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第142話 あなたのそばに

 だが、手玉に取れたのもここまでだった。


 柔術クラスが終わり、朱嶺はそのまま打撃クラスにも参加した。柔術着を脱いで、上はラッシュガードの上に白いTシャツ、下は黒いスパッツの上にネイビーの短パンという出立ちで登場した。


 柔術クラスの後の打撃クラスは、いつも参加者が少ない。柔術クラスの参加者が、そのままスパーリングを続けるからだ。4〜5人の参加者がジムの隅っこで、代表とミット打ちとマススパーをして終了する。きょうの参加者は僕、朱嶺、千葉さん、それから社会人の嶋田さん。30歳すぎくらいの小太りの男性だ。昔、フルコン空手を少しやっていたことがあるらしく、今はフィットネス目的でネバギバに来ている。


 初めて見る朱嶺のフォームは、もうモロに伝統派空手だった。しっかり半身になって足は前後に広げて、深く腰を落とす。横目で見ていると、ものすごくきれいなハイキックを蹴っていた。千葉さん相手のミット練習では、ジムのグローブをつけてものすごくいい音を立てていた。


 そして、マススパー。最初はやはり千葉さんが相手をしていた。僕は嶋田さんの相手なのだが、気になるのでチラチラ見てしまう。途中で千葉さんがスパーを止めて、何か朱嶺と話していた。


 なんだろう。何を話しているんだ?


 嶋田さんとのマススパーを終え、朱嶺が僕の前にやってきた。


 「お手柔らかによろしく」


 さっきの三角絞めの打ち込みが頭をよぎって、思わずこんなことを言ってしまった。こいつ、寝技は素人だからあんなのだったけど、打撃はきっと上手いはず。いや、上手いどころではない可能性がある。


 「こちらこそ」


 朱嶺は素の顔でグローブタッチした。


 ピピッ


 タイマーが鳴る。朱嶺はスッと腰を落とすと、僕に観察させる間を与えずにステップインしてきた。


 うおっ、あんな遠くから!


 普通なら、技が飛んでくる距離ではなかった。かろうじて避けられたのは、沖縄に行った時にエディにやられた距離と似ていたからだ。バックステップして、顔面をガードする。僕のグローブを朱嶺のハイキックがかすめて、ビシッと音を立てた。


 危ねえ!


 と、思ったその時だった。振り切った朱嶺の左足が戻ってきた。かかとが正確に僕の顔面に向かってくる。掛け蹴りだ。千葉さんの得意技。


 くっ!


 顔面をガードしていたグローブに、ドスッと重い衝撃がのしかかる。耐えきれずに2、3歩と後退した。


 「ふっ」


 朱嶺が息を吐く音が聞こえる。これで終わりじゃない。もう一発来る! 顔面か、ボディか。普通に考えればボディだ。だって、顔面はがっちりとガードしているんだから。


 思った通り、ボディストレートが伸びてきて僕の腹に触れる。だけど、予測していたので十分に耐えられる。それに、朱嶺も手加減してくれたみたいだ。タッチしただけのようなパンチだった。


 一方的に攻められ続けて、2分間が終わった。


 クラスが終わり、居残り組が自主練を始める。僕も柔術のスパーを終えた翔太に、いつも通りミットを持ってもらうことにした。ふと見ると、着替えを終えた朱嶺が壁際で立っている。学校のジャージー姿だ。翔太にちょっと待っててと声をかけて、駆け寄った。


 「気をつけて帰るんだよ」


 気を遣って言ったつもりだったが、朱嶺は不思議そうな顔をした。


 「え? 終わるまで待っていますけど」


 いやいや、ちょっと待てよ。


 「いや、10時過ぎまでやるよ」


 「待っています。だって、先輩に送ってほしいですから。せめて駅まで」


 朱嶺は真顔で僕を見つめる。何を言っても、聞きそうになかった。 


 本当に、終わるまで待っていた。ヘロヘロになるまでミットを打って、ぶっ倒れるまで翔太とフルコンスパーをやっているのを、朱嶺はジムの壁際でずっと見ていた。


   ◇


 僕はこの時期の、ジムからの帰り道が好きだ。練習で火照った体を、冬の空気が冷やしてくれる。それがたまらなく気持ちいい。温かい缶コーヒーを買って、飲みながら駅まで歩く。朱嶺にもカフェオレを買ってあげた。


 「なんで寝技やろうと思ったの」


 朱嶺は髪をおろしていた。長い髪が、歩くたびにふわふわと揺れている。


 「先輩、修学旅行の前に、私がならずものに襲われたこと、覚えています?」


 表情が柔らかい。さっきまで見知らぬ人ばかりのジムにいたのでクールビューティーを貫いていたが、今は目元が優しかった。ならずものって。まあ、確かにならずものだけど。


 「覚えてるよ。忘れるわけないじゃん」


 そう。朱嶺は襲ってきた相手の金玉を蹴り潰したのだ。恐ろしい。想像しただけで、僕の股間もキュウッとなって、変な汗が出てしまう。


 「あの時、蹴るか殴るかという選択肢しかなくて、思った以上にけがをさせてしまったので、もしかしたら寝技の方が護身的にはいいのかなと思ったのです」


 朱嶺は何が楽しいのか、ふわっと笑った。


 いや、それ以上強くなって、何をしようというのだ。


 きょう初めてスパーをして、よくわかった。朱嶺が以前「私、結構強いので」と言っていたのは、嘘ではない。結構どころではない。パンチもキックもスピードがあるだけではなくパワーがあるし、何よりセンスがよかった。攻撃はもちろんディフェンスがうまくて、結構真剣に攻めても、パンチが当たる気がしなかった。


 ものすごくパワーがある千葉さんという感じだった。


 「この子、すごいよ! ねえ、柔術じゃなくて総合やったら? 女子だったらチャンピオンになれるよ!」


 打撃のクラスが終わった後、千葉さんが興奮して話しかけてきた。


 「いえ。中学まで趣味でやっていた程度なので。とてもそんなレベルではありません」


 朱嶺は真顔で謙遜する。


 「いやいや、大学まで真剣に空手やっていた私が言うんだから、間違いないって! こんなに強い子、そんなにおらへん。え、自分、どこに隠れてたん?」


 千葉さんは朱嶺の頭を撫でて肩をペタペタと触り、それから巨乳をむんずとつかんだ。


 「これも、けしからんわ!」


 真剣な顔をして、遠慮なくもんでいる。誰も声こそ上げなかったが、ジム内にいた野郎どもが、みんなゴクリと唾を飲んだ音が聞こえたような気がした。かくいう僕もうらやましすぎて喉仏を鳴らした。


 朱嶺は素の顔のまま「やめてください」と言って、千葉さんの手を払い除けた。


 「いやあ、でも、ネバギバ女子部に超新星現る、やわ。これは楽しみやなあ〜。ミユちゃんが戻ってきたら、ツートップなんじゃない? カレンちゃん、これからよろしくね」


 千葉さんは、また朱嶺の頭をヨシヨシと撫でる。その気持ち、わかるわあ。朱嶺の頭を撫でると、なんか癒されるんだよな。


 僕は並んで歩いている朱嶺を見た。それに気づいて、朱嶺も目を上げる。


 「前にさ、空手をやると手をけがするから、もうやらないって言ってたじゃん? 柔術も、けがをする可能性はゼロじゃないよ」


 ゼロどころか、たぶん打撃以上に指にダメージはあるのではないだろうか。道着をつかむので、指を痛めている人は少なくない。


 「ああ、そうですね……。まあ、それは気をつけます」


 いつもハッキリとものを言う朱嶺が、珍しくぼんやりとした返事をした。


 街頭のオレンジ色の明かりが、朱嶺の横顔を照らしている。ブオーンと大きな排気音を立てて、ほとんど乗客の乗っていないバスが、すぐそばを通り過ぎていった。


 そういえば、マイとこうやって並んで帰ったことがあったなあ。


 改めて言っておいた方がいいのだろうか。どんなに距離を縮めようと努力しても、僕にはマイがいるので、朱嶺とは付き合えないと。今まで何度も言ったような気がするので、また同じことを言うのは気が引けた。「お前のことが嫌いだ」と何度も言われているのと同じなのではないかと思うからだ。


 こうやって一生懸命、僕のそばにいようとする朱嶺が、いじらしかった。


 「先輩」


 しばらく何も言えずにいると、あっちから声をかけてきた。


 「何?」


 「こんなことしても、僕とは付き合えないのになあって思っているんでしょう?」


 図星すぎて、ドキッとした。全くこの子は、心の中をのぞく望遠鏡でも持っているのではないだろうか。


 「うーん。まあ、そうね……」


 はっきりとそうだと言えず、言葉を濁す。


 朱嶺は小さく笑った。


 「先輩、私、それでもいいんです」


 そう言って、僕の腕に触れる。


 「だって、好きな人と一緒にいられるのって、それだけで幸せじゃないですか」


 朱嶺は僕の腕に、腕を絡ませた。


 「先輩と一緒にいられるのも、もしかしたら高校を卒業するまでかもしれません。それまでの間、黄崎先輩の次でも構わないから、そばにいたいんです。私のわがままです」


 こんなところ、マイに見られたら殴られるのではないだろうか。朱嶺の好意はありがたいけど、迷惑でもあった。ただ、僕は苦しい時に、朱嶺にたくさん話を聞いてもらった。美術部の唯一の後輩で、よき相談相手でもある。むげにはできなかった。


 なんだか照れ臭い。


 「それにしても、朱嶺はめちゃくちゃ強いね。あ、打撃がね」


 照れ隠しで話題を変えた。


 「そうですか? ちょっと力が入ってしまったかもしれません。千葉さんに注意されました」


 ああ、それでスパーを中断して、何か話していたのね。


 「いや、力を抜いても強いよ。あれだけスピードとパワーがあって……」


 本音だった。背が高くて手足が長く、さらに間合いがとても広いので、すごくやりにくかった。僕がほめると、朱嶺はウフッとうれしそうに笑った。


 「じゃあ、私、先輩のスパーリングパートナー、やりましょうか? もうすぐ試合なんですよね?」


 結局、森ノ宮のマンションの前まで送っていった。別れ際にキスしようとするので、それを阻止して「こっちにしなさい」とほおを差し出した。朱嶺は少し不満そうにほおを膨らませて、僕のほっぺたにチュッとキスをした。


 すごいぞ、僕。鋼鉄の意志だ。

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