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第144話 試合前夜

 あっという間に試合の前日になった。


 清栄学院には土曜授業があり、朝から学校に行った。これは本当に助かる。試合の前日に何も用事がなければ丸一日、試合のことをグルグルと考えて消耗してしまう。半日とはいえ集中して授業を受けて、試合のことを一瞬でも忘れることができるのは、ありがたかった。


 授業の後には体育館で全校集会があり、生徒会長選挙に立候補する生徒が所信表明演説をした。演説と言っても、清栄学院の生徒会長選挙はお祭りみたいで、それぞれが趣向を凝らして会場を盛り上げるだけなのだが。


 最終的に立候補したのは黒沢と、われらが学級委員長の鯖江と、アンサンブル部|(吹奏楽部の弦楽器版みたいなクラブ)の副部長を務めている吉田という女子の3人だった。


 それぞれ帰宅部、運動部、文化部の代表みたいな構図になって、それなりに盛り上がった。黒沢は10人ほどの取り巻きを連れて舞台に上がると、大音量でクラブミュージックをかけて「さあ、みんな! 踊れ、踊れ!」とひとしきり踊った。公約は文化祭でのミスコンの開催だった。あと、何か言っていたけど、覚えていない。


 われらが鯖江は、同じクラスの連中と舞台に上がり、修学旅行の時に習ったエイサーを踊った。公約は春に運動会に準じるイベントを開催すること、自習室として使える部屋を増やし、自習時間も午後8時まで延長することだった。いかにも来年、受験生らしいことを言っていた。


 吉田という子のことは、よく覚えていない。アンサンブル部が応援に舞台に上がって、演奏がやたらとうまかった記憶しかない。この辺りになるともう演説に飽きてしまって、僕の頭の中は翌日の試合のことでいっぱいだった。いろいろなタイプの相手を想定して、こうくればああする、ああなればこうすると、ずっとシミュレーションしていた。


 学校が終わると、居ても立っても居られずにネバギバに行った。土曜の午後はブラジリアン柔術のフリーマットなのだが、それには参加せずにサンドバッグを叩いていた。しばらくすると代表が近寄ってきて、有無を言わさぬ迫力で「早く帰って休め」と言われた。


 「雅史、ちょっとやりすぎだぞ。実際、だいぶ疲れているだろう」


 代表は僕に顔を寄せて、グッとにらんだ。


 バレてるやん。


 実際、今回は調整に失敗した感じがした。修学旅行があって練習できない期間があり、帰ってきてから焦って結構、詰め込んで練習をした。何度も代表から「休め」と言われたけど、休めなかった。今度こそ優勝したい。休めば優勝できない。優勝するには、もっと練習するしかない。


 もっと、もっと、もっと。もっとだ。


 毎晩、ジムから追い出されるまで練習して、それでも飽き足らず、ジムから走って帰った。ウエートトレーニングをする時間が足りない感じがして、部活の時に朱嶺をおんぶしてスクワットしたりした。


 「もう間に合わないけど、せめて今晩くらいはゆっくり風呂に入って、しっかり寝ろ。若いから、もしかしたら一晩で回復するかもしれないし」


 代表に腕を引っ張られてサンドバッグから引き離され、更衣室に押し込まれる。さすがのここまでされて、反抗はできなかった。


 帰宅して夕飯を食べる。早々に風呂に入って部屋に戻って、ベッドに突っ伏した。


 ああ、気持ち悪い。


 早くも緊張していて、食べたものを吐きそうだった。あしたの相手、どんな人だろう。また決勝で負けたら、どうしよう。いや、その前に初戦で負けてしまったら? それ以前に、寝坊して試合開始時間に間に合わないかもしれない。スマホのアラームが鳴らないかもしれない。それ以前に今夜、眠れるのか?


 次から次へと腹の底あたりから不安がわいてくる。ああ、練習したい。練習すれば、このモヤモヤをひとときだけでも忘れられる。


 トントンと誰かが階段を上ってくる音がする。誰だろう。竜二か? 母さんか?


 「まいど!」


 ノックもせずにマイが入ってきた。敬礼するように手を上げている。


 「どう? どうや、調子は?」


 手にしていた参考書とノートと、あと何かの紙袋をちゃぶ台の上に放り出すと、ニヤッと笑ってベッド脇に仁王立ちした。


 「どうって言われても……」


 試合のない人はいいよな、他人事で。僕は枕に顔を押し付けた。マイが座る気配がする。しばらく何やらゴソゴソしていると思ったら、急に僕の背中に飛び乗ってきた。


 「うぐっ」


 「元気ないなあ。明日、試合やのに、そんなんで大丈夫なん?」


 僕のお尻の下あたりに馬乗りになって、腰を指圧し始めた。体がパンパンなので痛い。そんなことより、マイの股間が僕のお尻に当たっている。普通ならば興奮してしまうところだが、疲労でヘロヘロになっていることと、指圧があまりにも痛くて、それどころではなかった。


 「痛い。痛いよ」


 「ほんまやな。パンパンやもん」


 マイは指で押すのをやめて、僕の背中を手のひらでゴシゴシとさすり始めた。


 「これでどう?」


 「あ、それはいい。それはOK」


 気持ちよかった。ガチガチになっていた体に、血が巡っていくような感覚があった。それにしても珍しい。試合前日の夜に一緒にいるなんて、あまり記憶になかった。


 「試合の前の日に来るの、珍しくない?」


 背中や肩をマッサージされながら聞く。


 「そうやね。あんまり来たことないなあ。だって、まあくん、いつもすごい緊張しているから」


 「今回もすごい緊張してるんやけど」


 「うん。そうやね」


 マイの手のひらは、体格からすれば分厚い。剣道をやっていたせいだろう。温かな手のひらで首や肩をこすってもらっていると、ポカポカしてすごく気持ちよかった。


 「すごい緊張してるし、今回はちょっと様子が変やから、見に来たんよ」


 様子が変なのは、練習のしすぎでボロボロになっているからだろう。絶対に優勝したい、優勝しなければという思いから、精神的にも相当に追い込まれていた。


 「今回は絶対に優勝したいねん。いつも応援に来てくれるのに、一度も優勝したところを見せられてないから……」


 マイの手が止まったタイミングで、起き上がった。マイはするりと僕の体から下りる。2人で並んで、ベッドに腰掛けた。


 「あいつが一発でマイに見せた優勝を、僕もマイに見せたいねん」


 前からずっと思っていたことを、口にした。マイは少し驚いて、目を見開いた。


 「そんなこと考えてたんや」


 「うん」


 そうだ。黒沢が最初の試合でマイに優勝をプレゼントしたように、僕もマイに優勝を捧げたかった。それができないうちは、いつまで経っても黒沢を追い越せない気がしていた。


 「別にそんなん、気にしてないけどなあ。まあくんは、あいつとは違うんやし」


 マイは困った顔をして笑った。そう言ってくれるのは、ありがたい。だけど、これは僕の問題なのだ。マイが許してくれても、僕はいつも勝ちきれずに、優勝したところを見せられない自分が許せなかった。


 「うん。それはわかってる。でも、やっぱり優勝したい」


 マイは少しお尻をずらして、僕の方に体を向けた。


 「まあくん、試合の時って、何を考えてるん?」


 丸い目をさらに丸くして、聞いてきた。


 「え……。なんだろう。絶対に勝ちたいとかかなぁ」


 本当はここで負けたら相手選手にマイがレイプされるとか、朱嶺がレイプされるとか、そんな妄想をしているのだが、そんなことは口が裂けても言えない。


 「決勝もそうなん?」


 「え……。そうだよ」


 マイは少し体を後ろに引いて、僕をまじまじと見た。


 「まあくん、それはちょっとあかんかもしれへんわ」


 「そうなの?」


 「うん」


 マイは立ち上がると、僕の目の前に来た。顔を見上げる形になる。


 「ウチが剣道部の時に使っていた、とっておきの思考法を伝授してあげよう」


 少しあごを突き出すと、人差し指を立ててニヤッと笑う。


 「はあ、ありがとうございます」


 せっかくマッサージしてもらってリラックスして、早々に眠れそうだったのに、何かまた難しい話が始まりそうだ。


 「まあくん、決勝が始まる前に『ここで勝たなきゃ、ここで勝ったら優勝や』って思ってるんやろ?」


 いや、妄想しています。だけど、そういうことにしておこう。そもそも、それ以外に何か考えることがあるのか?


 「うん」


 「『ここで勝ったら優勝や』って考えた時点で、まあくんの決勝は終わってるねん」


 マイはいいこと言ってやったとばかりに、鼻を高くしてドヤ顔をする。


 「え、どういうこと?」


 「まあくん。優勝するのは、試合が終わって、勝利判定を聞いた後やろ?」


 また人差し指を立てると、僕に向けた。


 「はい」


 「極端な話をすれば、表彰式で優勝トロフィーをもらうまでが、勝負やねん。その前に『ここで勝ったら』とか思った時点で、もう気持ちが切れてしまってんねん」


 ああ、なるほど。いや、ちょっと待って。よくわかんない。


 「??」


 僕は首を傾げた。


 「対戦相手に勝たないとと思ってるやろ? ぶっ殺すとか思ってるんと違うの?」


 「うん……。あながち間違いじゃない」 


 「ちゃうねん。対戦相手は、単にまあくんのパフォーマンスを引き出してくれる相手に過ぎへんねん。そこで精一杯のパフォーマンスを発揮して、優勝トロフィーをもらう。そこまでが決勝やねん」


 「??」


 意味がわからなくて、また首を傾げる。マイは少し困った顔をした。


 「あんな、いつもいつも、対戦相手のことを殺すほど憎いと思えるわけじゃないやろ」


 「ああ、そうね。それはわかるわ」


 そうだ。全日本選手権の決勝を戦った帆足選手は、イカつい見た目と違って、とてもいい人だった。そんな人相手に、よからぬ妄想をたぎらせていた自分を恥ずかしいと思ったものだ。


 「だから、対戦相手は、自分のパフォーマンスを引き出してくれる相方だと思うの。そして、試合の後、表彰式で優勝トロフィーをもらうまでが決勝。そこまで集中していないと、実際の試合では気力がもたないんよ」


 ああ、なるほど。なんとなく、マイの言わんとするところがわかってきたぞ。


 「ぶっ殺すという思考では、自分より弱い相手しか倒せへんけど、パフォーマンスを引き出してくれると思えば、相手が強ければ強いほど、いい試合ができるはずやんか?」


 「ああ、そうか……」


 「剣道の時は、小学生の頃から知っている子ばかりと試合していたから。この子、すごいなあ。一緒にもっと強くなりたいなあと思っていた方が、上達するんよ」


 マイの話は、2段階に分かれていた。1つは試合の前に『決勝だ』と思わないこと。思った時点で満足して、集中力が切れてしまう。表彰式までが決勝だと思えば、試合が終わるまで、集中力は途切れない。そしてもう1つは、相手のことを自分のパフォーマンスを引き出してくれる人と思うこと。そうすれば、自分より強い相手とやればやるほど、高いパフォーマンスを発揮できるはずだ。


 それで勝てるかどうかは、わからんけど。


 「ああ、なんとなくわかったよ。マイの話は2つあったわけね」


 僕は理解したことを示すために、微笑みながらうなずいた。


 「え? 2つもあったっけ? 1つしか話してへんよ?」


 マイは怪訝な顔をする。いや、2つした。要素は2つあった。本人が気づいていないだけだ。だが、そこを指摘すると話がややこしくなるので、やめておく。


 「で、表彰式まで集中するために、や」


 マイはまた人差し指を立てた。


 「今回はウチが、特別にごほうびを用意してあげよう!」


 わざとらしいウインクをして、またドヤ顔をする。


 「なんでしょう。ごほうびって……」


 なんだか、嫌な予感がする。本来なら初エッチとかそんなことを想像するものなのだろうけど、試合前日で猛烈にネガティブになっていて、全くそっち方面に頭がいかなかった。


 「それはねぇ」


 マイは急に腕を組んで体をくねくねさせて、エヘヘと変な笑い方をした。


 「優勝したら、チューしてあげます!」


 自分で言っておいて、真っ赤になって「あらまあ、嫌やわ」とか「マジ恥ずかしい」とか言いながら、手で顔を覆っている。


 「まあくん、チューしたことないやろ? チュー」


 チューと言いながら、唇を突き出す。


 いえ、したことあります……。口が裂けても言えねえけど。


 「はい。まあ……。はい」


 どう返事したものかと迷っているのを照れていると勘違いしたのか、マイはキャーキャー言いながら僕の腕を平手でバチバチと叩いた。そして急に真顔になる。


 「まあくん、優勝してファーストキス! そこまでが今回の試合です! 最後まで集中して、頑張ろう!!」


 真剣な顔をして、ガッツポーズをした。


 ちょっと待ってくれ。


 決勝の前に「これ勝ったら、マイとキスできるんだよなあ」とか思っちゃったら、そこで集中力切れてしまうんじゃね? さっきの理屈で言ったら。なんだかおかしくないか? 混乱している僕を放っておいて、マイは「よし、これでもう大丈夫だ!」と張り切っている。


 「えい、えい、おー!」


 マイは一人で盛り上がって、拳を突き上げた。


 「まあくん、ほら、一緒にやろう。えい、えい、おー!」


 「ああ……。はい。えい、えい、おー」


  気がつけば、マイは僕の部屋で午後11時頃までしゃべっていた。持ってきた紙袋の中身は小ぶりのアンパンだった。僕がやつれて見えるので、少しでも栄養のあるものを口にさせたくて持ってきたらしい。マイが剣道の試合前によく食べていたのだという。そんな話をしているうちに、緊張を忘れていた。


 ありがとう、マイ。優勝するわ。

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