屋なので、窓を開けて扇風機を回せばなんとか耐えうる状態だった。それでも、ムシッとした湿っぽい空気が循環しているだけということには変わりない。
「そうだな。俺たちもそろそろ受験本番だし、最後の思い出作りがしたいな」
米沢さんも相槌を打つ。
「ちょっと待ってください。合宿に行くって、どこに行くんですか? それに、お金はどうするんですか?」
待って待って。夏休みに入ってすぐに、僕は大事な試合があるんだけど。
「写生旅行だよ、城山!」
西塚さんはニッと笑って僕を指差した。
「いやだから、写生ってどこに…」
朱嶺は僕の隣に座って、部室にあった団扇で自分をあおいでいた。季節外れの金木犀の香りが、風に乗って僕の鼻腔をくすぐる。
「そうだなあ、どこがいい? あまり遠くないところがいいな」
言い出しっぺなのに、何も決めてないのか。
「そもそも写生って、西塚さんも米沢さんも、普通の絵は描かないじゃないですか」
「失礼な。こう見えてもちゃんとした絵も描けるんだぞ」
西塚さんは胸を張った。
「そうだ。俺たちの真の実力を見せてやる。写生という以上は景色のいいところがいいな。六甲とかどうだ?」
米沢さんは不適な笑みを浮かべた。
「山だったら、生駒も近くない?」
「いいね。安くて宿が取れる方にしよう」
ちょっと待って!
「宿って、泊まるつもりなんですか?」
「そうだよ。合宿なんだから当然、宿泊付きだろ? 泊まらない合宿なんてあり得ないだろ。なあ、朱嶺くん!」
西塚さんは朱嶺に振った。
「はい。異論はありません」
朱嶺はいつものクールな表情で、当然と言わんばかりにうなずいた。
いやいや、試合があるんだぞ。直前に泊りがけでどこかに出かけていいのか? 練習しないといけないんじゃないの?
僕が戸惑っているのをよそに、顧問の神戸先生を巻き込んでとんとん拍子に話が進み、夏休みに入ってすぐの平日に六甲山に行くことが決まった。週末はすでに宿舎が予約でいっぱいで、平日しか取れなかった。費用は部費から一部を出し、足りない分は個人負担。部活動に熱心な清栄学院では弱小美術部にも予算がついていて、それを使えば僕たちの負担は大きくはなかった。母さんに気を使わず、支出を頼めるくらいの金額だった。
◇
「合宿? いいんじゃない? 青春を満喫してこいよ」
夜の練習が終わった後、代表に行っていいものかどうか相談に行くと、すごくあっさりとOKが出た。
行っていいものかどうかと言ったけど、反対されても行くつもりだった。というのも、朱嶺が行くからだ。西塚さんと米沢さんと神戸先生と朱嶺の4人だけで行くなんて、許せない。そもそも美術部で朱嶺と一番、仲がいいのは僕なんだぞ。
「もう2週間前だし、そろそろ疲れを抜いた方がいい時期だからな。まあ、練習しないのが気持ち悪いようなら、合宿先で走ったらいいんじゃない?」
僕とミユちゃんが真正館の全日本選手権に出場し、その1週間後のアマチュア修斗の関西選手権に翔太が出ることになって、今年のネバギバの夏合宿は大幅にずれ込んだ。お盆の前くらいにやるという。
全日本が終わった後で、あのきつい練習についていけるだろうか。すでに今、早く試合が終わってほしいと心が折れそうなのに。
僕が普通に学校に行くようになって、ミユちゃんと午後の特訓をする機会はめっきりと少なくなっていた。6年生になって塾に通い出したらしく、夜のクラスでも見かけない。代表から伝え聞く限りでは、順調に仕上がっているという。ただ、昨年のスパーリングパートナーとしては、僕がいないのに順調に仕上がっているという事実に、微妙な嫉妬を覚えた。