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第99話 全日本選手権終了

 正面と審判に礼をして、握手する。帆足選手は軽く微笑んで「押忍、ありがとうございました」と言って僕の手を取った。礼儀正しくて気持ちのいい人だ。そんな人を相手に犯すとか犯されるとか、邪悪な妄想をしていた自分が恥ずかしかった。


 一礼して、試合場を出た。


 「お疲れ」


 なぜ言うことを聞かなかったのかと叱られるかと思ったが、代表は僕を責めなかった。メインアリーナから引き揚げようとしていると、帆足選手が駆け寄ってきた。


 「押忍、ありがとうございました」


 さっきと同じあいさつをする。


 僕は、はあとかふうとか、もっとマシなことを言えばいいのにと思うような返事をした。


 「自分、来年はもう就職なんで。最後に城山さんみたいに強い選手と思う存分戦えて、本当に幸せでした。ありがとうございます」


 「え…。3年生なんですか?」


 「押忍。もう卒業です」


 帆足選手は少し寂しそうに微笑んだ。


 「最後に函館に全日本タイトルを持って帰ることができて、本当にうれしいです」


 最後に、最後にと繰り返す。


 「空手、やめちゃうんですか?」


 「ああ、うーん。本当はやめたくないんですけどね。でも、社会人になったら、稽古している場合じゃないと思うんですよ。自分、漁師になるんで」


 そうなんだ。


 漁師という仕事と空手が両立できるのかどうか、知らなかった。だけど、言われてみれば、仕事に慣れるまでは、空手をやっている場合ではないかもしれない。


 「城山さんは何年生ですか?」


 「あ、2年です」


 「じゃあ、来年もありますね」


 右手を差し出してきた。身長180センチ以上ある僕の体を浮かせた拳。試合前と違う感慨を抱きながら、その手を握り返した。


 「頑張ってください。応援しています」


 なんてさわやかで、いい人なんだ。一度は「こ◯す」と思った自分が、改めて恥ずかしかった。


   ◇


 「お疲れ!」


 「お疲れさまでした」


 観覧席に戻ると、マイと朱嶺と翔太が控えめな拍手で出迎えてくれた。


 この「お疲れ」という言葉は、本当に便利だ。負けて帰ってきた選手を傷つけることなく、ねぎらってくれる。「残念だったね」とか「惜しかったね」とか言われたら、死んでしまうかもしれない。マジで。


 恥ずかしさと申し訳なさで、朱嶺の顔を見ることができなかった。ミユちゃんはあっちを向いて座ったままだ。僕などコメントするに値しないのだろう。


 「あれだけ大きな相手と、よく戦ったよ。後半はすごかった。感動しちゃった!」


 マイが一生懸命、慰めてくれる。


 朱嶺は何も言わないなと思ってそっと様子をうかがうと、静かに泣いていた。


 「どうしたの?」


 まさか僕の妄想が漏れ伝わったのか? そんなわけないと思うけど。


 「いえ……。先輩の必死の戦いぶりに、感動しただけです……。すみません」


 そういうとポーチからハンカチを取り出して、自分で涙を拭いた。


 そうか。いや……。


 その先輩は、君をネタにした妄想で、自分を鼓舞して戦っていたんだけどな。なんか改めて申し訳ない。座席に腰掛けると、そうするつもりはなかったのに、がっくりと肩が落ちた。


 ああ、疲れた。


 5月の関西選手権前からの猛練習が脳裏に甦る。もう嫌だというくらい練習した。みんなに付き合ってもらって、ボロボロになるまでスパーもした。体がパンパンになるまでウエートトレーニングをした。心臓が破裂寸前になるまで、走り込んだ。


 それなのに、勝てなかった。


 背中にポンと手を置いてきたのは、翔太だった。


 「あのフィジカル差では仕方ない」


 そう言ってまたポンポンと背中を叩く。なんだ、慰めてくれているのか。


 まあ、確かにそうなんだけど。でも、ルールの範囲内で、あの体格差の選手と戦わなければいけない以上、それを言い訳にはできない。実際、僕は代表から、ああいう選手との闘い方を伝授されていた。それを途中で頭に血が上って、無視してしまった。


 代表の指示通り、ステップを踏んで動き回りながらコツコツ打撃を当てていれば、勝てたかもしれない。押し込まれて、なんとかしないとと焦って墓穴を掘った。帆足選手にしてみれば「ようこそいらっしゃい」という感じだっただろう。


 今更ながら、後悔が押し寄せてくる。


 表彰式では、準優勝なのにこんな巨大なものをもらっていいのかと思うほど大きなトロフィーをもらった。


 「まあくんは、ほんま準優勝が好きやな」


 がっかりしている僕の背中を、マイが何度もさすって慰めてくれている。


 「ほら、元気出して。試合は今回が最後じゃないよ」


 いや、もう試合したくない。


 「先輩。気分転換に絵でも描きませんか」


 朱嶺、ありがとう。そして改めて、ごめんなさい。

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