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第105話 そして

 一夜明けて、僕はマイを裏切ったという強烈な罪悪感にさいなまれていた。


 いや、完全に昨日のはアウトでしょ。


 仮に服を脱いで、きちんとできていたとしよう。その時点で、僕とマイの関係は終わりだ。百歩譲ってマイが許してくれたとして、僕が自分を許せない。マイと付き合うことはもう絶対にあり得ない。未遂に終わったことが、不幸中の幸いだった。


 不幸中の幸いとか言うな。


 耐えきれないほどの自己嫌悪に陥って、宿題どころではなくなってネバギバに行った。こんな時こそ練習だ。ガッと息を上げて、ドバッと汗をかいて、全てをリセットする。


 午前のグラップリングとキックボクシングのクラスを終えると、少し落ち着いた。誰かに話を聞いてほしい。翔太は無理だ。岡山さんも年が離れすぎている。もたもたしている間に、みんな帰ってしまった。もう代表しかいない。代表に聞いてもらう? まさか。


 僕がもじもじしていると、代表はノートパソコンからチラッと目を上げた。


 「何か用?」


 「あ、いえ」


 代表とは格闘技の話はするけど、プライベートな話をしたことはなかった。僕らのような未成年のジム生に、自分から話しかけるような気さくな人でもない。そもそも離婚しているし、そんな人に恋の相談もない。


 それでも誰かに話したい。ジムの人なら誰だろう。男なら長崎さん。女性だが、千葉さんも聞いてくれるかもしれない。だけど、2人とも夜のクラスにならないと来ない。


 さすがにそれまで待てない。和歌山旅行の前に宿題も終わらせてしまいたいし。代表を見る。ノートパソコンの画面を見ていて、これ以上、僕にかまってくれそうな気配はない。


 仕方なく、帰宅した。夕食後、京都から帰ってきたマイがお土産に阿闍梨餅を持ってきてくれた。阿闍梨餅は、あんこを餅粉などを使った生地で包んで焼いた和菓子で、城山家の人間はみんな大好物だ。黄崎家はそれを知っていて。京都に行くと必ずと言っていいほど、買ってきてくれる。


 思いっきり浮気しておいてこんなことを言うのもなんだけど、マイの顔を見た時、ホッとした。いや、浮気じゃない。浮気では……。いや、やっぱり浮気かな。


 食卓で母さんや竜二と楽しそうに話しているマイを見て、後ろめたさを感じる。それは取りも直さず、浮気をしたという認識がどこかにあるからなのだろう。


 「部屋、行く?」


 不意にマイが聞いてきた。


 「え? 勉強すんの?」


 宿題が残っているので、マイが帰ったら続きをやるつもりだった。だが、マイは手ぶらだ。阿闍梨餅だけ持ってやってきた。


 「うん。行こう」


 そう言うや、先に立って部屋に上がっていく。ドアを閉めるとちゃぶ台を出して「まあ、座り」と床をポンポンと叩いた。


 言われた通り、マイの隣に体育座りする。


 「まあくん、何を悩んでるの?」


 ぽわんとした笑みを浮かべて、聞いてきた。


 相変わらず鋭いな。


 マイは僕が悩んでいることを見抜くのが得意だ。小学校の頃からそうだった。一度、なぜわかるのか聞いてみたことがある。即答で「顔に出てるやん」と言った。そうなのか? 出しているつもりはないんだけど。


 そして大体、僕の悩みを聞き出してしまう。マイに話すと、スッキリする。中学校まではそうだった。だけど、高校に上がってからは違う。例えば黒沢のこととか新田のこととか、マイには話せない悩みが増えた。


 今回のも、マイには話しづらい。いや、話せない。


 「う……。いや……」


 朱嶺とデートして、マイを裏切ってしまったように思えて、自己嫌悪に陥っているなんて、言えない。


 「ほらぁ、隠さんと言うてみ」


 マイは僕の腕を小突いた。今は笑ってるけど、聞いたら怒るんじゃないかな。とはいえ、明日からは一緒に和歌山に行くのだ。モヤモヤしたままなのは嫌だった。


 ええい、もうなるようになれ。自分の気が済むようにやろう。正座して、頭を下げた。


 「ごめんなさい!」


 目を上げると当然、驚いた顔をしていた。


 「え、なんなん? 突然」


 「実は先日、マイが京都に行っている間に、朱嶺とデートしてしまいました」


 もう一度、頭を下げた。


 「裏切ってすみませんでした!」


 土下座する。


 沈黙。


 恐る恐る顔を上げると、マイは目をまんまるにして僕を見ていた。


 「え?」


 「いや、え?じゃなくて。朱嶺とデートしてしまって、申し訳ないと」


 「デート?」


 「そう。ごめんなさい」


 マイは腰をずらして正座した。


 「え、まあくん、カレンちゃんと付き合ってるの?」


 少し険しい顔をする。怒りと不安が入り混じったような表情だ。


 「いや、付き合ってはいないけど……」


 「え、でも、デートって」


 「一緒に美術館に行って、食事して、映画見に行ってん。それってデートでしょ?」


 「もう一度、聞くけど、付き合ってないんでしょ?」


 「うん」


 マイはふうと息を吐くと、背筋を伸ばした。


 「それはデートじゃないんじゃないの?」


 「そうなの? 一緒に出かけて、楽しく過ごしたんだから、デートなんじゃない?」


 「そんなこと言ったら、ウチとまあくんは中学の時から、めちゃくちゃデートしてることになるよ」


 マイとは文房具やお菓子を買いに行ったことはあるけど、あれはデートじゃないだろう。


 「付き合ってないのならデートじゃないでしょ。一緒に出かけただけなんじゃない?」


 好きな人と一緒に出かけるのを、デートというのではないのか。


 「そういうものなの?」


 「うん」


 デートの概念がマイとは違うみたいだ。


 「だから、別に謝ってもらう必要はないと思うけど」


 マイは髪を触りながら、モジモジし始めた。


 「とにかく僕は、マイのいない隙をついて悪いことをして、すごい罪悪感があるの。だから、ごめん」


 悪いことと言った時、朱嶺に申し訳ない気持ちが湧いてきた。とはいえキスもしちゃったし、ベッドに押し倒してシャセイしてしまったし、それはマイに対して申し訳ないわけで。いや、この部分は絶対に言えない。ここを話せば、マイが激怒しそうな気がする。


 僕は、卑怯者だ。


 「あ、そう。そうなんや。でも、別にええよ。一瞬、カレンちゃんと付き合い始めたのかと思ってびっくりしたけど、そうじゃないんやったら、ええよ。ほんまに」


 「誠にすみません。以後、気をつけます」


 マイは正座を崩して、体育座りに戻った。


 「せやけど、まあくん、ちょっとウチの気持ちがわかったんと違う?」


 少しすねたような顔をした。



 「えっ。マイの気持ち?」


 「うん、そう。他の女子を好きになって、本命に対して申し訳ないなっていう気持ち」


 一瞬、何を言っているのかわからずに、少し考えてしまった。


 本命? マイのこと? 自分で自分のことを本命って?


 ああ、そうか。マイは僕ではなく、自分が黒沢のところに行って、そのことに関して罪悪感があるということが言いたいわけだ。


 「まあくんはデートしただけやけど、ウチはほら、行き着くとこまで行ってしもうたわけやから……」


 ほおを赤らめてモゴモゴ言っている。いや、僕も行き着くところまで行きかけたけど。


 「いや、それはもういいんじゃないの? 今、こうして戻ってきてくれたわけだし」


 どっちが謝っているのか、わからなくなってきた。


 「そうは言っても。1年前はひどいこと、言ったし…」


 また蒸し返し始めた。


 「いや、もうええよ」


 ああ、そうか。なんとなくわかったぞ。朱嶺にハマりかけて、マイが僕に対してどんな感情を抱いているのか、わかった気がした。


 ひと言で言えば、申し訳ないのだ。


 僕の悩みを聞いていたはずなのに、マイの方がシュンとしてしまった。


 「僕もちょっと反省してるねん。母さんに『浮気や』ってめっちゃ怒られたから。これからは気を付けるわ」


 「まだ付き合ってないのに浮気って、なんかおかしくない?」


 マイは唇を尖らせてそう言ってから、プッと吹き出した。


 「なんで笑ってるの?」


 「だって。なんかカップルみたいやし」


 ははっと小さく笑ってから、マイは改めてあははと声をあげて笑い出した。僕も釣られて笑ってしまう。


 そうだなあ。まるで付き合っているふたりみたいだ。そもそも付き合っていないのなら、謝る必要はないし、罪悪感も抱かない。


 そうだ。罪悪感を抱くのも、自己嫌悪に陥るのも、僕がマイのことを一番、大切に思っている証拠なのだ。


 「ねえ、マイ」


 笑いが収まったところで、声をかける。


 「なに?」


 さっきまでしょげていたけど、機嫌が直ったようだ。優しい笑顔が戻ってきた。


 「僕と付き合ってくれない?」


 告白ってもっと緊張するかと思った。割とスッと言ってから、ドキドキしてきた。


 マイは一瞬、固まった。


 「え、この流れで、それ言う?」


 「だって、もうそういう流れでしょ」


 確かに、もっとロケーションのいいところで、もっと気分を盛り上げて言いたかった。だけど、そんな状況になるのを待っていたら、いつまで経っても告白できない。


 イエスって言ってね。


 「うん、いいよ」


 マイは真顔で言った。それから少し眉根を寄せて「もっとロマンチックな状況で言ってほしかったわ」とまた唇をとがらせた。


 「それは僕もそう思った。ごめん」


 「ええよ。次、いつロマンチックな状況になるか、わからへんし」


 「前、ロマンチックやったの、いつ?」


 「えっと、覚えてへん」


 覚えてへんのかよ。そうだなあ。去年のクリスマスの時かな。あの時、少なくとも僕はロマンチックな気持ちだったけど。


 「和歌山に行ったとき、ビーチで夕日を見ながら言おうかなとか思ってたんだけど、絶対めちゃくちゃ暑くて、それどころじゃないんじゃないかなと思ってさ」


 「ああ、それは確かにそうかもね」


 マイは腕組みをしてうなずいた。僕の顔を見て、ニタァと笑う。それを見て、僕も思わず吹き出してしまった。


 こうして僕らは、ようやく正式なカップルになった。告白は僕の部屋。劇的な要素は全くなかった。思い描いていたのと全然違って、超地味。これでいいのか。

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