合宿が終わっても、ネバギバにお盆休みはない。普通にジムは朝から開き、練習は行われていた。だけど、僕は合宿が終わってから珍しく行く気になれず、家で夏休みの宿題をやっていた。
練習したくない。
こんなことを考えたのは、格闘技を始めて以来、初めてだった。
練習をすればモヤモヤが晴れる。練習をすればスッキリする。だから、練習する。
練習をしないと病んでしまいそうだったから、何かに追われるように練習した。だけど、全日本選手権が終わり、義務のように参加した合宿の後、急に「もうあんなキツいことはやりたくない」と思ってしまった。幸いなことに目の前に夏休みの宿題があった。いい言い訳だった。宿題しなきゃいけないから、練習に行きません。プリントを着々とこなす僕の心は、実に平穏だった。
練習しないって、こんなに楽ちんなんだ。練習しないと、こんなに自由なんだ。
楽になるために、自由になるために練習していたのに、いつの間にか練習が僕から自由を奪っていたような気がした。
どうしよう。
宿題、さすがに1日では終わらない。2、3日かかるかな。カレンダーを見る。マイはまだ京都から帰ってこない。宿題が終わったら、明日斗を誘ってどこかに遊びに行こうか。1日くらいならいいだろう。オフを作らないと煮詰まってしまう。
「明日斗、明日斗……」
独り言を言いながらLINEのアプリを開いたところで、ふと閃いた。
いや、明日斗じゃなくてもいいんじゃね? それこそ、朱嶺を誘ってどこかに行けばいいんじゃね?
明日斗と一緒だとサイゼリアでメシを食って、カラオケに行くくらいしか選択肢がない。だけど、朱嶺と一緒なら美術館に行けるぞ。映画館も悪くないな。画材店巡りなんかもできる。われながらナイスアイデアだ。
天使が頭の中で、もっと朱嶺にハマってしまうからやめろ!と騒いでいる。マイの顔がチラリと浮かぶ。しかし、すぐに朱嶺の笑顔がそれを追い出してしまった。まあいいじゃないか。マイが帰ってくるまでの間、美術部の後輩と有意義な夏休みを過ごす。それだけのことだ。
朱嶺にメッセージを送る。
送る……。
待て。これってデートなんじゃないの? マイへの裏切りにならない? いやいや、マイとは正式に付き合ってないんだから、大丈夫。それに今、帰省してて、いないし。
「ええと……」
『朱嶺様 ご無沙汰しております。お変わりございませんか。ところで、次の木曜日は空いていますか? よろしければ、一緒に美術館に行きませんか?』
いやいや、違う違う。
もっとライトに! サラッと!
『お疲れ。次の木曜日って空いてる? 美術館、行かない?』
軽すぎない?
「う〜ん」
まあ、いいか。送信っと。
スマホを置いてトイレに行って戻ってくると、早くも返信があった。
『木曜日、大丈夫です。集合は何時にどこにしますか』
思わず小躍りした。
『午前10時開館だから、午前9時半にJR 京橋駅の北改札口でどう?』
『承知しました。どちらですか? 国立国際? 中之島?』
調べてみると、完全に僕の好みだが、国立国際美術館の企画展に心を惹かれた。朝イチで出かけるのであれば、ハシゴしてもいいだろう。なにしろ2つの美術館は隣同士だ。
『スタートは国立国際で、時間があれば中之島にも行こう』
『わかりました。楽しみにしています』
楽しみに、か。
「わかりました」だけでなく、こういうことをちょっと書いてくるあたりが、朱嶺のかわいいところだ。パッと見は無愛想で冷たい感じがするけど、感情表現が乏しいだけで、実はかわいらしいことを僕は知っている。
会うのは久しぶりだ。全日本の応援に来てくれて以来ではないだろうか。不意に合宿でキスしたことを思い出した。柔らかな唇の感触が甦る。
会うのが楽しみ。ドキドキする。
どんな服を着て来てくれるのか。どんな顔をして現れるのか。それを想像するだけで、ワクワクが抑えられなかった。こういう初々しい興奮が、マイにはない。またチラッとマイのことを考えたが、頭から追い出すと、僕は返事を書いた。
『こちらも楽しみです』
すると、すぐに返事が返ってきた。
『黄崎先輩も来られますよね?』
いやいや、それが来ないんだな。
『来ないよ。帰省してるから』
すぐに既読になった。そして、しばらく間があった。
ん…。なんだろう。マイが来ないと都合が悪いことがあるのだろうか。朱嶺的には、2人きりは気まずいと思っているのかもしれない。と思っている間に、返事が来た。
『わかりました。楽しみです』
なんだかよくわからないけど、納得してくれたみたいだ。