高校2年の夏にもなると、嫌でも受験を意識せざるを得なくなる。マイが予備校に行ったこともそうだったし、夏休みの終わりには母さんの強い勧めというか命令もあってマイ、鈴鹿、明科といういつものトリオと一緒にオープンキャンパスなるものに行った。要するに大学見学だ。模擬授業を受けてきたけど、思ったほど難しくなかった。むしろ、高校の授業よりわかりやすくて面白い。
やることが多すぎて脳みそが沸騰しそうだった。息抜きに明日斗を誘ってカラオケに行ったら、あっという間に夏休みは終わった。
忙しかったけど、充実していたな。欲を言えばもう一度、朱嶺と遊びに行きたかった。何を言っているのかと思うかもしれないが、美術館に行った後、「また遊びに連れていってほしい」というLINEをもらって、それに胸が躍った。しかし、家族旅行中だったり、先に明日斗とカラオケに行く約束をしたりしていて、日程が合わなかった。
マイに告白して以来、朱嶺のことを考えると微妙な罪悪感を覚えるようになった。まずいでしょう。彼女がいるのに、他の女の子のことを考えるなんて。しかも、その女の子が僕に好意を抱いていて、僕も憎からず思っているのだから始末が悪い。だけど、朱嶺を僕の頭の中から追い出すことはできなかった。それくらい大きな存在になっていた。
新学期が始まれば、受験生の西塚さんと米沢さんは基本的に部室に来なくなる。ということは部活は毎回、朱嶺と2人きりだ。
想像しただけで、体が熱くなる。
いやいやいや、ダメでしょ! 何を熱くなっているんだ、僕は!
おかしい、ダメだと自分の思いを押さえつけながらも新学期初日、僕はちょっとウキウキした気分で制服に腕を通した。
「おはよ〜」
玄関を開けると、ちょうどマイも玄関から出てきたところだった。
「おはよ」
「カップルになって初めての登校日やね」
駆け寄ってきて、僕の腕に手を回す。
和歌山から戻ってきてから、改めてどこまで了承を得ずに触れていいかという話をした。
「全部、全然、ええんとちゃうの? いちいち『大丈夫?』がなくてもええのんが、カップルなんとちゃうの?」
例によって夕食後の僕の部屋だった。マイは気にしていないようだったけど、僕は気にしていた。
「いや、だって。すぐセクハラとか言われる時代やし」
「彼氏相手にセクハラとか言わんって」
真剣に話をしているのに、髪をいじりながら僕のボディビルの雑誌を見ている。筋トレの参考になるかなと思って購入したのだ。
「でも、おっぱいとかお尻とかはヤバいでしょ」
やっとこっちを向いた。
「そら、胸とかお尻はあかんよ」
当然のことを聞くなと言わんばかり、目をむいている。
「じゃあ、どこまでOKか、はっきりさせておこうよ」
「ほんま真面目やなあ。だから、そんなんええって。アウトやったらアウトって言うし」
また雑誌を読み始めた。グラビアしか見ていないのか、ページをめくる手が早い。ムキムキの男の写真しか載ってないのだけど、興味があるのだろうか?
「そんなこと言うなら、腕を組んだ拍子に胸が当たったらアウトなの? セーフ?」
「胸がって? ウチの胸が?」
「そう」
マイは一瞬、キョトンとしてから、プッと吹き出した。
「あはは」
「なんで笑ってんの」
「だって、オモロいから。ちょっと待って。めっちゃ笑う」
お腹を押さえて笑い始めた。
「そんなオモロかったかな」
「いや、だって……うふふ……だって、そんな状況……あはは……」
涙まで流し始めた。
「だって、腕組んで胸が当たったって、それってまあくんのせいじゃないやんか」
「そう?」
「そうやん。女子から行かへんと、そんな状況にならへんよ」
朱嶺とよくなる状況なんだけど。僕はその状況を結構、狙っている。朱嶺が腕を組んできたら、体を寄せるようにしている。結果的に巨乳の感触を味わうことができている。それでも僕のせいではないというのだろうか。
あー、笑う……ほんま笑うわと言いながら、マイは涙を拭いた。
「まあ、あんまり気にせんといて」
「僕は気になるんだけど」
鷹揚といえば聞こえはいいが、僕からすればマイはいろいろと緩いのだ。油断しすぎというか。
「それより、ウチもまあくんに言うとかなあかんことがあるわ」
雑誌を閉じると突然、思い出したように僕の方を向いた。
「なんなん」
「ちょっと恥ずかしいことやねんけど、彼女になった以上、隠してられへんし」
眉根を寄せて、唇を尖らせる。
「変態やって思わんといてね?」
「いや……内容次第なんじゃ……」
マイはすうっと息を吸うと、僕の言葉を無視して続けた。
「あんな、ウチ、匂いフェチやねん」
ほおが見る見るうちに赤くなる。目を逸らして斜め下を向くと、意を決したように声のトーンを上げた。
「それでな、まあくんの匂いが……まあくんの匂いが、めっちゃ好きやねん!」
「あ、そうなんや」
即答した僕の反応が予想外だったのか、こっちを向いて目を見開いた。
「え」
「え、って何」
「いや、反応、薄いなって」
「薄い? そうかな?」
僕の匂いが好きと言われたのは、初めてではない。以前、朱嶺にも言われたことがある。だから、驚きはなかった。というか、マイもそうなのかと思った。いい機会だ。聞いてみよう。
「どんな匂いがするの?」
朱嶺はなんて言ってたっけ。甘酸っぱいとかだったかな。
「え? なんていうか、その…甘酸っぱいというか……なんか、たまらんいい匂いが……」
恥ずかしがって、モジモジし始めた。それが、すごくかわいい。
「で、それでな」
「ん?」
「これから彼女になったんやし、いつでも遠慮なく、まあくんを嗅ぎたいなって」
「嗅ぎたい?」
「うん」
嗅ぎたいって、何?
あ!
突然、ある風景が甦った。
去年の冬、マイが僕のパーカーを持って帰ってしまったことがあった。その時、めちゃくちゃパーカーを吸ってたな。
「もしかして、僕のパーカーを借りたのって……」
「あー! あー! あー!」
マイは突然、真っ赤になって大声を上げた。
「それ、思い出さへんでええから!」
「僕の匂いが嗅ぎたくて……」
「わー! わー!」
マイは僕に飛びつくと、手で口を塞いだ。
「むぐっ」
「それ以上、言わんといて!」
珍しいな。こんなに動揺しているマイを見るのは、初めてかもしれない。
そんなこんなで僕はマイに気軽にタッチしていいし、マイは遠慮なく僕を吸っていい(僕は猫か)ということで合意した。彼氏彼女でも、わきまえるところはわきまえておかないといけない。親しき仲にも礼儀ありって言うじゃない?