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七 しまい込んだもの

 授業が終わり、ラヘナとエズビエナはそのまま教室に残って復習を始めました。やはり、さきほど受けたばかりの授業の復習は、すんなりと進むのでした。


 エズビエナが筆記具を片付けながら言いました。

「ちゃんと授業の内容を聞いて覚えてるじゃない、ラヘナ」

「……思っていたよりも、先生の雑談が、多かったから、なのかな」

 復習しているあいだも今もこうして、ラヘナは歯切はぎれの悪い口調でした。

「本当に? わたしは思っていたとおり。あの先生は、別の科目でも雑談と雑学をはさみながらの授業だって聞いてたから――うわさだったんだけどね」

「――ふう」と、ラヘナは息をつきました。「とりあえず、と。何て科目だったかな、そう、『心得こころえ心掛こころがけ』は、心配までする必要がない、のかな……」相変あいかわらず歯切れの悪いままでした。

「ラヘナ?」

「うん……」ラヘナはエズビエナの方を見ず、ただ生返事なまへんじをするのでした。

 その顔は少し不機嫌なのか、何かをおさえているのか、どちらとも判断できません。

「どうしたっていうの? どこか具合ぐあいが悪かったりしない……?」

「……いいえ。どうしてそんな――」ラヘナはようやくエズビエナを見ました。

 二人は目が合いました。

 すると、エズビエナがいなずいて言いました。

「復習は、あっというだったし、もう少し付き合うからさ」

「そうね。それじゃあ……、もう少しお願いね」

 ラヘナは手帳を開き、そこに≪Iedo≫(イエド)と書いてエズビエナに見せました。

「それとも――」と、ラヘナは続けました。

 ≪Íedo≫(ヒエド)、≪Iédo≫(イヘド)と書き並べました。

「――こうだったかしら。どう? エズビエナは」

 エズビエナはそれを見て、思い出そうとしています。「それ、何か気になるの?」

「……ちょっとね」

「ふうむ、あ? さっきの、最初の時事じじのことを話していたとき!? 先生が黒板に書いたような……」

「そう、覚えてる?」

「……この〝イエド〟かな、たぶん」エズビエナは≪Iedo≫をしました。

「やはり、そう……」ラヘナはまだ納得できかねていますが――「でも発音も、そう聞こえたし、そうなのね、エズビエナ」

「ええ、わたしもそう聞こえたから。ちょっと、辞書を借りるわ。…………むむ? どのつづりもっていない」

「はあ。なんで辞書にもない――これ、どうしたら……」

「本当だわ。不思議――でも、どうもしなくたっていいでしょう? そんなことより、明日が大事でしょう、ラヘナ」

「自分でも、分かっているつもり……」

「分かってるのなら、それについての詳しいことはあと。試験を受けてから考えればいいよね? 明日の試験さえ乗り切れば、好きなだけ調べられると思ってみて?」

 ラヘナはエズビエナの話しをよそに、その手から辞書を取り、今度は自分で調べようとします。エズビエナはそれを見て、どうしたものか――というように、辞書を取られたその手を口元に添えて考えます。

「そうだ。それに、来週にはラヘナさん、貸し出しされるものは何だったか、ご存じですね?」

「うん。そうらしいけど、何が……何だか……」ラヘナはどうにも上手うまくは話せない気分でした。

「ラヘナさん? その〝イエド〟を調べるって課題は出されていませんよ。授業は聞きらさなかったのに、どうして聞いたはずのないことを……」徐々じょじょにエズビエナは顔をくもらせました。

 しばらく黙った二人は、同時にめ息をつくのでした。


「口では説明ができなさそうね……」エズビエナは口調を戻して言いました。

 エズビエナは自分の髪を手櫛󠄁てぐしかしながら続けます。

「それなら、このあと帰ってから、頭の中を文字にしてみればどうかな。思うことの全部をとにかく書きつらねて、後々あとあとに取って置くっていう儀式ぎしきのような、おまじない――? どう? これをやってみるの」

「試験をえるまで、それを目につかない場所に置く、ということ――?」

「……それもいいけど。どのようにでもいいよ。一時的に自分自身から切り離すつもりで、捨ててみるのも、封筒に入れてみるのも、ね。ものはためしっ……!」

 ラヘナは、それを試してみて少しでも気持ちが切り換われば助かる――という思いでした。

「それは中々、良さそうな考えね」ラヘナは辞書をかばんの中にしまいました。

 すると、エズビエナの両眉りょうまゆが、きりっとあがりました。

「……そうでしょう?」


 二人はそうして、いつものように「ありがとう」と「いえいえ」のり取りを今日の別れぎわにして、静かに笑いました。ただ、今回のわかれの言葉は「また来週」でした。

 その違いに、ラヘナは思うことがありました。これまでの決まった流れを変えたいのでした。

 まずは、明日の試験に合格すれば、しばらくは時間を試験の備えに取られず、自分で授業と課題をこなすようにできるのです。そうすれば今度はラヘナのほうから、何かをエズビエナにしてあげるようになれそうです。


 自分の部屋に帰って来たラヘナは、まずは試しにと思い、エズビエナの言ったように整理できていないことを書いてみることにしました。

 早速さっそくラヘナは机に向かい、勢いのまま書き並べていきます。


  どうして〝イエド〟が樹木のこと?

  これは後で調べよう。


  先生は、ネヴェイニ先生は知っている?

  あの手紙にあった三人の今。それぞれの今。

  いつか、改めて手紙を書こう。


  イエド

  同級生だったイエド、あれから立ち直ってくれた?

  手紙で分かる限りのことだけ。

  きっとそうだと信じよう。


  ユウエリマさん

  学校で徹底してえんじた、あれのこと?

  また男のやくをする気?

  実際の劇場で、無謀むぼうだと思う。


  グダサ

  なぜだろう? 推薦を辞退しなかった。

  あの実力のまま、サリ市の大きな舞台で通用する?

  本来ほんらい順当じゅんとうならば、グダサではなく


 ここまで書いたラヘナは、記憶のおくにしまい込んだことを、思い出します。

 そして、大きく息を吸って「書けばいいのね、書けば……」と呟きました。


  あの日のこと。

  あれが起きなければ、順当だったはず。

  グダサではなく、イエドのような相応ふさわしい実力の役者が、大きな舞台に。

  〝イエド〟とイエド、どういう関係なのか、

  知りたい。知らないことが多い。

  仕方がないこと。でも、もしも、あの日に

  昔の台本さえ、見つけなければ。

  わたしがあきらめていれば

  何も変わらずに済んだのかも。

  もし、


 ラヘナは手をめます。自身も予想していなかったことまで、書いていました。

 すると、その書いている内容をにぎつぶすように、紙をつかみました。そのまま手に力を込めていき、しわくちゃにしてしまいました。

 ラヘナの心に、る気持ちがいてきました。


 本当は歌いたい。


 ラヘナは、今は文章を書くより、声を出して歌えば、気分はきっと良くなるのです。

 しかし、ラヘナはその手の紙を広げて皺をばし、書き直します。

 それは、さきほどのなぐり書きのような勢いとは違い、静かな動きでした。


  イエドから、その相応ふさわしい才能を持つかれから、演舞えんぶを奪ったわたしは、歌うことができない。

  わたしがあのときにやったことは、舞台に立つ者のすることではないのだから。


 そして、冒頭の文を線で取り消して、書き加えます。


  イエド

  かれのあしを、いつか、なおせるように。

  そのために、わたしはここまで来たから、

  別のイエドの名前が現れたって、悩まない。


  ユウエリマさん

  かれだって無謀な挑戦をしているから、わたしも挑戦したい。


  グダサ

  あのときのことを、かれにいつか問い詰めてみないと。

  なにかが変だった。あの日は特に、何だったのだろう。

  それを、いつか確かめよう。

  でも、過去は変わらない。これから先を変えていくんだ、わたしは。

  わたしは、あれから変わった。

  だから、できるはず。明日の試験も、いや、必ずやるんだ。


 ラヘナは椅子の背凭せもたれに沿って背中を伸ばし、深く呼吸をしました。


 ――それを数回、繰り返しました。


 そして、何かを思い立ったように、床へ手を伸ばしました。そこに置かれていた手帳を拾い上げると、ラヘナはそれからネヴェイニの手紙を抜き取るのでした。それを手にして、改めて決意を固めます。

 しっかり集中して、証明試験に合格して、その報告を先生に届ける!

 そう心の中で言い、ラヘナは手紙と、皺くちゃにした紙をしまおうと、机の引き出しを開けました。その中に、いくつかの便箋びんせんや切手、封筒がありました。これらのほとんどはこれから使っていくものですが、その内に何枚か、すでて先が書かれてあったり、切手がられたものがあります。

 ラヘナがこの街に来てからの数日間、何度も手紙を書いて出そうとして、いくつかためらったのかもしれません。


 今のラヘナに、ためらいのような気持ちは、最早もはやなくなっているようでした。手紙と皺くちゃな紙を引き出しに入れて、じっと見つめますが、ゆっくりそれを押し戻し、机の中に納めました。

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