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第103話 初デート?

 JR京橋駅のコンコースは狭い。屋根が低くて人も多くて、ただでさえ強烈な8月の熱気がさらに凝縮されて、サウナのようだった。待ち合わせ時間より随分と早く到着してしまった。突っ立っていたら、朱嶺が来る前に汗だくになってしまう。どこか涼しいところで待っていよう。あれだけ背の高い子だ。登場すれば嫌でも目に入るに違いないと思って歩き出したところで、朱嶺を見つけた。


 すでにみどりの窓口の前で待っていた。申し合わせたわけでもないのに、僕と同じネイビーのポロシャツを着ている。下は珍しくロングスカートだ。少し光沢があるベージュで、上品な感じだった。足元には少しヒールのある同系色のサンダルを履いている。


 「朱嶺!」


 声をかけると僕に気がついて、うれしそうに目を細めてニッコリと笑った。


 「おはようございます」


 いつも通り丁寧にお辞儀をする。


 「ごめん。待った?」


 「いえ、私も今、来たばかりです」


 肩から革製の小さなポーチを下げて、お嬢様感が漂う。16歳には見えない。もっと大人な感じだ。僕、大丈夫かな? 朱嶺と比べると、子供っぽくない? 


 「先輩、今日は大人っぽいですね」


 「え、そう? この服、大丈夫? 子供っぽくない?」


 下は一番きれいとはいえ、所詮はジーンズなんだけど。


 「いいえ。大学生に見えます。社会人でも通用します」


 真顔で言う。


 「ああ、そう。ありがと」


 ちょっとホッとした。


 「普段、学生服姿しか見ていないので、新鮮です」


 朱嶺はウフッと笑った。


 ああ、かわいいな。きょうはお化粧している。ルージュを引いた唇がぷるんとしていて、実に色っぽい。


 「朱嶺も、上品なお嬢様って感じ」


 こんな感じでいいのかな?と思いながら褒めてみたら、ほおを赤くして照れた。


 「だって、先輩にデートに誘われたんですもの。気合を入れておしゃれしてきました」


 デートか! やっぱりそうだよね! 胸の内で必死になって否定していたけど、やっぱりこれってデートだよね! 足元がフワフワして、今にも舞い上がってしまいそうだ。


 いかんいかん。思わず興奮してしまった。


 そう、これは初デートだ。だって、マイとはデートした記憶がないんだもの。一緒に文房具を買いに行ったりしたことはあるけど、あれはあくまでも買い物だ。


 「そ、そうなんだ! じゃ、行こうか!」


 なぜ、こんなに動揺しているんだろう。だけど、もうドキドキを抑え切れない。並んで改札口へと向かった。


   ◇


 美術鑑賞の正しいやり方なんて、習ったことがない。そもそも、そんなものがあるのだろうか?


 絵や彫刻を見るのが楽しいと思ったのは、割と最近のことだ。教科書だったか参考書だったか忘れたけど、ピカソの「アビニヨンの娘たち」を見たのが最初だった。


 なんだこれ!


 三次元を無理やり二次元に押し込めたような表現手法に、衝撃を受けた。貪るようにピカソの絵を本やネットで見た。他の画家の絵も見るようになり、原寸大で見たいと美術館に通いだしたのが、中学2年の頃だ。


 生で見る絵画の迫力は、本の写真とは大違いだった。油彩も水彩も、画家がそのサイズで描くには理由がある。この大きさで見せたい、見てほしいという強い意志を感じた。


 国立国際美術館の常設展示に「黒い顔」という作品がある。それが僕のお気に入りだ。


 真っ黒な背景に、タイトルとは違って朱色の顔が浮か上がっている絵だ。仏様のようにも見えると、悪鬼のようにも見える。不機嫌で陰湿で、でもどこか神々しい。縦1メートル、横2メートルほどで、すごい迫力を感じる。いつまで眺めていても、飽きない。


 そういえば朱嶺はどこに行ったんだろう。絵に夢中になって忘れていた。振り向くと、反対側の壁に架けられた絵を見ていた。


 さすが芸術家の娘というか、朱嶺も僕と同じく、同じ絵を飽きずに眺めるタイプだった。


 放っておくのも、申し訳ないな。


 後ろ髪引かれる思いで「黒い顔」の前から離れると、朱嶺のそばに行く。木漏れ日があふれる森の絵を見ていた。


 「何、見てるの?」


 集中していたのだろう。声をかけると、驚いて振り向いた。


 ああ、かわいい。


 普段、あまり感情を表に出さない朱嶺が、目を丸くしてびっくりしている。その表情がなんともかわいかった。


 「ああ……。これ、テンペラ画なんです」


 テンペラ画というのは、絵の具に生卵を使っている絵画のことだ。古典的な手法だということは知っているけど、自分でやったことはない。


 「色がきれいです」


 確かに、淡い発色が優しい印象を与えている。なんとなく、朱嶺みたいだと思った。



 午前中は国立国際美術館を満喫して、少し遅い昼食を摂った。近くの喫茶店に入って僕はカレーライス、朱嶺はミックスサンドを注文した。ともにドリンク付きだ。


 「夏休み、何してるの?」


 食事が来るまでの間に聞いてみた。


 「つい先日まで家族でイタリアに行っていました」


 オウ、海外旅行か。朱嶺は隣のコンビニに行きましたくらいの感じで、サラッと言った。


 「父の仕事のついでで、ナポリに行きました。楽しかったです」


 朱嶺はニコリともせずに言った。本当に楽しかったのか? 心の中でそう思った時、見透かしたかのように「でも、きょうの方が何倍も楽しいです」と言って微笑んだ。


 「え、海外旅行より?」


 「はい。先輩と一緒ですから」


 こぼれんばかりの笑みだ。


 ああ、もうかわいいいい


 なんてうれしいことを言ってくれるんだ。


 「そ、そう。それはありがとう」


 照れるなあ。そして動揺する。


 「先輩、お昼からはどこに行きますか?」


 照れている僕の気持ちなど全く気にしていないように、朱嶺は話題を変えた。


 「え? 隣の美術館に行く?」


 「どうせなら、他のことをしませんか? せっかく2人きりなんですし」


 カレーライスがやってきた。


 「お先にどうぞ。冷めないうちに」


 朱嶺は僕を促す。


 「いや、いいよ。僕、食べるの早いから」


 しばし沈黙。


 「私、先輩と映画が見たいです」


 朱嶺はちょっと目を逸らせながら言った。


 「え、そうなの?」


 意外だった。


 なぜなら、朱嶺は僕と話がしたいのではないかと思っていたからだ。しばらく会っていなかったので、話したいことがたくさんあるだろうと思っていた。映画を見るとなると、話はできない。それでいいのか?


 「何か見たいのがあるの?」


 「はい」


 朱嶺がスマホを操作して見せてきた画面には、某有名スーパーヒーローものの最新作が映し出されていた。


 「先週、始まったばかりです」


 てっきり恋愛ものとかを見に行くものだと思っていたが、それでいいのか? いや、僕もそのシリーズはファンなんだけど。


 ミックスサンドがやってきた。そして、2人分のアイスコーヒーも。


 「いただきます」


 2人で手を合わせて、食べ始める。


 「うん、美味しい」


 上品に口元に手を当てて、感想を言う。


 それはよかった。普通のサンドウィッチだと思うけど。実際、僕が食べているのも、なんの変哲もないカレーライスだ。


 「私、こういうお店に来たことがないので、新鮮です」


 朱嶺は右手で2つ目のサンドウィッチを摘むと左手を添えて、二口で食べた。

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