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第101話 マイ、ネバギバ夏合宿に参加する

 ネバギバの合宿初日がやってきた。


 正直、億劫だった。


 全日本選手権が終わり、これといった次の目標もなく、でも、これだけコンスタントに選手活動していると出ないわけにも行かず、なんとなく申し込み、その日がやってきた。


 初日はまた早朝集合で走りに行くのだ。


 家を出て駅に向かっていると、後ろから明らかに追いかけてくる足音が聞こえる。誰だろう?と思って振り返ると、マイだった。


 「ほんまにこんな朝早くに行くんや」


 息を切らしている。


 「どうしたん?」


 中学時代の剣道部のTシャツに、下はグレーのジャージーの長ズボン。小さなリュックを背負っている。


 「どうしたんって、一緒に行くんやんか」


 「え?」


 「だから、ウチも行くって」


 早くも額から流れている汗を、手の甲で拭いながら言う。


 「えっ?」


 突然のことで意味がわからない。歩きながらよくよく話を聞くと、こういうことだった。


 マイは昨年の一件があってから学校の体育の授業以外、これといって運動をしていない。夏休みが始まってから2週間は鈴鹿と予備校に行っていて、学校があるときよりもさらに体を動かさなくなった。もともとスポーツは大好きだ。予備校が一段落したところで、思い切り動きたくなった。そこで、思い出したのがネバギバの合宿。聞くところによれば、ぶっ倒れるまで走るらしい。


 何度も僕の応援に来ているので、代表とも顔見知りだった。全日本に行った時に、走りに行っていいかと聞いた。全然、オッケーという返事をもらった。僕にも「行く」と言うつもりだったが、予備校で忙しくて言いそびれているうちに、当日になった。


 「え、走るの? マジで? 死ぬほどキツいよ」


 僕は経験者だ。よく知っている。


 「こう見えても強豪花江中学校剣道部の副将やってんで。足速かったの、知ってるやろ?」


 マイは馬鹿にするなとばかりにあごを少し突き出して、胸を張っている。知ってるけど、それって中学の時の話じゃん。とか言っているうちに、ジムに到着した。


 「おお、マイちゃん。本当に来たんやね」


 「宮城さん、よろしくお願いします」


 マイは代表に丁寧に頭を下げると、手にしていた紙袋を差し出した。


 「これ、参加費代わりといってはなんなんですけど」


 代表はチラリと中身を見ると、妙にうれしそうにニヤッと笑った。


 「マイちゃん、なんで知ってるの? 俺、これめっちゃ好物なんやけど」


 「え、そうなんですか? 知りませんでした。気に入っていただけて、よかったです」


 マイも何やら思わせぶりにニヤッとしている。なんだろう。知らないぞ、代表の好物なんて。


 「城山、今年は彼女も一緒なの?」


 千葉さんがニヤニヤしながら近寄ってきた。今年はピンクのパーカーに黒いロングスパッツという出立ちだ。相変わらず素晴らしいスタイル!


 「はい、そうなんです。走るのだけ」


 「おっ、『はい』って言ったね!」


 人差し指で僕の乳首の辺りをつつく。


 「やめてくださいよ」


 勢いで「はい」と言ってしまった。


 マイがどんな顔をしているか気になって振り向くと、いない。どこに行ったんだろう? ぐるっと探すと、少し離れたところでミユちゃんのお母さんと話していた。どうやら聞いていなかったようだ。


   ◇


 昨年と同じようにジョギングで鶴見緑地まで行って、緑地内の周回コースを2人1組でダッシュした。僕は翔太とコンビ。そう、翔太だ。意味がわからない。先週、試合したばかりなのに。翔太は試合後、すぐ練習に復帰した。マイは千葉さんとコンビで走っていたが、キツそうだった。


 「うわあ、これキッつ!」


 1、2周目はなんとか走り終えても半笑いしていたが、3周目を終えると露骨に苦しそうな顔をして大声を上げた。


 「無理すんなよ。普段、やってないんだから」


 ちゃんと水飲んで、とペットボトルを差し出す。受け取ると、喉を鳴らして一気に半分くらい飲んだ。午前中の早い時間とはいえ、8月の日差しは容赦ない。マイはすでに流れるほど汗をかいている。ドライスウェットのシャツが肩や胸に張り付いて、ボディラインを浮き上がらせていた。


 ちょっとエロい。


 マイは決して巨乳ではない。どちらかといえば貧乳だ。しかし、こうも上着がピッタリと張り付くと、女性らしいカーブが際立つ。


 「大丈夫だよ。まだまだ……。次はまあくん、一緒に走ろうよ……」


 怖い顔をして強がりを言っているが、息も絶え絶えという感じだ。肩で息をしている。


 「おお、じゃあ、次は城山と一緒に走んなよ。石川、お姉さんと一緒に走ろう」


 千葉さんは僕のパートナーである翔太に声をかけた。今更だが、石川は翔太の苗字である。


 「はーい、じゃあ、次」


 代表の合図でマイと並んで走り出す。


 なんだか懐かしいな。昔はよくこうやって一緒に走った。マイは足が速くて、小学生の時は常にリレーのアンカーだった。僕は足が遅くて、いつも全くかなわなかった。


 「まあくん、こうやって走るねん。腕振って、しっかり蹴って」


 鈍足だった僕に、よく走り方を教えてくれた。全然、速くならなかったけど。


 だけど今、その面影はない。


 どうしたんだ、マイ。


 少し手加減して走っているが、すぐに追い越しそうだ。もう疲れたのか、腰が落ち気味でスピードが出ていない。追い越して突き放すべきか。それとも並走して励ますべきか。


 とりあえず並んでみた。僕はまだ余裕がある。横目でチラリと見ると、かなり苦しそうだった。かわいそうとは思うが、僕の現在地を見てほしい気持ちもあった。


 ゴール地点が見えてきた。スパートする。一気に突き放す。少し食い下がってくるが、僕の方が速い。悠々とゴールした。


 「ぶはあっ!」


 マイはぶさいくな叫び声を上げている。


 「なっ、納得いかない! まあくんにぶっちぎられるなんて、納得いかない!」


 拳を振り回して悔しがっている。ちょっと微笑ましい。


 「中学校までとは違うのだよ」


 僕は胸を張って、ドヤ顔をした。決まった。カッコつけて言ってやった。


 「う〜っ、悔しい!」


 マイは突然、僕の太ももを蹴り上げた。


 「痛!」


 「痛ないやろ、これくらい!」


 なんか、思った以上に悔しがっている。


   ◇


 そのままマイはジムについてきて、午後は少年部のお母さんたちと一緒に子供の面倒を見たり、間食や夕食の準備をしたりしていた。


 「あ〜、え〜、では、このあたりで、皆さんにお知らせがあります」


 夕食時。ジム内には生徒、保護者を含めて30〜40人がいた。みんなのお腹がそれなりに膨れて、大人たちにはお酒が回った頃合いになって、代表が立ち上がった。雑誌を丸めて、マイク代わりにして持っている。


 「先日の真正館の全日本選手権で、山県心結|(みゆ)選手が悲願のチャンピオンに輝きました。おめでとう! 改めて、拍手〜」


 おお〜という歓声とともに、拍手が沸き起こる。入口近くのテーブルに座っていたミユちゃんは立ち上がると、はにかんだ笑みを浮かべてペコリとお辞儀をした。


 「あのね、ミユちゃんはネバギバ設立以来、初の全日本王者です。記念すべきタイトルを持ち帰ってくれました。ひと言、いただきましょう。ミユちゃん、こっち来て」


 代表に促されて、ミユちゃんはジムの奥、大人が陣取る一角までやってきた。丸めた雑誌を受け取る。


 「え〜っと」


 雑誌をくるくると巻き直すと、照れ笑いしながらトレパンの裾を直した。


 「皆さんの応援のおかげで、チャンピオンになれました。ありがとうございました」


 しっかりとお礼の言葉を言うと、また深々とお辞儀をする。再び沸き起こる拍手。「よっ、チャンピオン!」と長崎さんが合いの手を入れた。


 「やっとチャンピオンになれたので、これを機に空手は少しお休みして、受験勉強を頑張りたいと思います。終わったらまた戻ってきますので、よろしくお願いします」


 パチパチパチ……。


 小学生にしては、しっかりしゃべるなあ。


 感心しながらチラッと代表を見ると、涙をぬぐっていた。ミユちゃんは雑誌を代表に返すと、飛ぶように自分の席に戻って行った。


 「いやあ、感動です。あの小さかったミユちゃんが、こんなにたくましくなって。本当にうれしいです。ミユちゃん、お礼を言わせてください。ありがとう!」


 感極まっている。この人、すぐに泣くな。


 ミユちゃんを皮切りに、生徒が一人ずつ何かしゃべることになった。話し終えると代表がひと言、コメントする。さて、何を話したものか。迷っている間に順番が回ってきた。


 「あ、えっと。この1年、準優勝ばかりで悔しかったので、次は優勝したいです。優勝して、いつも応援してくれている皆さんに恩返ししたいです」


 なんだか忘年会で言うようなことを、口走ってしまった。


 「うん、そうだな。次は優勝しよう。雅史は優勝こそしていないけど、去年から随分と成長しました。人一倍、練習している成果が出ていると思います。拍手!」


 パチパチパチ……。


 なんか、複雑。拍手されるほどのことはしていない。丸めた僕の背中に、マイが手を置いた。


 「大丈夫。まあくんは、ちゃんとウチらの期待に応えてるよ」


 ポンポンと背中を叩いて慰めてくれるが、それがむしろ、苦しかった。


 マイは夕食後、千葉さんと一緒に帰宅した。さすがに泊まりはしなかった。というか、ネバギバの合宿は基本的に女性陣はお泊まりナシだ。夕食、懇親会、その後、帰宅。女性陣が出た後、男子だけの修羅の時間が始まる。


 別れる前に、少し話をした。


 「ウチ、明日から京都やから」


 「ああ、そうなんや」


 黄崎家は母方の実家が京都で、マイのおばあちゃんが健在なので、夏休みや冬休みはよく帰省する。


 「きょうは楽しかった」


 マイはそう言って、笑顔で手を差し出した。その手を握り返す。


 そういえばマイと丸一日過ごしたのは、久しぶりだった。夏休み前半はマイが予備校に行っていて、会う機会がなかった。授業の後も鈴鹿と自習していて、夜も城山家に現れなかった。昨夏の一件以来、うちに入り浸っていたので、急にいなくなって寂しかった。


 「そうそう。和歌山、一緒に行かせてもらうことになったから」


 「え、そうなん?」


 城山家は夏休みの最終週に、和歌山に家族旅行するのが恒例行事だ。別に親の実家があるわけではない。父さんが海が好きなので、小さい頃からよく遊びに行っているのだ。


 「一緒に行くの、いつ以来かな?」


 「小学校低学年くらいじゃない?」


 黄崎家は親が共働きなので、うちの親がマイも一緒に遊びに連れて行っていた。和歌山にも一緒に行ったことがあった。


 和歌山旅行は1泊2日だ。またしばらく会えないけど、その後はずっと一緒にいられると思うと、素直にうれしかった。


 「楽しみやなあ」


 思わず顔がにやける。


 「ウチも」


 マイも目を細めて笑った。


 少し離れたところで千葉さんが「マイちゃん、そろそろ行くよ」と呼んでいる。マイは手を離すと、じゃあねと言って駆けていった。


 ジムに戻って、今年も脳みそが焼き切れそうになるヘビーなウエートトレーニングをやりながら、僕はマイのことを考えた。


 「うぉらあああああ!」


 マイの笑顔を思い浮かべると、すごい力が出る。この夜、初めてバーベルスクワットで180キロを挙げた。


 思い切って告白しようか。今のマイには、昨年秋のような悲壮感はない。完全にないわけではないけど、随分と感じさせなくなった。今ならまた、恋愛できるのではないか。


 胸の奥が、ポカポカと温かかった。

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