決勝の相手は真正館の北海道代表だった。もちろん黒帯。北海道というからには札幌道場なのかなと思ったが、パンフレットを見ると函館道場と記されていた。
函館か。
行ったことないけど、北海道の端っこで大都会とは思えない。そんなところから北海道代表になったなんて、すごいな。
選手待機スペースで待っていると、先ほどのプロレスラーくんがやってきた。デカい。どんどんこっちに来る。僕のそばで立ち止まると、笑顔で「高校の部の決勝の人?」と声をかけてきた。
「ああ、はい……。いえ、押忍」
「ああ、やっぱり」
大きな手を差し出してきた。
「他流派の方だったんですね。自分、決勝の相手の帆足です。函館から来ました」
試合前に、これから戦う相手から声をかけられるなんて、初めてのことだった。黒沢に声をかけられたことはあったけど、その時の黒沢の相手は僕ではなく、翔太だった。
「あ、どうも。城山です」
間の抜けた返事をして、手を握り返した。
驚いた。でかい。めちゃくちゃでかい手だ。大きいだけではなく、分厚い。これを握ってできる拳は、どんな大きさになるのだろう。ボウリングの球くらいあるのではないか。
手を握っただけで、ビビってしまった。背筋が冷たくなる。
「お互い、頑張りましょう」
帆足選手はイカつい顔に似合わぬ愛嬌のある笑顔を見せると、自分の待機スペースに戻って行った。
「雅史、相手のペースに乗るなよ」
代表が僕の背中を小突く。
「でも、手がめちゃくちゃでかくて」
ゾッとした。さっき握られた手の感触は、今でもはっきりと残っている。象だ。象に人間のような手はないが、形容するならば、象の手だった。
「どんだけ拳がでかくても、当たらなけりゃ一緒なんだよ」
代表が僕の背中をポンポンと叩く。
やばい。急にお腹が痛くなってきた。
◇
「赤、城山選手、白、帆足選手」
コールがかかり、主審が試合場に入るように目で合図する。ふうと一つ息をつくとポンポンと二度、軽くジャンプをする。
大丈夫。ちゃんと動く。
「押忍!」
帆足選手の元気な声が聞こえる。こちらも「押忍」と言いながら十字を切って一礼すると、小走りに開始線へと向かった。
「まあくん、頑張れ〜!」
「先輩、ファイト〜!」
帆足選手と目が合った。軽く笑っている。楽しむ余裕があるんだな。そりゃ、これだけデカけりゃ、余裕もあるでしょ。高校生離れしている。視線は同じくらいの高さだが、横幅が全然違う。
もしここが戦場ならば、僕は軽く蹂躙されるだろう。マイと朱嶺は涙を流して悲しむかもしれない。帆足選手はこの薄笑いを浮かべたまま、そうだな、むっちりしているから朱嶺の方から先に犯す。きっと。
「正面に礼! 主審に礼!」
そんな妄想をしていたら、それがひどく鮮明な映像になって、僕の脳裏に浮かんだ。
「お互いに、礼!」
そんなこと、させてたまるか。
「構えて!」
ぶっこ◯す。朱嶺を守ってみせる。
「始め!」
主審の掛け声とともに、踏み込んだ。お互い大きいので、一歩踏み込んだだけで突きが当たる間合いになった。
「相手はでかいから、真正面からの攻撃は手応えはあっても、あまり効かない。パンチもキックも回転系。前蹴りは前進している時以外はやめとけ。あと、足を止めるな」
頭に血が上っているのに、代表のアドバイスをはっきりと思い出すことができる。
胸元へ左フックを放つ。当たった。分厚い胸板に、僕の拳がめり込むのを感じる。打ち返してこない。続けてボディーへ右フックを打ちながら、ステップ。さらに左ハイキック。
さすがにディフェンスされた。
左ハイキックはこの大会に向けて、強化した技だった。ミユちゃんの得意技をパクった。左手を前にして構えるスタンダードなスタイル同士なら、フィニッシュとして非常に使える技だ。ただ、僕は手足が長いせいかモーションが大きく、スパーリングでもなかなか当てることができなかった。
それでもガードの上から蹴るだけで、上段への攻撃を警戒させることができる。早い時間帯に一発、左ハイを蹴って「こんな技もある」と相手に思わせるのが、作戦だった。上段があるとわかれば、警戒して突きの連打を出しにくくなる。
もう一歩、横にステップして再び左フックから右ボディー、次はインロー。これもミユちゃん風に膝の内側、関節のすぐ下を蹴る。
足が太い!
蹴った自分の足が痛い!
「雅史、回って、回って!」
代表の声が聞こえる。え、なぜ? おかしいな、回っているはずだけど。
「待て!」
主審に止められて、初めて場外に出ていたことに気がついた。
相手には何もされていない。なのに、コンビネーションを2度、繰り出しただけでここまで押し込まれるのか。もっとコンパクトに回らないと、また押し出されてしまう。
開始線に戻りながら、早くも自分の息が上がっているのに気づいた。急にドッドッと心臓の鼓動が聞こえる。まぶたについた汗のしずくを親指で払う。もうびしょびしょだった。
なんだ? なぜ、こんな短期間でこんなに疲れているんだ?
「続行!」
試合が再開する。今度は少し押し込み気味に行ってみたが、これは失敗だった。間合いが詰まったことで、帆足選手の反撃が僕に当たり始めた。
うわあ、すごい。思った通り、すごい突きだ。ボウリングの球で突き上げられるような衝撃。ガードした腕の骨ごとへし折る勢いで、連打する。腰が浮くほどの威力だった。
わわっ、まずいまずいまずい
衝撃が強すぎて、ガードを解けない。このままでは、また押し込まれてしまう。
「雅史、足、足!」
代表の声が聞こえる。ああ、そうだった。
突きの衝撃に驚いて固まってしまって、足が止まっていた。弱々しい右のボディーフックを当てて、なんとか真正面から脱出する。
どんどん前進してくる選手は強い。翔太がそんなタイプだが、帆足選手も同じだった。しかも体が大きいのだから、手に負えない。ええい、どうする。どうすればいい。防御一辺倒になる。帆足選手の突きが僕の体を揺さぶるたびに、顔から汗が飛び散った。
このままでは朱嶺が犯されてしまう。
「待て!」
気がついたら、また場外だった。
「次に出たら、注意を与えますよ」
主審が僕に向かっていう。
やばい。ポイント取られちゃうじゃん。どうすればいい?
「城山!」
その時、観覧席からひときわ甲高い声が聞こえた。ミユちゃんだ。目を上げると、手すりに捕まって、身を乗り出していた。
「前に!!出ろ!!!」
相手を指差して、叫んだ。
そうだ。前に出る選手は強い。
ならば、帆足選手よりも前に出ればいい。いや、出るしか突破口はない。
「構えて!」
帆足選手は笑みを絶やさない。その薄笑いのまま、朱嶺の柔肌を舐め回すつもりだろう。そうはさせない。
「続行!」
踏み込むと、渾身の力で分厚い胸板に突きを叩き込む。相手の突きも降ってくる。僕の薄い胸板に当たるたびに、肋骨がギシギシと悲鳴を上げる。背骨が軋む。それでも下がるわけにはいかない。足の指で畳をつかむと、力を振り絞って前進する。
負けてたまるか!
「雅史、足、足!」
代表の声が聞こえる。だけど今更、足を使ってどうなる? また押し出されるだけだ。
突きに加えて下段回し蹴りも飛んできた。まるで電信柱がぶつかってくるような蹴りだ。いや、電信柱をぶつけられたことはないんだけど。でも、普通の人の何倍も太い足で蹴られている気がする。
強烈なインローを受けて、足が流れる。
あと何秒ある?
2度の場外という劣勢を覆せるのか?
「雅史、足を動かせ! 回れ!」
いや、わかってます。だけど、これだけ壮絶に打ち合っていると、横に動けない。
息ができない。腕も足も、パンパンだった。
朱嶺を渡すわけにはいかないという一心だった。最後まで動くんだ。相手よりも手数を出すんだ。
勝つんだ
絶対に一歩も引かない!
「やめ、やめ!」
主審が間に入ってきた。
はっ はっ
帆足選手の汗まみれの顔が見える。笑っていない。険しい顔だった。
あ、試合、終わったのか。
「元の位置に戻って、はい、正面」
開始線の上に自然体で立つ。勝ったのか、負けたのか?
「判定取ります、判定!」
なんとなく負けた気がした。
すまん、朱嶺。いや、すまんでは済まない。
「副審、白、1、引き分け、1」
副審の判定は割れた。
「主審、白! 勝者、白!」
……負けた。