マイはある意味、当事者なので、この話はできない。明日斗にはしょっちゅう会えない。そういうわけで日々、僕が愚痴を吐き出せるのは、情けないことに朱嶺しかいなかった。
「それは許せませんね。せっかくの楽しい修学旅行が台無しです」
朱嶺はティーカップを片付けながら言った。制服ではなく、体育のジャージーを着ている。
「思い切って、修学旅行を欠席されてはどうですか?」
僕の方を振り向いて、真顔で言う。すごい提案が出てきたぞ。そんなこと、微塵も考えたことなかった。
「それでは高校生活の思い出作りができないだろ」
「その代わりに、お休みしている間に私と旅行に行きましょう。高校生活どころか、一生忘れられないような思い出を差し上げてみせますわ」
おほほ……と本気とも冗談ともつかない笑みを浮かべる。
「冗談も休み休み言えよ」
「あら、私、本気です」
僕の肩をポンポンと叩くと、後頭部にチュッとキスをして、出て行ってしまった。
最近、朱嶺はダンス部のヘルプに行っている。運動神経抜群で、以前からいろいろな運動部の助っ人として駆り出されていたが、今回は文化祭でダンス部の舞台に出演するらしい。それも結構、重要なポジションで。
それで美術部の部活を抜けて、練習に行ってしまう。その間、僕は一人ぼっちだ。
正直、寂しい。
文化祭までにあと2枚、仕上げないといけないので休んでいる暇はない。黙々と描き続ければいいのだけど、この半年、ずっと隣にいた朱嶺の不在は、想像以上に僕の胸を締め付けた。
いや、ダンス部の練習が終わったら帰ってくるんだけど。
ダンス部の練習に直行して、そのまま帰ればいいのに、わざわざ美術準備室に来て、いつも通り掃除をして、僕にお茶を入れてから練習に行き、最後も戻ってくる。
そんな健気な朱嶺が愛おしかった。
マイとの付き合いは16年。朱嶺とはわずか半年。でも、朱嶺の存在感がこんなに大きくなっていることに、少し驚く。郡司はそんな朱嶺に牙をむこうとしている。それは絶対に阻止しなければいけない。
ああ、やることがいっぱいだ。マイも朱嶺も守って、文化祭の準備をして、12月の試合に向けて練習もしないといけない。修学旅行をどう乗り切るかも考えないと。
頭がパンクしそうだった。
◇
誰に相談すればいいか考えに考え抜いて、僕は久々に学校をサボってネバギバの午前クラスに行った。必ず会える確証はなかったけど、ラッキーなことに岡山さんは来ていた。練習が終わった後、早速、相談した。
「えっ、またけんかするの?」
岡山さんはいつも通り穏やかに笑ってはいたが、少し驚いた口調で言った。
「いや、まだすると決まったわけじゃないんですけど」
呆れられている。久しぶりに会ったと思えば、またけんかの相談だ。岡山さんが警察官ということにすがって、体のいい相談相手にしている。それが見透かされているような気がして、なんだか恥ずかしかった。
「前にも言ったけど、けんかはしちゃダメだよ。特に自分から仕掛けちゃダメ」
「はい。そうですよね」
でも、今回は巻き込まれて、否が応でもやらなきゃいけない状況になりそうだ。
うん、前回もそうだったんだけど。それに前回はマイの動画を拡散するという、言ってみれば〝人質〟を取られていた。でも、今回は違う。新田が駆り出されているけど、それは僕にとって〝人質〟ではない。
新田は僕にとって、助けにいかなければいけない人間ではない。放っておけばいい。
なぜ、そんなことを、こんなに強く自分に言い聞かせなきゃいけないんだ?
「まあ、僕ならこうするよ。まずは信頼できる先生に、こんなことが起こりそうですと報告する。そして、事前に阻止してもらう」
岡山さんは真剣な顔でそう言った。
「ああ、なるほどですね」
と言ってはみたものの、それを素直にできないから、岡山さんに相談に来ているのだ。
チクリと言われて、学校内での立場が悪くなるのが怖かった。学校内での立場と言っても、そんな大した立場があるわけではない。2年5組で僕はよくも悪くも雑多な生徒の一人で、持ち上げられることも、逆に蔑まれていることもない。だが、今回の件をチクったことによって、せっかく平穏に暮らしている立場が悪くなりはしないか?
特に今のクラスは、マイと一緒なのだ。僕がチクリ野郎というレッテルを貼られて、みんなから嫌われて、それがマイに波及するのが怖かった。
「チクリって言われないですかねえ」
警察官の世界にチクリがあるのかどうか知らないけど、なんとなくつぶやいてみた。
「いやいや、城山くん。そこはチクったとかチクってないとか、そういう問題じゃないよ。だって、けんかしてけがをするかどうかって問題でしょ? けがをさせて万が一、罪に問われることを思えば、チクったとかチクってないかなんて、小さなことだよ」
岡山さんは一歩近づいてくると、僕に言い含めるようにゆっくり、静かな声で言った。
確かにそうだ。その通りだ。けんかをして、相手にけがをさせて警察沙汰になって退学にでもなったら、それこそ全てがぶち壊しになってしまう。
こうして背中を押してくれる大人が身近にいることに、僕は感謝した。
タレ込む先は宮崎先生しかないと思っていた。なにしろ今、黒沢がいる2年1組の担任だ。それに僕はLINEで繋がっている。ただ、どのタイミングで耳に入れようか。まだ10月だ。修学旅行は11月。あまり早くに耳に入れるのは、得策ではないように思えた。その前に郡司のいう戦争が、未遂に終わってしまう可能性もある。戦争そのものが消滅すれば、僕がタレ込む必要もない。わざわざチクリにならなくても済む。
少し待ってみよう。耳に入れるのは、修学旅行に行く直前でも構わないはずだ。