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六 苦手な優しい声

 ラヘナは立ち止まると同時に鼻歌をめました。すぐさま周りを見回します。

「――あら、止めてしまうのですか……」ゆったりとした、それでいて少し高い声でした。

 ラヘナはその声がした、廊下の曲がりかどに目を向けました。すると小柄な教師が歩いて来てラヘナへ笑顔を向けます。

「もしやわたくし、驚かせましたか?――あ、誰かと思えば、スロオキオさん。きみでしたか」

「……こんにちは。先生。では急ぎますので、これで――」

「そんなにせわしくしなくてもいいじゃない。もうちょっと一緒に歌えられればいいのに、ねえ……」

 ラヘナは、自分の母親と同じような優しい声色こわいろで話すその教師に、何となく苦手意識がありました。

「すみませんが、この後の授業開始にに合わなくなるので、わたしはこれで。失礼しました」

 教師はその後ろ姿を見送ります。

「そうか。明日の試験を受ける生徒は、あのスロオキオさんだったわねえ……」


 ラヘナは厳格な体育学校ともいえる環境で身につけた、目上の人物との応対で上下関係をわきまえる意識を持ち続けたままなのでした。そのせいで、この医学高等学校で浮いた存在となっていました。

 今も職員室で、そのラヘナについての話題が始まるのでした。

「国士学校出身のスロオキオさんが、さっき廊下で鼻歌していましたよ。わたしたちの世代にはお馴染なじみの、昔の劇中歌げきちゅうか旋律せんりつなんか歌うものですから、ついつい、わたくし歌ってしまいまして――」

「聞くまでもないでしょうけれど」机の上が山積みの教師が言いました。「そうしたらどう反応されました?」

「教頭……。はい、意図せずでしたが、途中で止めさせてしまって――わたくしが、廊下の角で、姿が見えないところから歌を重ねたせいでございまして」

「そういったことだと思っていましたよ。いけませんね」すると机の席から立ち、顔を見せました。それは生徒に見せる顔よりは、少し緩い表情にも見えます。

「ええ。明日は他の生徒が休日のときに、かれだけが登校して来るのに、わたくし迂闊うかつでした」

「まあ、かれ本人の自信か安心ができたから、鼻歌をする気になったのだと良いですね」

「ええ、そうですよ、きっと。あの国士養成学校を卒業したくらいですもの。そう容易たやすく気をゆるめるはずがありませんし……」


 一方のラヘナは、授業が行われる教室へ向かっていました。友人のエズビエナは先に移動しえている頃でしょう。

「……何か調子がくるうみたい」ラヘナはつぶやきました。

 それは、鼻歌に突然歌を重ねられたことではなく、手紙を読んで同級生だった人たちのことを思い出したことかもしれません。例の手紙の三人は、ラヘナにとって重要な転機となった存在です。それに至ったのは、共に過ごした時間の長さでもなく、志を語り合ったわけでもなく、あの事故が起こるまでの些細ささいなことの積み重ねでした。

 そのときのことをなるべく思い出さないようにして、ラヘナはかつて歌唱の練習に明け暮れたこと、そして、最も長く時間を費やした劇中歌の旋律を思い出し、自然と鼻歌を歌っていたのです。


 ラヘナは教室の中へ入ると、エズビエナが手を振る姿が見えました。

「お昼のときは、騒ぎ立ててごめんね」ラヘナは少し苦笑いをして言いました。「あなたの助けで提出期限に余裕で間に合った。ありがとうございます」

 ラヘナはエズビエナの隣の席に座りました。

「いえいえ。どういたしまして」とエズビエナは返しました。「でも、ラヘナが謝らないで。新入生に課題を出しまくる先生がどうかしているだけなんだから」

 ラヘナは生徒が教師について良くない言い方をすることに、少し抵抗感が残っていました。

 ただし、国士養成学校が世間離せけんばなれした厳格さをえてたもっていた理由も、ここの学校で教師と生徒がへだてなく話す理由も分かっているつもりなのです。

 医学の分野では、先進的なことを学ぶ必要もあり、伝統を重んじる国士とは様式などが異なるということが分かったからです。新しいことや変えていく余地を探究たんきゅうする上で、上下関係に捕らわれないやり方が良いのでしょう。もちろん、ここの教師にも様式などの個人差があるのは当然です。

 例の課題の出し方もそうでした。これから始まる授業は、年配ねんぱいの教師が担当しています。かれが受け持つ授業で課題が出されたことはありません。今、授業開始が二、三分遅れていても、教室に入ってきたその教師は、ゆったりとした足取りで教壇きょうだんにつきます。

「それでは、『医学の心得こころえ心掛こころがけ』の授業を始めます。まずは、教科書を開く……そのまえに、本日ほんじつ時事じじについて話しましょう。――みんな、万能薬の存在を信じますか?――また、信じられますか? 生徒のみんなは若いから、知る機会がなかったでしょう。かつて、その名に相応ふさわしい効能を持つ薬があったと言われています。しかし、それは失われてしまった……正確には、その成分を手に入れられなくなってしまったと」

 この教室の生徒は、何かの昔話かおとぎ話を聞いているような気分でした。その教師のいた声も相俟あいまって――。

「先生、若者としては一つだけ、気になるのですが?」ある生徒が挙手をしました。

 教師は片手で生徒の方をして「どうぞ」と言いました。

「先生のように若くない人は、知る機会があったんですか?」

 少しくすくすと、教室のあちこちから聞こえてきます。

「ええ、そう言えるでしょうね。みんなが生まれた頃よりも前のことですからな」

 教室はにわかに生徒同士のおしゃべりが始まるのでした。

「何の薬か分かる?」「親から聞いたこともないよね」

「あの先生の年齢だと、わたしの親でもまだ生まれていない時代かも?」

「ちょっとだけなら、おれも知ってるかもよ。じいちゃんがよく言ってた。療病りょうびょう施設は、今より昔の方が良かったって――」「薬とそれ、関係がある?」

 教壇の方から黒板をたたく音が響いてきました。

「みんなは、うっすらと知っているでしょうけれど、医学の進歩は近年まで抑圧よくあつされておりました。うむ、正確に言えば、革新することが必ずしも人々の幸福につながるとは限らないのだと。そう結論付けられたのです」

 教室は静まり返っていました。教師の話が深くなっていく予感が、生徒たちにも気付けるほどだったのです。

 その予感ですが、ラヘナは以前にも感じたことがあるような気がしていました。かつてシェダフムで毎日のように聞いていた、教師たちの演技がかった話し方と、今の年配の教師の雰囲気が一気に同じ質感になっていくのでした。

「この『心得・心掛け』の授業内容でも、次第に触れていきますけれど、最近ですね、再びその幻の万能薬は世間の注目を集めるかもしれませんね。かつては一部の地域でしか流通させることができず、霊薬として少量が継承されていたものが、その万能薬が世に出るまえの形でした。一部の地域といったのは、うわさではその薬の成分が特定の、唯一ただひとつの植物からのみ、抽出ちゅうしゅつされていたらしいからです。

 それは長年、安全保障の観点から国家機密あつかいもされていたようですが、ある記者のかたが情報公開を政府機関に求め続けてきたそうです。関連文書の部分公開が、ようやく実現しましたよ。わたしが購読している医療専門誌にも、今月、掲載されました。

 これがですね、あまり具体内容ではありませんが、画期的でした。記述によると、ええと……『今では絶滅したとされているイエドという名の樹木が、万能薬の成分に関係している』と、こういうことなんですよ」


 ラヘナは、教師が突然その名を口にしたので、自分の聞き間違いかと思いますが、黒板にもその名前のつづりが書かれていくのを見ました。

「何が、何ですって――?」ラヘナは思わず言いました。

 教師はそのまま話を続けます。

「ちなみに、来週にはその専門誌が学校の図書館にて、貸し出される予定です。それでは、時事はこれくらいにして、教科書を今度こそ開いてください」

「……ラヘナ?」エズビエナは声をひそめて言いました。

 答えるラヘナも声をおさえて言います。

「先にお願いしてもいい? この授業が終わったら、すぐに内容を復習したいと思うはずだから、手伝ってほしいの」

 この授業は、これから集中して受けられる自信がありませんでした。少しばかり言動も普段通りにできませんでした。

「それはかまわないけど、どうしたの?」

 エズビエナはラヘナの顔を覗き込むようにして見ました。そのラヘナの視線の先には黒板があるのですが、たった今〝イエド〟の文字が、教師によってき取られたところでした。

 しかし、ラヘナの目には、しばらくその文字が消えずに残っているようでした。

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