1試合目の相手は、真正会館の茶帯だった。背が高くて色白で、ボサボサに伸ばした髪を金色に染めていた。道着の着方がだらしない。どうしてこんなやつに茶帯を与えたのか? 真正会館の昇級基準に疑問を覚える。
「1試合目だから、しっかり動いていこう。汗かいて、息を作る感じで」
明日斗は「息を作る」という、僕が聞いたことがないアドバイスをした。どういうこと? セコンドなんだから、わかる言葉でしゃべってくれないかと思うのだが、もう聞き返している時間がない。
ポンポンと試合場の脇でジャンプして、畳の感触を確かめる。ひんやりとした感触が、じわっと染み込んできて、自分の体が指先まで温まっていることがわかる。うん、いい感じ。少し体は重いけど、しっかり立てている。買いたての黒帯をギュッと締め直す。下ろし立てなので、硬くてすぐに解けそうだった。
「赤、城山マサシ選手……」
コールを受けて、一礼して開始線まで小走りで行く。審判に「押忍」と十字を切る。まだ相手が来ていない開始線の方を向いて、うつむき加減に目を閉じる。
「マサフミ、落ち着いていこう!」
明日斗の声が背後から聞こえた。
「まあくん、ファイト!」
マイの声も、よく聞こえる。相手選手が試合場に入ってくる足音も、一歩ずつよく聞こえた。
「はい、では、正面に、礼!」
審判の声で、目を開く。ああ、体育館の照明って、どうしてこんなに明るいんだろう。
◇
「お疲れ。よかったよ」
本戦で危なげなく判定勝ちした僕を、明日斗が笑顔で出迎えた。
「ありがとう。でも、ちょっと硬くない?」
「初戦はあんなもんやって」
緊張しているのか、もともとそういう顔なのか。とにかく相手は終始、ニタニタ笑っていて、動きがトリッキーだった。素早くバックステップして後ろ回し蹴りを繰り出したかと思えば、突然近寄ってきて飛び膝蹴りを出したり、次に何をしてくるか、わからなかった。ただ、トリッキーな分、技の一発一発は軽かった。
「雅史、普通にやればいいよ! 自分のリズムでしっかり動こう!」
明日斗の指示通り、ジャブから前蹴り、ワンツーからインローという自分の得意なコンビネーションで攻めていくと、相手はすぐに下がった。2度、場外に押し出して、最後はパンチの連打で畳み掛けた。
なんだ、全然歯応えがないぞ。
次の相手がモヒカンサングラスではないかと次の試合を見ていたが、違った。彼は僕とは反対側の山だった。茶帯だった。デカい体を生かして終始、プレッシャーをかけ続けて黒帯相手に判定勝ちしていた。応援団がすごい。ものすごく柄の悪そうな若い男女10数人が詰めかけてきて「殺せ!」「やったらんかい!」「根性見せろ!」と黒帯でも縮み上がるような罵声を飛ばしていた。
恐ろしい。いくら試合相手が記号とはいえ、あんな怖い声援が聞こえたら、嫌でも意識してしまう。恐怖で急激に指先が冷えていくのを感じる。僕は道着の上から、ジャンパーを羽織った。
2試合目。
相手は1試合目よりも強そうだった。同じように色白ではあったけど、がっしりとした体つきで腰が重そうだった。黒帯だし、なんとなく体格から岡山さんを想像する。グイグイと前に出て来られると、厄介なタイプかも知れない。
「雅史はハイキックは蹴れるの?」
前の試合が終わるのを待っていると、明日斗が聞いてきた。
「うん。あまり得意ではないけど」
「右? 左?」
「どっちも似たようなものかな」
「じゃあ、左を蹴っていこうか」
そう言ってポンポンと僕の背中を叩く。
「え? 得意な前蹴りとかで組み立てた方が良くない?」
「いいから、2度目のコンタクトの初っ端で左のハイキック、蹴ってみな」
試合が始まった。
思った通り、相手はグイグイと前に出てくるタイプだった。重心が低くて、前蹴りを当ててみたけど、止まらない。ステップでグルグル回っているうちに場外に出てしまい、審判に止められて開始線に戻された。
「雅史、予定通りな」
明日斗が声をかけてくる。
「続行!」
審判の掛け声とともに、相手はまた前に出てくる。ここでいくか?と思いながらも、ステップインしてハイキックを蹴った。攻める気満々で突っ込んできていた相手は反応が遅れて、かろうじてガードしたものの、ガードごと僕のハイキックを食らってのけぞった。
ピピッ!
副審の一人が旗を横に出して「技あり」とアピールしている。もう一人は目の前で旗をクロスして「有効な技に見えません」のポーズ。主審はチラッと副審に目をやったものの、試合を止めるつもりはなさそうだ。
止めないのなら、こちらも手を止めるわけにはいかない。僕はワンツーからインロー、そして前蹴りと繋いで攻め込む。そのまま畳み掛けて場外に押し出した。
「雅史、もう一丁!」
明日斗の声が飛ぶ。
一度、ハイキックを浴びて警戒し始めたのか、相手の前に出るプレッシャーが減った。パンチで打ち合っていても、僕の膝の動きに敏感に反応してスウェーバックする。
これに合わせられるんじゃないのか?
左ジャブから左の膝を上げてフェイント。相手はビクッと反応して再びスウェーバックした。だが、僕のリーチなら届く距離だ。ガラ空きになった左足にインローを叩き込むと、すぐにステップインして左ハイ。ミユちゃんが得意なコンビネーションの真似だった。
パシッ!
乾いた音を立てて、相手の首筋に当たった。ピピッ! 先ほど、僕のハイキックにポイントを入れてくれた副審が、また笛を吹いて旗を上げる。主審はそれをチラリと見て「止め」と試合を止めた。
結局、これが技ありと認定され、本戦で僕が判定勝ち。
「よっしゃ、よっしゃ。よくあのタイミングでハイキック蹴った」
明日斗が僕の背中をポンポンと優しく叩いて、ほめてくれた。いや、言われた通りにやっただけなんだけどな。
こうして僕は2年連続、この大会で決勝に進出した。
◇
決勝までは少し時間があった。会場の壁際に座って待っていると、代表がやってきた。少年部の試合は全て終わったという。
「決勝、俺が行かない方がいいかなあ」
全く僕の方を見ずに、真顔で独り言のように言っている。
「代表が来ていただいてもいいですよ」
「でも、俺が行くと毎回、準優勝だしなあ」
僕の方から断らせたいのか、下唇を突き出して、少しすねたような表情をする。
この人、前からそうだと思っていたけど、大人気ないなあ。
僕は正直、決勝だけでも代表にセコンドに入ってほしかった。なんだかんだ言っても一番、僕に格闘技を教えてくれた人だし、試合が終わって真っ先に顔を合わせるのは、代表がよかった。たぶん、代表は泣くだろう。泣いている代表と抱き合って喜ぶ。それが、最高のシーンのように思えた。
「俺が最後まで行こうか?」
明日斗が空気を読まずに割って入った。
「いや、それは……」
もう一度、代表にお願いしようとしたところで、明日斗は思いもよらぬことを言った。
「それともマイに行ってもらうか?」
少し離れたところで立っていたマイを指差す。気づいたマイが「私?」と言いたげに、自分を指差した。
「ああ、その手があったか」
代表もマイを見る。ちょっと待って。マイは格闘技のこと何も知らないし、試合中の技術的なアドバイスはできないと思うけど。
いや、だけど。アリかもしれないな。
「マイちゃんの目の前だったら、絶対に負けたくないだろ」
代表はやっと僕を見た。薄笑いを浮かべている。手招きしてマイを呼び寄せて、サラッと僕のセコンドに入るように言った。
「え? ウチでいいんですか?」
マイは目を丸くして驚いている。
「いいよ。雅史が試合を終えて一番、最初に喜びを分かち合いたい人は、やっぱりマイちゃんでしょ。じゃあ、マイちゃんが一番、そばで見ていた方がいいんじゃないの」
代表は腕を組んで、ドヤ顔をした。どうだ、いいチョイスをしただろうと言わんばかりだ。
「まあくんは、いいの?」
マイは僕に聞く。
え……。どうだろう。でも、もうこうなってしまっては、嫌だとは言えない。
「いいよ。お願いします」
僕はマイに向かって、軽く頭を下げた。
「ええか、相手はただの記号や。まあくんのパフォーマンスを引き出してくれる、ただの記号やから。見た目とか、相手の応援とかに惑わされたらあかんで」
試合を待っている最中にマイが背後から話しかけてくるのだが、とてもただの記号には見えなかった。道着を袖まくりして、ものすごく太い腕を露出させている。その腕に、本当に高校生なのかと疑う和彫があった。道着の胸の隙間からも、和彫が見えている。
真正館は刺青禁止なので、和彫のある人はラッシュガードを着ているのだが、真正会館ではOKなのだろうか。刺青とは無縁の生活を送ってきたので、大会規定のそんなところなんて、意識して読んだことがなかった。
いかにもガラの悪そうな応援団が、試合場の外に集まり始めている。大声でおしゃべりをして、早くも威圧感はたっぷりだ。そして何より、対戦相手のモヒカンサングラス自身が、僕をさっきからものすごく睨んでいるのだ。今はサングラスをかけていないのだが、細く整えた眉毛の下には白目しかないんですか?と聞きたくなるような細い目があって、それがずっとこっちを見ている。
うわあ、めちゃくちゃ怖い。
マイも相手の外見に僕がビビり倒していることを先ほどから承知していて「見たらあかん。見たら飲まれる。ただの記号やで」と耳元で何度も繰り返している。
それはわかっているけど。
怖すぎて、目が離せなかった。さっき軽く翔太にミットを持ってもらって汗をかいたのに、もう指先が冷たい。手をこすり合わせながらモヒカン細目をじっと見ていると、ふとあることに気がついた。
この人、腕の割にはものすごく足が細いぞ。それに、お尻も小さい。
不自然だった。外国人みたいだ。太ったアングロサクソンみたいな感じ。上半身や腕はものすごく大きいのに、それに比べると足腰が貧弱だ。バランスが悪い。
さっきの試合を見た限り、得意技はパンチのラッシュだ。だけど、まだ茶帯。フィジカルの強さと勢いだけで駆け上がってきたクチかもしれない。あの細い脚から考えれば、足技はない。あっても大した威力はない。
あれ? 僕は何を考えているんだろう?
「赤、城山マサシ選手!」
呼び出しがかかった。
「まあくん、ファイト!」
マイにバシン!と背中を叩かれて、その勢いで開始線へと駆け出す。続いてモヒカン細目が、ノシノシと開始線へと歩いてきた。いつもとルーチンが違う。足元がモゾモゾする。だけど、やり直すわけにはいかない。
ええい、もう覚悟を決めろ!パチンと自分で自分の顔を叩いて、正面に向いて胸を張った。
「正面に礼! お互いに礼!」
十字を切って、一礼する。
相対して、目と目が合った。
あれ? なんだ、この不安げな目は? さっきまでの迫力は、どこに行ったんだ?
「死ね!」「殺せや、ゴラァ!」
相手応援団から、大きな声援が沸き起こる。それが、すごくよく聞こえた。言葉の一つ一つが粒になって、はっきりと聞こえた。
「構えて!」
両腕を高々と差し上げて、胸の前で構える。
「始め!」
そうか。相手が記号って、こういうことだったんだ。僕はここに来てようやく、マイや雅史が言っていたことの意味がわかった。