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第142話 朱嶺、BJJ始めます

 金曜日。ジムのドアを開けて更衣室に向かっていると、マットスペースにどこかで見た背中があった。


 あれ?


 夕方最初のクラスは、ブラジリアン柔術だ。みんな思い思いの柔術着を着てマットスペースでストレッチをしたり、おしゃべりをしたりしている。運動不足解消や生涯スポーツとしてやっている人が多いので、選手志向が強くてピリッとした緊張感のある総合格闘技のクラスと違って、和気あいあいとした空気が流れていた。


 千葉さんの隣にいるの、誰だろう。見たことがない柔術着だけど、あの大柄な背中には見覚えがあるぞ?


 「ああ、ほら、来たよ」


 千葉さんが声をかける。くるりと振り向いたのは、朱嶺だった。


 「こんばんは」


 げっ。なんで朱嶺がいるんだ。しかも、柔術着を着て。他所行きの無表情で、あいさつする。長い髪をくくってお団子にしているので、いつもと少しイメージが違っていた。


 「どうしたの?」


 さっさと着替えないといけない時間だったが、足を止めて聞いた。朱嶺の代わりに、千葉さんがしゃべり始めた。


 「どうしたもこうしたもないやんか。城山を攻略するために、乗り込んで来たんやん」


 もう楽しくてたまらないという感じで、ニヤニヤと笑っている。


 「簡単に言えば、そういうことです」


 朱嶺もしれっと続いた。


 「いや、攻略って。いや、それって」


 何をどう言い返したらいいのかわからなくて、ドギマギしながら更衣室に行く。大急ぎで着替えて、クラスに参加した。


 まもなく試合だ。フルコン用の練習は毎日のようにしている。クラスが終わった後に翔太にミットを持ってもらって、スパーにも付き合ってもらっていた。だけど、試合向けの練習ばかりしていると、煮詰まってしまう。他の種目で汗を流すと、割と煮詰まらずに試合の練習に取り組めるということに気づいた。なので、ブラジリアン柔術のクラスにも参加している。


 だが、朱嶺がいる。一体、何なんだ。ここまで僕を追いかけてきたというのか。


 意味がわからなかった。というのも、単純にブラジリアン柔術がやりたいのであれば、朱嶺のマンションのすぐそばに、いいジムがあるのだ。ネバギバのような個人経営のジムではなく、全国規模のフランチャイズで、総合も柔術もいい選手が多数所属している。試合を見に行くと、そこの所属の選手がたくさん出場していて好成績を残しているので、すごく印象に残っていた。


 ブラジリアン柔術がやりたいのならば、そこに行けばいいのに。わざわざネバギバに来たのは、僕を追いかけてに違いない。


 横目でチラリと見る。空手をずっとやっていたと言っていたが、寝技は全くの初心者のようだった。千葉さんに手取り足取り、教えてもらっている。くそう、ちょっとうらやましい。千葉さんは朱嶺のことが気に入ったのか、ニコニコと笑ってすごくご機嫌だ。


 クラスの終盤30分は、いつも通りスパーリングだった。僕は試合が近くてけがをしたくないから、参加しない。同じく初心者なのでスパーリングに参加させてもらえない朱嶺と、ジムの壁際に座って、並んで見ていた。


 「柔術、始めたんだ」


 横目で見ながら聞いてみた。


 「寝技も習得したいなと思いまして」


 朱嶺は僕の方をしっかりと見て、答える。


 柔術着も似合うなあ。イサミという割とメジャーなブランドの白い柔術着で、下には黒いラッシュガードを着ていた。モノクロで統一しているせいか、すごく引き締まって見える。上気してほおが少しピンク色に染まっていて、かわいらしかった。


 「柔術のジムなら、朱嶺の家の近くにあるじゃない」


 意地悪かなあ。僕と一緒に練習したくて、こっちに来たのは明らかだ。それは分かっているのだけど、聞かざるを得なかった。


 「はい。でも、せっかくなら先輩と一緒に練習したかったので」


 部室ならばここでニコリとするところなのだが、慣れない場所のせいか、スンとした表情のままだった。そうやって澄ましているところが、またかわいい。


 「先輩、スパーリングはできませんが、一緒に打ち込みしまんか? 復習で」


 朱嶺は正座を崩すと、僕の方に体を向けてお尻をペタンとつけて座った。「しませんか?」と言っているが、僕に「しません」という選択権はないようだ。


 きょうは朱嶺という初心者がいたので、割とベーシックなことをやった。クローズドガードからのアームロックと三角絞めだ。仕方ないなと思いながら、朱嶺の膝の間に入る。


 クローズドガードというのは、向かい合って座っている相手の腰に、足を回して捕まえるガードのことだ。あぐらをかいた足の中に、相手の胴が入っていると言えば分かってもらえるだろうか。下になった方がいろいろと攻める手段があって、捕まった方は、とりあえず足の間から逃げないとほぼ何もできない。捕まえた方が圧倒的に有利なガードなのだ。


 朱嶺は両足を僕の腰に回して、僕の背中で足首を組んでクローズドガードを作った。両方の袖をつかんで、少し考えてから僕に三角絞めをかける。


 むっ


 ヒヤッとした。まだぎこちない感じではあるが、手順は間違っていない。朱嶺が僕の首と肩を足で捕まえて最終的な三角絞めの形に入った時に、僕は思わず腰を引いた。


 ヤバいっ。これはやられる!


 練習で流れた汗の下から、サーッと冷や汗が吹き出す。朱嶺の三角絞めは、まだぎこちなくても、殺気があった。足を組まれた瞬間、絞め落とされるどころか、首をもぎ取られるシーンが脳裏をよぎった。恐怖で全身に力が入る。僕がものすごくビビッていることに気づいているのか気づいていないのか、朱嶺は三角絞めのクラッチ(足を組むこと)を解くと、また元のクローズドガードから三角絞めをかけ始めた。


 「10回、行きますね」


 かけられている方は冷や汗をかいているのだが、本人は鼻の頭に汗をかきながら、ふうふうと息を切らせて一生懸命、三角絞めの動作を繰り返す。


 この殺気は何だろう。碧崎さんのパンチみたいだ。でも、こんなぎこちない寝技の打ち込みで、どうしてそんなものを感じるのか。僕はそれが知りたくて、朱嶺を観察した。まず、手抜きが一切ない。一回ずつ、実に丁寧だ。普通、10回打ち込みをするとなると、途中で雑になったり緩んだりするものだが、それが全くなかった。


 それから、フィジカルがめちゃくちゃ強いぞ。いや、前からそうじゃないかと思っていたんだ。朱嶺に抱きつかれたことは一度や二度ではないし、その度にムラムラする一方で、この子、戦ったらめちゃくちゃ強いのではないかと感じていた。


 何というか、体に芯があるのだ。体幹が強い。三角絞めをかけている今も、お腹や背中が崩れない。だから、ぎこちないかけ方なのに、首を引っこ抜かれそうな怖さを感じる。


 朱嶺は10回、僕に三角絞めをかけ終わると、僕の頭を抱えてゴロンと床に背中をつけた。僕の上半身に抱きついたような形になる。


 やめなさい。どさくさに紛れて抱きつくのは。


 「朱嶺、もう終わったでしょ。離して」


 横っ腹をポンポンと手のひらで叩くと、やっと離してくれた。顔を上げると、真顔でこっちを見ている。


 「次は先輩です」


 「は?」


 朱嶺はガードを解くと、正座した。


 「次は先輩が私にかける番です」


 「え……。いや、僕は別に……」


 「さあ、早く」


 なぜか押し切られて、僕が朱嶺に三角絞めをかけることになった。あまり得意じゃないんだけどな、三角絞め。とりあえずクローズドガードで朱嶺を捕まえた。朱嶺はガバッと僕の胸の上に顔を押し付ける。


 「朱嶺、顔を上げてくれないと、三角絞めはかけられないよ」


 「はい」


 無視である。僕の胸の下あたりに顔を押し付けて、動こうとしない。


 こいつッ、ただくっつきたいだけじゃないのかッ!


 「朱嶺。ちょっと離して」


 「はい」


 朱嶺は「はい」と言いながらも、僕を離そうとしない。脇を閉めて僕の道着の横っ腹をつかんで、ガッチリと押さえ込んでいる。


 「離してってば」


 「先輩、ここからどうやって逃げます?」


 僕に顔を押し付けているので、どんな表情をしているのか見えない。だけど、声は少し笑っていた。


 ええい、こいつめ。曲がりなりにも総合のジムで練習している僕を、なめるなよ。


 手荒にならないように朱嶺の頭を押さえると、クローズドガードを解除して少し横に向く。腰をずらすと足を大きく広げて、一気に立ち上がった。


 どうだ。


 朱嶺を見ると、少し目を見開いて驚いた顔をした。


 「こうやって逃げるかな」


 一日の長を見せつけて、少しだけ得意げに言い放った。


 「なるほど。すごいです」


 朱嶺は小さく拍手をして、初めてニコッと笑った。

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