ロオムヘントの内陸部。首都フグラスタウドから西南へ三〇
その代表的な城郭と防壁が、この州の原風景と言われます。しかし、それらの大半は放置されるようになっていて、城は旧市街の舗装や家屋の材料とするために解体されるものがあり、各地の防壁は一部だけが残り、争いが起きなくなった現在では農地の中で時代に取り残されたように朽ちているのでした。
過去の紛争が多かった時代は、防衛拠点だったという城や防壁の内側。そこは安全地帯でもあったので、その中では、時代の変化にさほど左右されずに今まで隠れて続いてきた、あるいは権力者によって守られてきた物事が多くあるといいます。
そういった歴史的背景も、ロオムヘントにおいて演劇や伝統舞踊が国技とも称される由縁の一つです。
他の連邦では産業化による古い物事の衰退や、歴史などについての情報統制が厳しいことが少なくありません。ロオムヘント連邦では比較的緩い規制が
それらの一つのヤーイト州。この州の中心地であり、旧国ヤイチの
現在はヤイチ県の庁舎が置かれている、人口が約三〇万人の都市ですが、州内でも数少ない完全に近い城を保存している古都として知られています。古典的な演舞を継承する文化があり、一方で性別に関わらずに歌唱などを上演する自由がある土地柄なのです。
ただし、いずれの演目も政府の許可が下りた公共性の高い屋内施設、つまりは法律によって定められた劇場で上演する制限が伴いました。
公で歌うには免許を持っていることが必須なのです。
然るべき人物が然るべき場所で、決められた時間帯に行う国事。これが演舞に代表される舞台の世界についての、ロオムヘントでの定義でした。古都としての格を維持する上でも、ネムソスト市の行政は市の内外で舞台の管理を徹底させています。
事業としても成立させるために務めている劇団や劇場、舞台関連の業界にユウエリマは身を投じますが、その様相は
虎河渡劇場は、ネムソストの街を象徴する存在であり、ヤーイト州でも有数の歴史ある建物です。そして「虎河渡劇場」という名前は劇団も指すのです。その劇団と劇場が同一の名前で存在するというのは、長い歴史を誇る一座の形態なのでした。
その中では、難解な伝承劇から児童向けのおとぎ話の舞台まで、そして独白劇や歌唱の上演がほぼ年中にわたって行われてきました。時には県内外の別の劇団がこの虎河渡劇場の舞台を使う期間もあります。虎河渡劇場がその期間だけ班を編成して、他の舞台へ出張することもあります。
今の時期は内陸の気候が比較的安定していて、他方へ長距離移動する班も少なくなく、劇場の中は普段より落ち着いていました。劇場の主要な人員がその班に参加しているせいか、上演するのは簡潔な演目や、舞台装置を多くは使わない内容ばかりになるのでした。
養成学校を卒業するなどして来た新人の俳優にとっては、環境に段々と慣れていくための時期と重なるのは良い状況なのですが、ユウエリマにとってはそうともいえませんでした。
劇場の二階。舞台の控え室。
その奥にある棚の引き出しには、たくさんの小瓶が入っていました。その中を引っ掻き回しながら、ユウエリマは焦りを募らせていました。
そして、後悔もしていました。学校では化粧を拒否していたユウエリマですから、下積みの一環として女性の役者の付き人になってみて、理想と異なる現実を感じていました。
もちろん、困難に立ち向かうことになると分かっていました。目標に達するまでに壁が立ちはだかることも想定して来たつもりです。
鏡台の前の女性俳優が、抑揚のない声を使って言います。
「ここに来てからあんた、一週間? そろそろ、経つんじゃなーい……?」
一昨日までの数日間にわたって、ユウエリマはこの虎河渡劇場の先輩・ラヘルロベナの稽古に同行してきました。それは一時間に満たないこともあったり、あまり集中しているように見えない、五時間も断続的に歌ったり楽譜を見たりする稽古の内容でした。稽古といっても、劇場の建物にあるラヘルロベナの自室で行う個人練習に立ち会っただけのようにもユウエリマは思えました。
「昨日が業務初日なのを考慮しても、おかしいわね……。養成学校卒業って聞いてたから、こちらはとっくに基本ができてる子が来るとふんでたのに」
その先輩の、小さくない独り言の声。
昨日から始まった仕事場の動きは、今もまだまだ覚束ないのでした。養成学校出身者にとっては、付き人は形式上の短期間で終わる仕事です。通常は、学校での班行動が実務の予行になっているのですが、当時ユウエリマはイエドと同様に班の枠組みから特別に離れて学んできました。
衣装や装飾品は目に見えるところにあるので、指示が来たらユウエリマでも何とかなりましたが、容器に入っているものはそうもいきません。
「座長はどういうつもりなの……?」また独り言が聞こえてきました。
ユウエリマは男性役と女性役の化粧道具に違いがないと思っていましたが、女性役が爪に色付けすることは覚えていませんでした。
「……あれでは右も左も分からない見習い同然」
養成学校では他の女子生徒の進む道とは、何もかも異なっていたユウエリマ。
おもむろに取り出した瓶を、電灯に
「あんた、昨日のわたしの爪、見たの?」ラヘルロベナは少し声を強めました。
ユウエリマは俯き、短い深呼吸をしました。そう言われても、覚えていないものは探しようがありません。覚えているのは、舞台袖からユウエリマが初めて見た実際の舞台の上演と、その雰囲気でした。
照明がつくる陰影と、集中照明を浴びるラヘルロベナの立ち姿。そして、小楽隊の演奏と歌手の歌声が重なる空間。それは絵画の額縁のように区切られた世界へ、現実の観客たちを招き入れるのでした。舞台の奏者と観客が共に作り出す世界が、そのときだけ、その場所にだけ広がりました。
その雰囲気に呑まれたユウエリマは、上演の途中から目を瞑っていました。気付いたとき、歌唱の上演は終わってしまいました。なぜ目を瞑っていたかというと、ユウエリマは同級生だったラヘナを思い出していたからです。
当時ユウエリマが、養成学校で卒業前に各班でそれぞれが異なる作品を上演するという修業課題に臨む際、ラヘナだけが共演の頼みに応えてくれたのでした。共演を約束していたイエドが練習中の事故で怪我をしてしまい、班に入っていないユウエリマが孤立して困っている
しかし、イエドの怪我をしたことがきっかけとなり、ラヘナはそれまでの態度を改めて協力的に接しようとしていました。
そしてあのときの、ユウエリマとの共演で歌声を披露したのを最後に、ラヘナは歌わなくなってしまいました。
ラヘルロベナの歌声を聞くとどうしても、ユウエリマはラヘナの歌声を重ねてしまうのです。
「……ユウエリマさあん――」
ユウエリマのすぐ後ろで、ラヘルロベナが呼び掛けています。
「――もう、昨日の色でなくても構わないから。適当に気分で選ぶことにするわ」
ユウエリマが手にしている瓶に、視線を留めました。青色が入った瓶でした。
それは碧い瞳のラヘナを思わせる色合いでもありました。