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第111話 黒帯

 全日本の前には毎日のようにネバギバに練習に行っていたが、夏休みは結構、休んでいたし、新学期が始まってからは部活のない月、水、金曜日と土曜日の翔太とのラントレだけになっていた。


 金曜夜のブラジリアン柔術クラスに出始めた。以前から岡山さんに「面白いよ」と勧められていたし、打撃ばかりやってきて、殴る蹴るに飽きてきたということもあった。仕事の異動でジムを辞めた人がいて、その人からちょうどいいサイズの柔術着をもらったということもあった。ブラジリアン柔術は、柔術着がないと参加できない。そして、これが新品で買うと1万円台半ばと結構、高いのだ。


 スピーディーに展開するグラップリングと違って、ブラジリアン柔術の動きはゆったりしているように見える。それでちょっと馬鹿にしていたところがあった。ところが、実際にやり出してみると、とても面白かった。将棋のようだとよく言われるが、なるほどよく言ったものだ。一つ一つ手順を踏んでフィニッシュまで持っていく。途中でミスしたり、手順が抜けたりすると、うまくいかない。


 ネバギバの柔術クラスは、代表が紫帯を巻いて指導していた。「実は本格的に柔術を習ったことがなくてなあ」と言って、名称も「ブラジリアン柔術同好会クラス」としていた。岡山さんを筆頭に柔術が好きな人が、他のジムに出稽古に行っていろいろと技術を教わってきて、みんなに教えていた。まさに同好会という名称がふさわしい時間だった。


 「雅史、次の試合、どうするんだ?」


 練習を終えて着替えようとしていると、代表に声をかけられた。


 実は当分、試合に出たくなかった。昨年の12月から休む間もなく試合に出て、優勝するのならともかく、決勝でねじ伏せられて心が折れかけていた。もともとストレス解消で始めた格闘技だ。練習に来ていればその目的は果たせたし、全日本を経験したのだから、もう試合には出なくていいと思っていた。


 だが一方で、このままでいいのか?という思いもあった。ずっと準優勝。応援に来てくれているマイに、優勝したところを見せられていない。正式に付き合い始めたこともあって、一度でいいから優勝するところを見せたいという気持ちもあった。


 ただ、それをするならフルコンタクト空手だ。総合やブラジリアン柔術の試合ではない。


 マイに黒沢と付き合っていると明かされたのは、フルコン空手の試合会場だった。黒沢にKO負けして小便を漏らし、そこから僕の格闘技生活は始まった。マイを取り戻し、フルコンの試合で頂点に立つことができれば、昨年の悪夢を払拭できるような気がする。


 だが、試合はしんどい。それ自体が多大なストレスだ。そして、試合に至るまでの練習は、もっとしんどい。正直、出なくていいのならば、二度と試合はしたくなかった。


 「グラップリングのベースもあるから、ブラジリアン柔術の試合、出てみるか?」


 僕の気持ちを知ってか知らずか、代表はノートパソコンを触りながら、そんなことを言っている。


 「あ、いえ。僕、まだフルコンに出たいんですけど」


 意外だったのか、代表は僕の顔を見た。


 「え? まだフルコンやるの?」


 「はい」


 代表が真正館の出身で、少年部にはフルコンタクト空手を教えている関係で、大人でも空手の試合に出る人がいるというだけで本来、ここは総合格闘技を教えているジムである。1年半近くいて、まだフルコンに未練があるというのは、ジムの本流から外れている。


 自分でもそう思ってはいた。


 「一度、きちんと優勝したくて」


 「ああ、なるほどね」


 代表は僕から目を逸らすと、またノートパソコンの画面に目を落とした。


 「また12月に真正会館の地区大会があるけど、それに出るか?」


 その試合なら昨年も出た。あまり規模も大きくない。2試合も勝てば優勝できる。


 「ああ、はい。それで……そうします」


 「じゃあ、それで。次は上級な」


 「え!」


 聞き逃しそうになって、思わず声が出た。


 「上級ですか?」


 「うん、上級」


 代表は当たり前のことを聞くなとばかりに、少し不機嫌な顔で、また僕の顔を見た。


 「だって、真正館の全日本2位なんだもの。それも黒帯相手に。雅史はもう黒帯だよ。うちのジムに帯はないけど」


 「ええっ!」


 「ほしかったら、自分で適当なやつ買って巻いていいよ」


 「えええっ!」


 いいのだろうか。真正館では早くても2年半はかかるのだ。それを1年半くらいのキャリアで取ってしまっても。


 「いいんですか?」


 「いいよ。うちは実績主義なんで」


 代表はまたノートパソコンに目を戻してしまった。いいのか? 本当に? いいの?

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