試合の帰り道、明日斗が「雅史の優勝祝賀会をやろうぜ」と言い出した。母さんを見ると「遅くならないうちに帰ってくるのよ」と言うので明日斗、マイ、明科、朱嶺と僕で行くことになった。
翔太も誘ったのだが……。
「翔太も来てくれない? ずっと練習に付き合ってくれたお礼がしたいし」
「……」
翔太はしばらく僕の顔を見つめていた。
「いや。練習するわ」
目を輝かせて、そう言った。
「え、今から?」
「うん」
そう言うと、京橋駅で手を振って地下鉄の駅の方へと消えていった。
「雅史の試合見て、じっとしてられへんようになったんとちゃうか」
明日斗が僕の脇腹を小突く。
「そうなん? でも、翔太は僕よりよほど強いよ。去年は真正館の関西選手権でも優勝しているんだし」
「だからあ、わかってないな、雅史は!」
明日斗は頭の後ろで腕を組むと、呆れたように声を上げた。
「雅史の試合には、見ている人を揺り動かす力があるんだよ。プロ向きやわ。早く総合やって、一緒にプロになろうぜ」
隣で朱嶺がウンウンとうなずいている。
「そうなん? 全然、そんな自覚ないんやけどな」
口ではそう言ったが、こんなこと言われて悪い気はしない。内心ではニヤニヤしていた。
行ったのは、もちろんサイゼリアだ。6人掛けの席に僕の右にマイ、左に朱嶺、そして向かいに明日斗と明科が座った。
せ、狭い。
体の大きさから言えば、女子3人が同じ向きに座るべきなのだ。このメンバーを小さい順から並べると明科→マイ→ものすごいサイズ差→たぶん明日斗→おそらく朱嶺→僕。だが、デカい僕と朱嶺が同じ側に座って、マイは窓際で窮屈そうだった。
「雅史の初優勝を祝って、乾杯!」
明日斗の音頭で、みんな思い思いの飲み物を手にグラスを掲げた。すでに目の前にはそれぞれの食事も届いている。明日斗と明科がたくさん頼んだせいで、テーブルの上はお皿でいっぱいだった。
「まあくん、おめでとう!」
「先輩、おめでとうございます」
「城山くん、おめでとう!」
みんなにお祝いされて、なんだかむず痒い。
「いやあ、ありがとう……」
ジンジャーエールをひと口飲んで、席にいるみんなを見回した。明日斗もマイも朱嶺も明科も、ニコニコしながら僕を見ている。
「で、城山くん! どうですか、優勝した感想は!」
明科が少しおどけて、マイクを持ったふりをして、僕の方に手を差し出してきた。
「感想……。感想ね……」
とっさに言葉が出てこなかった。いろいろなことが脳裏を駆け巡る。電車から飛び出して、真正館京橋道場の門を叩いてドキドキしたこと。初めて組手をして、すごく怖かったこと。黒沢が遅れて入門してきたときの、嫌な予感。黒沢にマイとエッチしたと聞かされて感じた、猛烈な嫉妬と絶望感。
あれからまだ2年も経っていないのか。すごく昔のように思える。
「そうですね。うん……。やっと最後まで勝ち切れたなあって感じです。ずっと準優勝で、応援に来てくれていたマイや朱嶺をがっかりさせていたと思うんで。ちゃんと優勝したところを見せられて、よかったなぁって」
マイの方を見た。早くもミートソースパスタをほおばっている。目と目があって、お互いにうなずく。
「がっかりなんかしてへんよ。いつも一生懸命頑張っているまあくんを見て、ウチは元気をもらっていたから」
マイは口の中のものを飲み下して、言った。
「そうですよ。確かに準優勝よりも、優勝した今回の方が良かったなぁとは思っていますが、それは当たり前じゃないですか。だからって、今までがっかりしていたなんてことは、全然ないですよ」
朱嶺も、僕の肩に手を添えて言う。
「うん。ありがとう」
「先輩も食べてくださいね」
朱嶺は僕が頼んだペンネアラビアータのお皿に両手を添えて、少し僕の方に寄せた。
ワイワイと食事をしながら、きょうの試合のこと、これまでのことなんかを話した。
黒沢の祝勝会って絶対、こんな感じじゃなかっただろうな。お祭り騒ぎが好きなやつのことだから、もっとハイテンションで盛り上がっていたはずだ。
みんな喜んでくれている。彼&彼女らはみんな僕の友達で、黒沢の取り巻きのように大騒ぎをするタイプではない。だから、これでいい。これで、いいんだ。
そう言い聞かせてみても、納得していない自分がいた。
京橋駅で明日斗と明科と別れ、朱嶺を森ノ宮のマンションまで送って、最後は僕とマイの2人だけになった。地下鉄を降りて、家まで歩く。優勝したというのに、疲れているせいもあって足取りは重たかった。
「まあくん、疲れたね。きょうは朝早くから頑張ったもんね。うん、頑張った」
マイはトロフィーを持ってくれた。大きな箱を小脇に抱えて、もう一方の手で僕の背中をポンポンと叩いていたわってくれた。
聞きたくはなかったけど、聞かざるをえなかった。聞かないと、また何を隠しごとをしているのかと突っ込まれそうだった。
「ねえ、黒沢の祝勝会って、もっとにぎやかだったんじゃないの?」
優勝したらもっとうれしくてウキウキすると思っていたけど、そんなことはなかった。むしろ今、僕の心の底には「黒沢と比べて、これでいいのか?」という嫉妬とも憎悪ともつかないドス黒い泥のような感情が、静かに層を作り始めていた。
マイは少し驚いた顔をした。
「え? なんでそんなこと聞くの?」
「だって、気になるんだもの」
マイは少しムッとした。
「まあくんは、まあくん。あいつとは違うよ。きょうはホンマにまあくんのことが好きな人だけが集まって、素敵な祝勝会だったやんか。そんなん、比べなくてもええやんか。いや、比べものにもならんわ」
比べなくてもいいと言われても、僕は比べたいんだ。比べて、あいつより優れていないと気が済まなかった。そうでなければ、僕の優勝には価値がないのだ。僕は少し語気を強めて、もう一度、聞いた。
「黒沢の祝勝パーティーは、もっとにぎやかだったんじゃないの?」
マイは言葉に詰まった。困った顔をする。
そんな顔をさせるつもりはなかった。わがままを言っていることは十分、わかっていた。マイは少し間を置いて、僕の顔をのぞき込みながら言った。
「うん。にぎやかだったよ。周囲がちょっと引くくらいね。あの時はそれが楽しいと思っていたけど、今にして思えば迷惑も考えずに騒いでいただけだったよ。きょうのウチらの祝勝会の方が、よほど楽しくて、心がポカポカした。それは間違いないわ」
僕のドス黒い感情を抑え込む、完璧な答えだった。
「どうしたん、まあくん。もっと素直にきょうの結果を喜ぼうよ」
僕の背中に手を当てる。ジャンパー越しでも、マイの温もりが伝わってきた。
そうしたい。優勝して、それをマイに見せることができれば、心の底に澱のようにたまったドス黒い感情を流し去ることができると思っていた。明日斗が祝勝会をやろうと言い出したときも、参加すれば、なぜか優勝したのにすっきりと晴れないこの気持ちに、何か変化があるのではないかと思っていた。
だけど、違った。気持ちは晴れなかった。これで黒沢に追いついたのか? ようやく1年半ほど前のあいつに、追い付けたのだろうか? その気持ちばかりが、僕の心の中をいっぱいにしていた。
「まあくん、帰ったらチューしてあげるから。ほら、約束したやろ」
マイがまた僕の顔をのぞき込んでいる。だけど、僕はその目を見ることができなかった。
家の前で別れる時に、マイは僕にチュッと優しいキスをしてくれた。
「じゃあ、ほら、約束のあれ」
「え、ここでやるの?」
いくら宵闇が濃くなっているとはいえ、玄関先には街灯もあるし、こんなところでキスをしていたら、通りがかった人から丸見えである。部屋に上がってやるのではないかと思っていたので、うろたえた。
「だって、部屋に上がって改まってやったら、なんか変な気分になるかもしれへんやんか」
マイは少し赤くなって、そして少し怒った顔をする。変な気分って、どんな気分よ。というか、もう付き合っているんだから、少々変な気分になってもいいじゃないか。
「ここで、じゃあまた明日ね、チュ!みたいな感じが、自然でええやんか」
上目遣いで僕をにらむ。ああ、そうか。そういう感じでやりたいのね。
「う、うん。わかった。じゃあ、そんな感じで」
なんだかこっちの方が改まった感じがして、恥ずかしい。顔が熱くなるのを感じる。
「じゃあ、まあくん、ちょっと屈んでよ。届かへんわ」
マイはトロフィーを抱えていない方の手で、僕の襟を引っ張った。少し腰をかがめて、マイの目線まで顔を下ろす。朱嶺の時もそうだったけど、覚悟っぽいことをする前に、マイは僕のあごをつまんで自分の方に引き寄せると、そっとキスをした。チュ!と一瞬、押しつけて、すぐに離す。ずっと一緒に外を歩いていたので、マイの唇は冷え切っていた。吐息とともに、さっき飲んでいたカフェオレの香りがした。
「ん……」
マイは唇を離すと、潤んだ目で僕を見つめた。かわいい。かわいいじゃないか。さすが僕の彼女だ。マイが彼女で、本当によかった。この子がそばにいてくれて、本当によかったと思った。
「きょうは、ホンマにありがとう」
その時、心に浮かんだことを、素直に言葉にした。
「うん」
マイは優しく微笑んで、うなずいた。
「まあくん、まあくんは、他の誰でもない、まあくんだよ。だから、安心して。不安な時には、ずっとそばにいるから」
マイはそう言うと、空いた腕で僕を抱きしめた。
ありがとう、マイ。この気持ちをどう精算すればいいのか、答えが出なかったら、また一緒に考えてね。さっきまでの真っ暗な胸の内に、少し光が差し込んだような気がした。