家に帰ると、マイが僕の部屋で勉強していた。新学期が始まって、また来るようになった。遠慮なく僕のパーカーを着ている。
「落ち着くの?」
荷物を片付けながら聞いた。
「うん」
マイはノートから目を上げない。小学生の頃に書道を習っていたので、字はとてもきれいだ。そのきれいな字で、びっしりと解答を書いている。
台所で食事を済ませて部屋に戻ると、まだ書いていた。もう勉強の遅れは微塵もない。むしろ追い越された。1学期の期末テストの成績は、全教科で負けた。
「ふう」
やっと終わったようだ。シャーペンを置くと息をついて、パーカーの襟元を手繰り寄せる。そして、スーッと吸ってニマァと実に幸せそうな笑顔を見せた。
「終わったわ」
「お疲れさん」
ちゃぶ台の斜向かいに座る。
「まあくんも今からやっとかへんと、また全教科でウチに負けるで」
太い眉毛をピクピクさせて、得意げに言う。
「はいはい。わかってますよ」
勉強で負けるのは全然、なんとも思わない。中学校では同じくらいの成績だったが、常々、マイの方が頭がいいと思っていた。
「夏休みは全然、ここで勉強せえへんかったやんか。飽きたんかなと思ってたけど」
疑問に思っていたことを聞いてみた。
「いや、そんなことないよ。夏休み中は鈴鹿と予備校に行って、自習室で遅くまで一緒に勉強して帰ってきていたから、ここで勉強する時間がなかっただけ。今は予備校も行ってへんし」
なるほど。
「なんで自分の部屋でやらへんの?」
以前、なぜ僕の部屋でやるのか?と聞いたことがあった。その時は「落ち着くから」と答えたような記憶がある。だが、この質問の仕方ではどうだ。もしかしたら、辛い記憶を刺激するのではないかという危惧はあった。それでも聞かずにはいられなかった。
「え、だって、自分の部屋に一人でいたら、いろいろ考えるやんか。そうしたらモヤモヤしてきて、集中できへんの」
マイは割とあっさりと答えた。
「え、でも、寝る時は一人やん?」
「寝る前にここでしっかり頭を使ってるから、帰ったらモヤモヤしている暇なんかないんよ。お風呂入ってベッドに行ったら、もうストーンやん」
ストーンと言うのと同時に両手を頭の上に上げると、膝までストンと落とした。
「ここでは集中できるん?」
「うん。だって、まあくんがそばにいるから。部屋にいなくても、ここはまあくんの匂いがするし。まあくんに包まれている感じがして、安心するわ」
感動的なことを割とあっけらかんと言った。それから「だから言うたやんか。ウチ、匂いフェチやって」と言って、僕の腕を小突いた。
なるほど、僕がいたら安心するのか。なんか、うれしいな。
「だから本音を言うと、そのベッドで寝たい。だって、まあくんの匂いまみれやから」
「じゃあ、僕はどこで寝るんよ。またリビング?」
「ん? 彼女になったんやし、一緒に寝てもええよ?」
首を傾げて、悪戯っぽく笑う。同じ悪戯っぽくと言っても、マイと朱嶺ではだいぶ趣が違う。マイの悪戯っぽいはかわいいだけだが、朱嶺は小悪魔っぽい。
「寝えへんよ」
朱嶺に言われたら、瞬時に勃起していただろう。だけど、マイとだとほんわかして、軽く力んだ程度だ。
「進学先、ちょっとは見えてきた?」
マイは話を変えた。
夏休みの間、進学のことをよく調べていた。世界で活躍する人になりたい。とてもざっくばらんな目標ではあるが、そのためにはどんな仕事に就けばいいのか、そもそもどんな仕事があるのか、そしてそのためには大学でどんなことを学べばいいのかということをパンフレットを取り寄せたりして、研究していた。
僕はまだ何もしていなかった。
夏休みは試合をして、翔太の応援に行って、合宿に行って、朱嶺で悶々として、家族旅行に行っただけだった。勉強といえば学校の宿題をなんとか終わらせた程度で、進学の準備なんて、これっぽっちも手をつけていない。
何を学びたいのか、どこの大学に行きたいのか、全然わからない。だけど、一つだけ言えることがあった。それは、大学生になってもマイと一緒にいたいということだ。理想は同じ大学に入ること。
ただ、僕にはぼんやりとした夢というか、将来像というか、そんなものがあった。
マイと一緒に東京の大学へ行く。高校時代をリセットして、新しい生活を始める。なんだか楽しそうじゃない? でも、あまりに何もかもがぼんやりとしすぎていて、まだ口に出すのは、はばかられた。
「うーん、まだわかんない」
「いや、わかんないやないよ」
マイは少し怒った顔をする。
「もう夏休み終わったんやで。あっという間に3年生になるよ? 早いうちから準備を始めたもんが勝つんやで」
予備校の宣伝みたいなことを言っている。
「秋には修学旅行もあるんやで!」
口うるさい人のことをよく「小姑のよう」と言うが、今のマイがまさにそんな感じだ。だけど、嫌な感じはしない。むしろ微笑ましい。訳知り顔で説教を垂れている姿は、1年前には想像できなかった。
「わかった。わかったよ、マイちゃん」
「え! なんで突然、マイちゃんなん?」
「すみませんね、マイちゃん」
「やめてよ。気持ち悪い」
口では嫌がっているが、顔はニヤニヤしている。僕はマイを抱き寄せた。
「ほら。帰る前に、思い切り吸っていき」
「え? ほんまに? ほんまにええの?」
ええの?と言いつつ、早くも僕の胸に顔を埋めてクンクンしている。
ああ、かわいいなあ。
だけど、不思議だ。朱嶺とこんなことしていたらギンギンになっているはずなのに、マイではそうならない。