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第102話 一緒に美術館、行きませんか?

 合宿が終わっても、ネバギバにお盆休みはない。普通にジムは朝から開き、練習は行われていた。だけど、僕は合宿が終わってから珍しく行く気になれず、家で夏休みの宿題をやっていた。


 練習したくない。


 こんなことを考えたのは、格闘技を始めて以来、初めてだった。


 練習をすればモヤモヤが晴れる。練習をすればスッキリする。だから、練習する。


 練習をしないと病んでしまいそうだったから、何かに追われるように練習した。だけど、全日本選手権が終わり、義務のように参加した合宿の後、急に「もうあんなキツいことはやりたくない」と思ってしまった。幸いなことに目の前に夏休みの宿題があった。いい言い訳だった。宿題しなきゃいけないから、練習に行きません。プリントを着々とこなす僕の心は、実に平穏だった。


 練習しないって、こんなに楽ちんなんだ。練習しないと、こんなに自由なんだ。


 楽になるために、自由になるために練習していたのに、いつの間にか練習が僕から自由を奪っていたような気がした。


 どうしよう。


 宿題、さすがに1日では終わらない。2、3日かかるかな。カレンダーを見る。マイはまだ京都から帰ってこない。宿題が終わったら、明日斗を誘ってどこかに遊びに行こうか。1日くらいならいいだろう。オフを作らないと煮詰まってしまう。


 「明日斗、明日斗……」


 独り言を言いながらLINEのアプリを開いたところで、ふと閃いた。


 いや、明日斗じゃなくてもいいんじゃね? それこそ、朱嶺を誘ってどこかに行けばいいんじゃね?


 明日斗と一緒だとサイゼリアでメシを食って、カラオケに行くくらいしか選択肢がない。だけど、朱嶺と一緒なら美術館に行けるぞ。映画館も悪くないな。画材店巡りなんかもできる。われながらナイスアイデアだ。


 天使が頭の中で、もっと朱嶺にハマってしまうからやめろ!と騒いでいる。マイの顔がチラリと浮かぶ。しかし、すぐに朱嶺の笑顔がそれを追い出してしまった。まあいいじゃないか。マイが帰ってくるまでの間、美術部の後輩と有意義な夏休みを過ごす。それだけのことだ。


 朱嶺にメッセージを送る。


 送る……。


 待て。これってデートなんじゃないの? マイへの裏切りにならない? いやいや、マイとは正式に付き合ってないんだから、大丈夫。それに今、帰省してて、いないし。


 「ええと……」


 『朱嶺様 ご無沙汰しております。お変わりございませんか。ところで、次の木曜日は空いていますか? よろしければ、一緒に美術館に行きませんか?』


 いやいや、違う違う。


 もっとライトに! サラッと!


 『お疲れ。次の木曜日って空いてる? 美術館、行かない?』


 軽すぎない?


 「う〜ん」


 まあ、いいか。送信っと。


 スマホを置いてトイレに行って戻ってくると、早くも返信があった。


 『木曜日、大丈夫です。集合は何時にどこにしますか』


 思わず小躍りした。


 『午前10時開館だから、午前9時半にJR 京橋駅の北改札口でどう?』


 『承知しました。どちらですか? 国立国際? 中之島?』


 調べてみると、完全に僕の好みだが、国立国際美術館の企画展に心を惹かれた。朝イチで出かけるのであれば、ハシゴしてもいいだろう。なにしろ2つの美術館は隣同士だ。


 『スタートは国立国際で、時間があれば中之島にも行こう』


 『わかりました。楽しみにしています』


 楽しみに、か。


 「わかりました」だけでなく、こういうことをちょっと書いてくるあたりが、朱嶺のかわいいところだ。パッと見は無愛想で冷たい感じがするけど、感情表現が乏しいだけで、実はかわいらしいことを僕は知っている。


 会うのは久しぶりだ。全日本の応援に来てくれて以来ではないだろうか。不意に合宿でキスしたことを思い出した。柔らかな唇の感触が甦る。


 会うのが楽しみ。ドキドキする。


 どんな服を着て来てくれるのか。どんな顔をして現れるのか。それを想像するだけで、ワクワクが抑えられなかった。こういう初々しい興奮が、マイにはない。またチラッとマイのことを考えたが、頭から追い出すと、僕は返事を書いた。


 『こちらも楽しみです』


 すると、すぐに返事が返ってきた。


 『黄崎先輩も来られますよね?』


 いやいや、それが来ないんだな。


 『来ないよ。帰省してるから』


 すぐに既読になった。そして、しばらく間があった。


 ん…。なんだろう。マイが来ないと都合が悪いことがあるのだろうか。朱嶺的には、2人きりは気まずいと思っているのかもしれない。と思っている間に、返事が来た。


 『わかりました。楽しみです』


 なんだかよくわからないけど、納得してくれたみたいだ。

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