目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

九 歌声と罵声

「さあて、開場時刻まであと少しかな」

 青くったばかりの爪を見て、ラヘルロベナは一言告げました。

 ユウエリマは控え室の奥で支度したくをしていました。小箱に化粧直しの道具などを移しています。すると、「……ねえ、ユウエリマさん」と呼ばれました。

 その声がした鏡台きょうだいの方へ振り向くと、両手の爪を見せるようにラヘルロベナがこちらへ両腕を伸ばしていました。その表情は昨日と同じで、本番の上演を前に緊張しているのか、余裕を取りつくろおうとしているのか、何とも表せられない無表情でした。

「あんたがこの青を選んだわけは……」部屋のすみのユウエリマにもやっと聞き取れる小声でした。「いえ、どうかな? さっきは選んだんじゃなくて、手に取っただけでしょうけど、この色を見ると、今はどんな気分?」


 支度に集中していたユウエリマは、その質問の真意や先輩があんに伝えることなど、感じ取る余裕がありませんでした。昨日の爪の色を覚えていなかったことにも言及しているのかもしれません。

「爪の色ですか?……とりあえずは、いい思い出がある色かなという気がします」早口になりつつ、ユウエリマは答えました。

 その思い出とは、青の系統の色彩――。


 紺色の練習靴。かつて国士養成学校でイエドと揃いの色でした。

 群青色の≪Juú≫。刺繍ししゅうで〝ユウエリマ〟という名前のつづりの最初の三文字が、頭巾ずきんほどこされています。


 それらは過去の良い思い出と共にある物であり、今ではの目を見ることがなくなってしまった物でもありました。今後はイエドと共に稽古けいこをすることもないですし、あの頭巾はイバという役を演じなくなったときから、ユウエリマ自身が見ないように衣装箱いしょうばこの奥に押し込んであります。


 ラヘルロベナはそのまま話を広げようとしないものの、自分の爪を見る振りをしてユウエリマの様子を見ています。

「……改めて説明しなくて良さそうね。あとは、洗って乾かした瓶に水を入れて来て」少し経ってからラヘルロベナはこう言って、立ち上がりました。

「わたしは先に行くわ。あんたは今日こそ、ちゃんと回り道してよ?――」

 昨日、ユウエリマは建物の中で迷いそうになり、指示された経路の回り道ができませんでした。

「――裏の玄関広間は今頃、ふるくからのお客さんが開場をお待ちなんだからね」

 そう言い残し、ラヘルロベナが控え室を出ました。


 増築を何度もおこなってきたこの劇場の建物は、一部四階、地下二階です。

 二人が居る出演俳優の控え室は、中舞台ちゅうぶたい広間へじかつうじる通路に面しています。しかし、開演時刻の前に客たちの様子を知るためには、そちらと逆方向の経路を通って半地下はんちかの一階へ降りる必要がありました。

 どのように様子を知るかというと、以前は入場者を受け付ける窓口まどぐちだった部屋があって、その中に入るための内部専用の通路に合流する途中、壁にある覗き窓からその窓口を少し見下ろす角度で監視することができるのです。


 かつて、規制が過剰に機能することも多かった時代は、自由な上演が不当に妨害されないために、劇場の関係者が見張りを常駐させることがありました。その名残なごりの一つがこの覗き窓なのです。

 または、劇場側が上演する舞台を別に準備しておき、妨害しようとしている者をあらかじめ見分け、妨害拡大を未然に抑えるための〝無難な演出〟の舞台の席へ割り振る、という実例もあったのです。


 裏の玄関広間は増築前に正面入り口として使われていたので、昔からの常連の人たちが今も開場時刻に合わせてその広間に来ているはずです。


 ユウエリマは小箱と、新しく飲み水を入れた硝子瓶ガラスびんを持って控え室を出ました。すると、通路の壁際かべぎわ長手座席ロングシートに、誰かが座っていました。

 ユウエリマは、先に舞台へ向かっていると思っていたのですが、意外なことにラヘルロベナが悠長ゆうちょうに腕組みをしてそこに座っているのです。

 何かの思案をめぐらせていたようで、腕を組んだまま、ユウエリマに目を向けます。

「今日は、構成を少し変えようと思うの。昨日のお客さん、まるで無反応だったし……。裏の広間に昨日もに来た人が居るかをに――があんたにもわかれば、万全ばんぜんに近づくはずなんだけど――ちゃんと視てから、舞台袖に来てほしいのよ。このさい、時間を掛けずに、できるだけでいいからね。頼むわよ? ユウエリマ」

 ほとんど表情を変えずに両者は分かれ、それぞれの方向へ通路を歩きました。


 ユウエリマは、内心では「今こそ先輩に〝この新入りは、これくらいのことは簡単にできる子なんだ〟と思い直させる好機」と思っていました。

 昨日の閉場後、ユウエリマは今日のためにこちらの通路に下見したみに来ていたのです。そのときは気付けずに素通りしていた例の覗き窓を、今度は運良く見つけました。昨日は足元になかった踏み台が今日は置かれていたので、ふと気になって視線を上げると、その窓があったのです。誰かが踏み台を使って窓を覗いたか、掃除でもしたのでしょう。

 ユウエリマは余計な推測はせず、窓を覗いてみました。ユウエリマの身長なら踏み台を使わなくても、あまり問題はありませんでした。

 それは狭く限られた視野でしたが、曖昧な記憶では昨日も見たことがあるようで、ないようでもある客の数人を何とか目で追いかけてみました。それでも、客たちの身につけている物や持ち物をいくつかしっかりととらえられました。

 ユウエリマはを心得ていたわけではありませんが、ここでこのまま粘って様子を見ていても無駄な気がしてきたので、早めに切り上げるのでした。

 まず優先するべきこと、迷わず、遅れず、忘れず。

 これは養成学校で新入生が初めに教え込まれる、舞台進行の三原則です。ロオムヘントの各方面で標語として掲げられるその言葉は舞台の外でも、他の業種でも重要さが変わることはありません。


 舞台袖では、歌い手のラヘルロベナが共演する小楽隊全員を前にして話をしていました。

 指揮者も兼ねている大型弦楽器奏者は、楽譜に追記しながら歌い手の話に何度も頷いていました。

「きみもつくづく、いい趣味しているよね?」管楽器奏者の一人が、ラヘルロベナに言いました。楽器を持っていない方の手で、上から吊り下げてあった電灯を近寄せて楽譜に向けています。

「もし、そんな人たちが観客の中に居るとして、その一部がむきになって舞台に上がって来ないといいけど……」隣の弦楽器奏者は少々気怠けだるそうでした。

 そのとき、ユウエリマが速足はやあしで入って来ました。

「あんた、寄り道したわねえ?」ラヘルロベナは強い口調で言いました。

「え、いいえ。寄り道ではなく、回り道――」

「まあいいわ。ついでだから、どこへ回り道したか教えてもらおうかしら?」

 ユウエリマは気づきました。この状況はラヘルロベナが、本当の意図を明らかにしないように言葉を選ぶのだということを、ユウエリマへ暗に伝えているのでした。

 ユウエリマが特に理由もなく、勝手に回り道をして来たということにして――。

「すみません、時間があると思って、つい……まだ見に行っていない所を見に行ってきました。裏通り側の玄関広場に、ちょっと行ってみたくて――」こう言いながらユウエリマは、ラヘルロベナと目を合わせます。

「あら、そうなの?」

 その金髪が一瞬舞う勢いで、顔を横へ向けました。

 ユウエリマには、ラヘルロベナがそうして少し顎を引いたのが、「要点を言って」とこちらに促しているように見えました。

「意外とあそこから入場するお客さん、多いんですね。一五人くらい居たようです。昨日に続いて来場した人も、たぶん……数人は居ると思います。ほかにも、三脚さんきゃくを担いだ人、新聞をつつにして持っている人も見ました」

 それを聞いたラヘルロベナは、おもむろに口先を細めて息をき始めるのでした。いつの間にそれほどの量の空気を吸っていたのか驚くほど、長い息でした。

 ようやく息を吸ったので周囲の者が注目しますと、ラヘルロベナが抑揚を付けた良い声で言葉を発します。

もなく始める演目えんもくは、これよ。『歌声うたごえ罵声ばせい』――くくっ」

 その綺麗な容姿に似合わない引き笑いによって、その場の緊張感には、異様な期待感が混ざります。

「……なにやら『美人びじん野蛮人やばんじん』と、同趣どうしゅの題名のようですな?」追記を終えた楽譜を閉じ、め息をいた奏者がつぶやきました。


 ラヘルロベナが「水を渡してくれる?」と言って、少し離れたユウエリマへ手を差し出しました。

「『役者は揃った』――ふん。この台詞せりふ合言葉あいことばなのは、どうも気に入らないわ。座長がみんなと決めた合言葉らしいから、しょうがないけれど……」

 そう囁くラヘルロベナにそっと水の入った硝子瓶を手渡して、ユウエリマは昨日の舞台とは異なる雰囲気を感じ始めていました。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?