苦しくなるまで心拍数を上げきって、ペースを落とした。
あまり追い込みすぎるのもよくない。
そもそも今回の合宿参加にOKが出たのは、休養を入れた方がいいという代表の判断があったからだ。ここで走り込みすぎて、疲れをためては意味がない。息を整えながらコースを歩く。右手は池で、水面にほぼ満月に近い月が写って、鏡のように明るかった。岸にはベンチが等間隔に並んでいるが、さすがにこの時間は誰もいない。左手の奥が僕たちが泊まっている宿舎だ。
山の夜は寒いとはいえ、汗をかいてしまった。そろそろ戻ってもう一度、お風呂に入って寝よう。と、向こうから誰か歩いてくる。
朱嶺だった。
「先輩」
上は学校の冬用ジャージーを着ていた。紺色で左胸に「SEIEI GAKUIN」と白くプリントされている。下も学校のジャージーだ。こちらは夏用の短パンだった。
どうしてこんな時間に外出しているんだ?
駆け寄ると、向こうも駆け寄ってきた。
「何やってるの? 山の中とはいえ、こんな時間に外にいたら危ないよ」
そのまま僕に突っ込んできそうになるので、肩に手を置いて止める。こいつ、どさくさに紛れて抱きつこうとしただろう。
「先輩を探していたんです。部屋に行ったら、もう皆さん眠っていらっしゃったので。先輩だけ見当たらなかったから……」
心配そうに僕を見つめながら、ジリジリと近寄ってくる。肩に置いた手に力がこもる。
「走りに行ってたんだ。試合が近いから」
「はい」
月明かりの下で見る朱嶺は、改めてきれいだった。あまり気にとめたことがなかったが、髪がツヤツヤだった。白い肌が、夜で青白く見えて、幻想的だ。やっとにじり寄ってくるのをやめたので、僕も手の力を抜いた。
朱嶺は急に、うふっと笑った。
「どうしたの?」
「いえ。今、先輩と2人きりだなあって」
朱嶺は僕が肩に置いた手を取ると「歩きませんか」と微笑んで、先に立って歩き出した。ん……。まあ、いいか。クールダウン代わりだ。少し歩くくらいなら、いいだろう。黙っていると照れくさいので、なんとなく男子部屋の現状を話した。
「西塚さんも米沢さんも、すぐに寝ちゃって。徹夜で遊ぶと思っていたんだけど」
「ああ、それは私が一服盛ったからです」
えっ! 物騒な言葉に、ギクッとする。
朱嶺を見ると、薄笑いを浮かべていた。
「ただの睡眠導入剤なんですけど。思った以上に効きました」
「あ……。もしかして、紅茶?」
「そうです」
「僕も飲んだけど」
「先輩のには入れていません」
なんという怖い子だ。僕と2人きりになるために、先輩たちに睡眠薬を盛ったのか? 全然、気が付かなかったぞ。朱嶺は僕をベンチまで連れて行った。座るのかと思いきや、座らなかった。
「だって、せっかくの合宿なんですもの。私も夏休みの思い出を作りたいと思って」
朱嶺は岸辺で立ち止まり、こちらを向いた。改めて、きれいだ。夜風にフワッと髪がなびく。朱嶺、パーマかけるのやめたらいいんじゃないのかな。きっと、ストレートもとても似合うよ。
少しウルッとした切長の瞳で見つめられて、心臓が止まりそうになる。こんなにきれいな子に想いを寄せられているなんて、自分は幸せ者だ。だけど、それには応えられない。本当にもったいない。そんな気持ちを話しておこうと、口を開きかけたその時だった。
「あかみ…」
最後まで言わせてくれなかった。
朱嶺は突然、僕にキスをした。キスというか、ガツンと口と口でぶつかった。びっくりして思わず目をむく。
「ごめんなさい」
朱嶺はわずかに顔を離してささやくと、改めてそっと唇を重ねた。
あ ああ あ……。
知らなかった。
キスって、めちゃくちゃ気持ちいい。
チュッとして終わるのかと思いきや、朱嶺はその程度では許してくれなかった。唇で、僕の唇をまさぐる。上唇を甘く噛み、下唇に舌を添わせた。
うわああああああ いきなりベロチューですかああ めちゃくちゃ気持ちいいいいいい
これも準備してきたのだろうか。オレンジか何か、柑橘系の甘い香りがする。
唇を通じて、脳天まで快感が突き抜ける。カーッとなって頭が真っ白になった。熱いものが体内に充満して、はち切れそうだ。
抗えなかった。
朱嶺のほおに手を添えると、夢中で唇を吸った。舌と舌が触れる。朱嶺がビクンと体を震わせる。愛おしくて、引っ込めようとした舌を追いかけた。絡めて、唇で吸う。
「あ、はぁ…ン」
朱嶺が切ないため息を漏らす。
うわあ、たまらない。
触れてもいないのに、股間が破裂しそうだ。
朱嶺は僕の腰に腕を回すと、強く体を密着させた。理性が残っていれば、恥ずかしくて腰を引いていただろう。だけど、そんなものは、もうとっくの昔に消し飛んでいた。腰を押し付けて、遠慮なく豊満なボディーの感触を味わう。豊かな乳房が僕の胸に押しつけられる。僕の屹立した部分が、朱嶺の下腹部に触れている。これで気づかないはずがない。
ヤバい。出てしまいそうだ。
どれだけの時間、貪りあっていただろう。
口の端から、どちらのものかわからない唾液が垂れて、それが夜の空気で冷たくなった。その感触で、我に帰った。
「あ、あかみね」
唇を離して、名前を呼ぶ。
ダメだよ。君の思いには応えられない。朱嶺は腰に回していた左手を離すと、人差し指で僕の口を塞いだ。
「何も言わないでください」
そしてもう一度、僕のあごの下に顔を埋める。表情はうかがえない。髪からシャンプーの甘い香りがした。
「今、ここには黄崎先輩はいませんから。私だけの先輩でいてほしいんです」
手をどこに置いたらいいのかわからなくなって、とりあえず朱嶺の肩を抱いた。どうしよう。キスしてしまった。傍目から見たら、カップルじゃん。朱嶺は少し体を離すと、僕を見上げた。
ああ、かわいい。
ほおが上気して、とてもかわいい。いつもの大人っぽい、頼もしい雰囲気ではなかった。ちょっと幼い感じで、守ってあげたくなる。
「ファーストキスですか?」
ニコッと笑って聞く。
「うん」
「私もです」
心からうれしそうにウフッと笑った。
「私、今、黄崎先輩に勝ちました」
本当に、とてもうれしそうだ。僕に対する想いの強さを感じて、胸が痛かった。
「先輩の初めて、いただきました」
その言葉に、ハッとした。急にマイの顔が頭に浮かんだ。
マイは僕がファーストキスではないと知ったら、どう感じるだろう。僕は、マイの初めてを黒沢に奪われて、打ちのめされた。まだキスだけとはいえ、それでも後ろめたかった。
そうか。マイも僕に対して、こんなふうに感じているのかもしれない。
先ほどまで痛いくらいだった股間の膨張が、急速に萎えていくのを感じる。キスしている間は、このまま押し倒しても朱嶺は受け入れてくれるだろうと考えていたのに、急に冷静さを取り戻した。
冷静になると、途端に朱嶺がかわいそうに思えてきた。
こんなに僕のことが好きで、先輩に一服盛るくらい好きで、キスするつもりで口臭対策もばっちりしてきて、思いも遂げられたのに、僕には他に好きな人がいる。
月明かりの下で幸せそうに笑っている朱嶺をそっと抱き締めると、おでこに軽くキスをした。こんなに頑張って僕を独り占めしようとしているのなら、今だけは思い通りにさせてあげないと、なんだか申し訳ない。
「先輩、大好きです」
朱嶺はもう一度、僕の胸に顔を埋めた。
「汗がついちゃうよ」
「構いません」
そういえば僕の匂いが好きって言ってたな。
肩を抱くと、歩き出した。
「今夜は黄崎先輩の話は、なしです」
少し怒った顔をして言う。
「わかってるよ」
そのまま宿舎に帰った。ツインルームに来ないかと誘われたが、お風呂に行きたいというと意外に簡単に諦めてくれた。僕がこれ以上、朱嶺の初めてを奪うわけにはいかない。逆にいえば、それはマイにあげるはずの僕の初めてを、手放してしまうことになるからだ。
格好つけなくていいんじゃないのか。今なら初エッチできるぞ。どうせマイもやってるんだから。お互いさまじゃないか。
心の片隅で、悪魔がささやく。
正直、部屋に行ってベッドに押し倒しても、朱嶺は嫌だとは言わないだろう。だろうではなく確信に近いものがあった。だけど、それをやってしまうと、マイと僕との関係が完全に崩壊してしまいそうな感じがした。
僕は風呂に行く前にトイレの個室に直行して、一発抜いた。
完全に冷静になった。
よく我慢したぞ、僕。