「よお」
新田は薄笑いを浮かべながら、手を挙げた。なんだかおかしい。随分、雰囲気が変わった。以前はむき出しのナイフというか、いつ何をきっかけにキレるのかわからない怖さを漂わせていた。だけど、今は穏やかだ。
「退院したんだ」
相変わらず、近付くのは嫌だった。手が届かない位置で立ち止まる。
「ああ。3カ月、寝てたらしいわ」
歩み寄ってくる。
「来んなよ」
「相変わらず冷たいな」
ニヤリとして、立ち止まった。
「よろしくやってんのか?」
「何が」
「いろいろだよ」
「意味わかんない」
新田はヘラヘラと笑いながら上体を揺らすと「まあ、座れよ」と自分が先に座った。腰を下ろす。が、お尻はつけない。新田は寝そべって肘をつき、上体だけ起こした。
「立っているだけでも結構、しんどくてな。いろいろ厄介だわ」
川の方を向いて、投げ出すように言った。
「あれ、黒沢にやられたの?」
聞くまでもないことを聞く。
「ああ、うん。そうかなあ。でも、本人はいなかったぜ。例によってな」
まあ、そうだろう。
「まあでも、その後、めちゃくちゃになったじゃん? 自ら手を下していても、一緒だったと思うわ」
新田は、わけのわからないことを言った。
「なんのこと?」
川の方を向いていたが、しばらくしてゆっくりと僕の方に振り向いた。
「知らんの?」
「え……何が?」
新田はフッと鼻で笑った。
「え? どこから知らん? まず、ノックダウンが終了したことは知ってる?」
「いや、知らん」
参加者が勝敗にお金を賭けて、トラブルになって警察沙汰になったことは明日斗から聞いたが、それ以上のことは知らなかった。
「いつの間にか勝敗にカネを賭けるようになって、カネが払えなくなったやつが万引きしてな。万引きしたものを仲間に売ってカネを作ろうとして、補導されたんだよ。そこから芋づる式よ。だから中学生なんか入れんなって言ったのに。ガキはこれだから困るわ。それが今年の5月の話」
そんなことがあったのか。
「黒沢も主催者の一人だったから、警察に呼ばれたらしい。スマホを調べられたみたいで、俺が意識を取り戻してスマホを見たら『クラウドも含めて中身全部消せ』ってメッセージが来てた。まあ、手遅れやったけど。俺のスマホ、親が警察に見せた後やった」
ハハハと乾いた笑い声。
「岩出をレイプした動画、バッチリ見られた後やったわ。あ〜あ。まあ、だから、安心せえ。黄崎の動画は、黒沢が消した」
ハッとした。ずっと心の片隅に刺さっていた棘が、スッと抜けた感じがした。あの動画、もうないんだ。
「そうなの?」
「ああ。警察に見られる前に全部、消したって言ってた」
胸につかえていたものがストンと落ちた。
そんなゴタゴタがあった中で、黒沢は関西選手権に出たのか。ろくに練習もできていなかったのではないか。僕なら私生活がそんなことになっていたら、集中できない。
「ノックダウンの後始末で、学校や警察にチクったやつらをシメていたのが6月。大変だったみたいだぞ。俺、まだ歩けなくてリハビリ中だったのに、召集かかったからな」
新田はヘラヘラ笑っているが、そんなことになっていたとは驚きだった。
「行けねえっつーの」
新田は土手の草をちぎりながら吐き捨てた。
「で、郡司問題が勃発したのが7月」
なんだ、郡司問題って?
「郡司は知ってるだろ? 郡司愛莉」
ああ、知ってる。黒沢がマイを捨てた後、付き合っていた女子だ。
「郡司が妊娠してな」
え!
「あいつは黒沢の子供だって主張したんだけど、黒沢は違うって拒否、いや違う。否定か。否定してよ。まあ、ひどい話だ。他の男とヤッたんだろって」
そんなことがあったんだ。
「で、郡司は産むってゴネたんだけど、最終的に流産してな。黒沢が腹を蹴ったのが原因なんじゃないかと、もっぱらの噂だ」
「え、ひどい!」
本当に17歳なのか? 高校2年生でやることじゃないぞ。
「え、それで、どうなったの?」
思わずこっちから興味津々で聞いてしまった。
「そりゃ普通に別れるとか、別れないとかいう話になってな」
そりゃそうだろう。そんなひどい男と引き続き付き合うなんて、ない。ないわ。
いや、それよりも。
黒沢は郡司と別れたら、マイとよりを戻そうとするのではないか? マイにはもうそのつもりはないだろう。いや、ない。今は僕の彼女なんだから。だけど、火の粉が降りかかってくる可能性を感じて、寒気がした。
「黒沢はキープが何人かいるから、今はその子らと遊んでる。だけど、別れると言われた郡司は納得してなくてな。俺んとこにもいろいろLINEが来るのよ」
ちょっとホッとした。キープがいるということは、すぐにこっちに矛先が向く可能性は低いというわけだ。
「え? 郡司が新田に?」
「そう。黒沢とよりを戻したいから手伝ってくれって。どうせえっちゅーねん」
新田はアハハと笑った。
おかしい。さっきから何か不自然だ。新田らしくない。気の抜けた炭酸飲料みたいだ。以前のようなギラギラした殺気を感じない。
「黒沢は組から郡司を追い出したつもりになっているけど、郡司はまだ女将として組に居座っているつもりなのよ。で、組の連中に泣きついているっていうのが現状かなあ」
新田は手を上げると、僕を指差した。指先が少し震えている。
「お前のところにも、行くかもよ?」
「マイの関係で?」
「そう。元カノだろ?」
「迷惑やな」
僕のところに来るのは、百歩譲ってまだいいとしよう。無視すればいいのだから。だけど直接、マイのところに行かれるのはまずい。1年前のことを思い出して、また過呼吸の発作を起こすかもしれない。
とにかく徹底ガードだ。ガードするしかない。昨秋のようにずっとそばにいて、郡司や黒沢を近づけないようにしないと。
そういえば、マイを待たせたままだ。立ち上がった。
新田と仲良くするつもりはない。だけど、たまに会うとこうして情報をくれるのは、ありがたかった。あっちは僕に好意を抱いている。悪いけど、存分に活用させてもらう。
「明日から授業に復帰するの?」
「するよ」
「そう」
新田が返事をしないので、そのままきびすを返して校舎に向かった。きな臭い。危ない目に遭う前に、火の粉は払わないといけない。それは僕だけではない。マイもだ。